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2005年05月31日

●ハンセン病訴訟勝訴4周年記念シンポジウム打ち合わせ

打ち合わせが富山西別院でありました。
この活動には昨年ほとんど関われませんでしたが、再びがんばろうと思っています。
 
このごろは本願寺派の方々ががんばっていて、大谷派の出席者が少ないのが残念。
 
以下、ごぼはんだよりより転載
 

 
 
ハンセン病訴訟勝訴4周年記念シンポジウム
今こそ考えよう ハンセン病

2001年5月11日熊本地裁は、ハンセン病回復者に対する国の隔離政策の過ちを認め、国の謝罪と賠償を認める判決を下しました。あれから4年が経過しました。
今回、判決の原点に戻って、裁判の女性原告である上野正子さんと、弁護団代表の徳田靖之さんをお招きして、シンポジウムを開催するとともに、写真展を併催し、あらためて判決の意義について考えたいと思います。
日 時  2005年6月24日(金)午後6時30分〜8時50分(午後6時受付開始)
会 場  富山市民プラザ(4階アンサンブルホール)
講 師  徳田靖之氏
(ハンセン病国家賠償西日本訴訟弁護団代表)
      上野正子氏(ハンセン病国家賠償西日本訴訟原告)
日 程
   6:30 開会
   6:40 いま 富山では   …若者立ちが
   7:10 シンポジウム  「熊本訴訟から4年  あらためて判決の意義とこれからを問う」
   8:45 閉会
参加費  500円(資料代として)

主催:ハンセン病問題 ふるさとネットワーク富山


<併催>
高波 淳(朝日新聞カメラマン)写真展
「生き抜いた!ハンセン病元患者の肖像と軌跡」
6月23日(木)〜26日(日) 午前9時〜午後9時
               ただし、23日は午後1時より会場、26日は午後6時にて終了
◎富山市民プラザ2階ギャラリーA
<<入 場 無 料>>

●日曜学校指導者研修会

北陸連区児童教化 日曜学校指導者研修会「広がれ、あそび心」〜響き合う大人として〜が上市町にて開催され、スタッフとして参加し、司会進行をしました。参加者は35名。
講師はあそび・劇・表現活動センター アフタフ・バーバンの北島尚志さん。
5年ぶりにお会いできました。寺院での子ども会活動に行き詰まりを感じていたときだけに、中島さんの現代の子供たちと寺院の状況を踏まえたお話は、とてもありがたかったです。これからの方向のアドバイスになりました。当日のメモをテキストにしておこうと思います。
 
私たちが戦っているもの
○めんどうくさい←便利さ、速さの追求、How to本の氾濫
○禁止のまなざし
○「子ども」として生きさせない関わりを閉ざす社会
大人が子どもの遊びを提供しようとする(アミューズメント施設)が成立
→おもしろいものを子どもたちに常に与え続けなければならないという強迫観念
「子ども」とはこういうものだという断定→遊び心がはぐくまれるわけがない
足りないもの  時間 空間 仲間
子どもと大人のズレ
ゲームをやらせたいのかやりたいのか
大人の提供した枠組みから子どもは想定外の遊びを見つける
あそびのポイント
自分のペースで面白さにむかって強制されず自ら選び取る
やりとりと関わりの中から広がっていく 達成感 答えはひとつでなくていい
想像する力 表現する力 五感をテーマに
遊び−イメージ=ゲーム
寺院の活動はこれからどの方向に向かうのか明確に、そこからどうするのかが見えてくる。
フリースペース? ミニ児童館(無条件でありのままを受け入れる場所)?
子どもたちと遊びあう場所(非日常)? 拠点(場所貸し 地域に開放 温もりのまなざし)?
自分はリーダー? コーディネイター? スタッフ? スタッフ育成者?
継続には覚悟とネットワークが不可欠

2005年05月29日

●祠堂経法要

28日が80人 スタッフをいれたら100人近くの参詣があり、満堂になりましたが、
29日には、地域でお葬式があり、その半分になりました。
両日の午前中にお内仏の給仕について説明しました。これはよかった。
午後、わたしもすこしお話をしたのですが、整理できていませんでした。不評。
 
思いを伝えるには言葉が必要で、そのためには勉強しないといけないと、痛烈に感じました。

2005年05月26日

●いきつけの店

以前、車で15分ぐらいのところにある「くるまやラーメン」のねぎ味噌ラーメン、辛みネギを白ネギに変えてもらってメンマをトッピングしてもらうのが好きで、週に一度は食べに行くということをよく書いていた。
http://www.kurumayaramen.co.jp/
先日、ふとそこを通りかかると、無残にもその店が取り壊されていた。そして今は跡形もない。実に寂しく悲しい。他にもチェーン店があるようなのでそこに今度いってみるかな。

さて、駅の隣りにあるなんの変哲もない本屋がこのごろ気になるようになってきた。
http://books-nakada.co.jp/station.html
ここには「風の谷のナウシカ」コミック版が、もうずーーっと長いことそろえて推薦図書みたいに全巻陳列してある。
風の谷のナウシカ 3 (3)こうドーンと。

そこからしてもう只者ではない雰囲気なのだが、ここのオススメ本の選び方が尋常ではないのだ。このごろ本を読むのがおっくうになってきていたのに、ここへ行くと、どうしても、3,4さつはレジに持っていかざるを得なくなる。それも選びに選んだ末だから始末が悪い。「悪について」もここで買わされたということだ。
応援してるぞ、BOOKSなかだ、富山ステーション店!

2005年05月25日

●「悪について」


悪について

私は大学で哲学専攻だったのですが、ある先生から「哲学とは分析であり、人生論ではない」という訓辞を受けまして。
まぁ、その先生はそのまんま、分析哲学の先生だったんですがね・・

それから哲学というのは物事を考えるヒントや手がかりになるとしても、そう期待できるものでもないから、難しくて頭痛くなるし、時間がをかけて学ぶもんでもないなと考えて適当に卒業してまいりました。

はい、これは、落第哲学徒が負惜しみ言ってるんですがね・・

この本で取り上げられているカントの考えるところの「道徳的善さ」なんですが、一片の自己愛が行為に入り込むことも許さないとか(自己犠牲も奉仕もすべてその例外ではない)、実に厳しいものなんです。カントの定義に正直に随えば、世間に道徳的行為なんて成立するはずがないです。その意味では実現不可能な、まさに哲学的道徳でありまして、まぁ研究室でもって知識人たちが言葉遊びしてるだけのもんだとしか受け止めようがない感じ。

ところがですね、この本の作者、中島義道さんはそうは考えなかったんですわな。

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 いまやわが国では、親殺しや幼児虐待や少年による傷害・殺人など、残虐な犯罪事件が毎日のように起こっている。ジャーナリズムは騒ぎ立て、次々に教育評論家や精神病理学者や犯罪心理学者、はたまた歌手やタレントやスポーツ選手までが、テレビや新聞に登場して、わがもの顔に「対策」を論ずる。私には、このすべての現象がきわめて不愉快である。

 犯罪被害者(とりわけ遺族)には、何も言うべきことはない。「なぜ?」という問いが、「なぜ、うちの息子が?」「なぜ、私の夫が?」「なぜ、俺の恋人が?」という問いがからだを貫き、世界全体を凍りつかせていることであろう。

 私がはなはだしい違和感を覚えるのは、こうした残虐な事件について語るレポーターやニュースキャスターやコメンテーターたちの鈍感きわまるふるまいである。一様に、異常事態に驚き呆れたという顔をし、沈痛な面持ちで現代日本人の「心の荒廃」を嘆き、「どうにかせねば」と提言する。あたかも、自分はこういう悪とはまったく無縁の安全地帯にいるかのようである。自分の血液の中には悪が一滴も混じっていないかのようなそぶりである。犯人(容疑者)を異常な者、自分を正常なものとはっきり区分けしたうえで、彼(女)の行為の恐ろしさをこれでもかこれでもかと力説する。それに留まらず、社会がこういう人物を生み出してしまったことを嘆き悲しむ。いや、さらに、彼(女)に哀れみをかけ、「人間であれば」いつか改心することを、遺族への「心からの謝罪」を期待する。

 もちろん、彼らの言葉は、ある社会的役割を自覚してのものであろう。だが、それに何の後ろめたいものも感じないとすれば、自分を棚に上げたしらじらしい発言に対しあとで激しい自己嫌悪に陥らないとすれば、彼らは私とは異世界の住民である。

 彼らの言動を膨大な「善良の市民」たちが支えている。自分を何の躊躇もなくまともな人間の側に置き、犯罪被害者に心からの同情を寄せ、犯人(容疑者)に不思議な動物でも見るかのような視線を注ぐ。この安定した固い枠が永遠に続くとでも思っているかのような自信に満ちた態度である。自分の中の悪を見ようとしない彼らは有罪である。自分の中の悪に蓋をして、他人を裁く彼らは有罪である。

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ウウム、カント倫理学を読み込んで、こういうふうに現実社会に対して発言するところが、すごく驚きです。カントが究極的な現実に存在しえないような善を導きだしたことを、こういう風に、なあなあであたりまえにしていた現実を照らし出す、鏡のように使ってるんですわ。
 さらに、作者は悪を必然的に内包している人間が、真の道徳に生きるというのはこういうことだと結論します。

「根本悪のもとにあるからこそ、われわれは道徳的でありえるのだ。根本悪の絶大なる引力を知っているからこそ、われわれは最高善を求めるのだ。われわれには絶対的に「正しい」解答が与えられないと知っているからこそ、それを求めつづけるのである。」
 
 解答がないと分かっていても、それを求めつづける。迷いつづける、立ち止まることなく歩み続けることが道徳的に生きることになっているってのは、なんだか、どこかで聞いたことがあるような気がしますな。。。

2005年05月24日

●のりピー

昼 たまたま「スタジオパークからこんにちは」を途中からみたら酒井法子さんが出てました。
朝の連ドラ「ファイト」でお母さん役で出てますね。

このドラマぜんぜん見なかったのですが、先週の本仮屋ユイカさんが不登校になったころからちょと関心が出てきまして。
ユイカさんってなんだか大人びてるというか、若さを感じない人だなんて思ってたんですが、今週に入ってから急に幼いくらいやわらかい表情になってきたというか。
制服を着なくなったからかもしれませんが、なんだか気になる俳優さんになってきました。

酒井法子さんは、昔から変わりませんね。ちっちゃいんだけど気が強いといっていいくらい勝気で元気な人で。
番組の最後に、あの懐かしの手話をすこし使われたんですが、そうするととつぜん魅力的に見えてびっくりしました。

こう、他人が急に違って見えてくることってあるもんです 不思議なもんです

●「Zガンダム」から「ガンダムSEED DESTINY」へ

次回、主人公シンが、助け守ろうとした少女と、敵となり戦う展開になってしまった。かつてのZガンダム(20年ぶりに映画版が作成されこの28日に第1部が公開)と同じ構図だ。Zガンダムでの悲劇がこの新ガンダムでも、とうとう繰り返されるようだ。想像しただだけで心が痛む。年齢を重ねるにつれて、愛するもの同士の別離というモチーフにすごく揺り動かされるようになってきた。

 戦場でしか戦争の残酷さは分からないのだろう。
 だから我々は、平和の大切さが分からないのだろう。
機動戦士Zガンダム 1

2005年05月23日

●三願回転入は親鸞のオリジナルなのか

○法然が登場する以前、源信などの浄土の諸師は、臨終来迎の第十九願を重視していた。

○法然が第十八願を王本願としたのは、称名念仏を明確な往生の行として表現しているから。その意味では善導の教えをを継承した結果ともいえる。ほかにも理由はあるのかもしれない。

○法然以前に曇鸞が、浄土論註の三願的証で第十八願に注目していた。

○臨終来迎第十九願を方便の願と位置付ける親鸞の論証は、他力ということを確認し深めていく内容で、確かにオリジナルと呼んでいいくらいだが、それでも法然の十八願への注目を継承している面もあると思った。

●意見書

大谷派児童教化連盟教区代表者協議会資料
児童教化活動における必要な情報についての意見書


1 教区児童教化活動において必要な情報について

富山では教区教化委員のなかの青少年部門がこれまで主な活動を行ってきた。日程や勤行などは前年度踏襲している。固定化やマンネリ化していく傾向はあるとおもう。他教区がどういう取り組みをしているのか、どういう講師を招いているのかという情報があれば、参考になり交流も生まれるのではないかと思う。


2 教区内、日曜学校、寺院子ども会において必要な情報について

子ども会でどういう活動をするかについては、毎月頭を悩ませるところで、工作やゲームなどについての情報はいくらでもほしいが、どうもその場しのぎなっているようにも感じている。また、地域の児童教化活動でも、絵本の朗読など、寺院で行っているのと変わらない内容が催される傾向があり、なぜ寺院で児童教化をするのかという意味付けが、地域の参加者、保護者も、私たち主催者の側も、見えにくくなってきている。
その意味で、大谷派寺院での児童教化は、他とは違ってどのような願いから行われるのかという基本的な理念も学びたいと思う。そうすれば系統立てた年間のカリキュラムのようなものも立てられるのではないか。祖父江文宏先生がご存命なら、ぜひお話を聞きたかった。

 寺の子ども会は私個人が中軸にやっているので、思い通りのことができる反面、1で書いたのと同様に、独り善がりになっていることもあるとおもう。
 そちら主宰の(?)子ども会の進め方講座(?)には、これから子ども会をはじめる寺院優先ということで、少子化による参加者の減少に悩むウチのような維持も苦しい寺院主催者は参加させてもらえなかったが、内容紙面のなかに「案内状の作り方」というのがあって、はじめてそういうものが必要だと気づき、今年初めて一人一人に郵送したら参加率が高くなった。
 他の寺院でどういう活動が行われているのか、モデルケースでも知ることができれば、こちらの地域にあわせ、活性化できる事柄も多いと思う。
 子どもたちが遊びにこない寺になるのが寂しくて、なんとか子ども会を続けている。
寺院児童教化に悩む我々のための、真摯で具体的な取り組みを期待する。

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一人ボケの報告書です。たぶんホントにボケてると思われるだろう。

2005年05月22日

●再開しようかと

もう 何ヶ月も とんでもない状態になってましたよ

見てる人誰もいないと思いますね (;´瓜`)