●信仰をもつということ
劇中でも、キリスト者である設定のクリント・イーストウッドは、悩みに悩んでいた。
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そんなふうにダラダラして今日はおわってしまいそう
まぁ いいや とりあえず 暑すぎですよ
5月31日にMMOを引退して、まだまだ一月たっていません。それから、毎日、ぜんぜん時間が足りないかんじ。5月までいったいどうしてたんでしょう。
「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」―ベトナム帰還兵が語る「ほんとうの戦争」
先日、「Zガンダム〜星を継ぐ者〜」の2回目、アニメ仲間のAckyさんをお誘いして行ってきました。2回目となりますと、はしょったテンポとか新旧混在の映像とかに慣れて、十分に内容を楽しむことができました。
私はガンダムと銘打った作品のなかでも(OVAとか全部制覇したわけでないですが)Zガンダムが一番お気に入りです。まず、ブライトが艦長になる前のアーガマの雰囲気がいい。スタートレックみたいな感じで。フレックス准将がそこに立ってるだけでエエです。そして、今回のアムロが輸送機でアッシマーに体当たりするシーンもたまらん。ニュータイプの凄さということをこういう形で表現するのがまた、凄いなと思いますわ。 もう一度、いきたいのですがw 「ミリオンダラーベイビー」、「バタフライエフェクト」そして「エピソードⅢ」も行きたいので、DVDが出るまで我慢します。
これまた先日、バンダイチャンネルをのぞいたら「青い瞳の銀鈴」が放映されていたのでさっそく楽しみました。 OVA「ジャイアントロボ」というのが核問題を取り扱ったお気に入りオススメの作品でして、その外伝をずっと見たかったのですがレンタルにもないし高価なDVDを購入するしかないかと思っていたのが、ネットで見れるようになってラッキーでした。こういうのを見ると、作品が作られた頃の盛り上がりみたいなのものを感じす。
今川泰宏の作品は非常に個性的で大好きです。「機動武闘伝Gガンダム」もすばらしいのですが、最新作の「鉄人28号」リメイクはまさに、奇作でありました。別にレビューを書こうと思っています。
TVでは「メジャー」が終わってしまいましたが、「ツバサクロニカル」がアニメ化されて驚いています。あと、「エウレカセブン」なんぞも見始めました。
憲法改正が声高に叫ばれているような雰囲気が醸しだされてる今日この頃だが、攻殻機動隊風にいえば内閣情報調査室あたりで情報操作が行われているような気がしてならない(笑)
さて、戦争放棄憲法第九条ってのはなかなか尊いことを言ってるし、これまでよく日本国の平和を守ってきたよありがとうとは思うが、自衛隊を持ってしまったことが九条とは矛盾しているし、いまさら軍備を捨てよとはいえないし、こりゃあどうしたらいいもんかなということもあって、この本ならそのあたり答えてくれるかなと手にとったわけです。
で、読んでみたら、期待通りにそのあたりがうまく整理されていて、憲法九条が存在することを「穏和な平和主義」を引き出すための手立てとして最大限利用するのがいいという感じでまとまっています。その意味ではこの本の立場は、かたくなな護憲でも改憲でもなく、いわゆる「中道」なんでしょう。
「本書をここまで読み進めた方は、国家の主権や国境だけでなく、人権や個人の尊重という観念の意味まで相対化されてしまったことに戸惑いを覚えておられるかもしれない。こうした観念は、いろいろな問題を解決するに際して、自分で考えないですませるための「切り札」として使うには便利な道具である。自分で考えるということは、「・・・である以上は、当然・・・だ。」という論法で使われる、そうした「切り札」など実はないとあきらめをつけることである。 そして、自分で考えはじめた以上は、本書ももはや用はないはずである。願わくば、本書を踏み台としてさらに進まれんことを。」
しかし、ぼくらは著者ほど頭がよくないので「ターミネーター」のエンディングみたいなことを言われても、やはり道に迷ってパート3までいって自滅してしまうような気がするw まぁ、国家も人権も実体のない観念であると見切った上で、軍備拡張を歯止めする方便として第九条を仮設するという長谷部恭男氏の論理に沿うのがベターだと思うよ。やっぱり。
ついでに、一切空を背景としつつも、救いを実現する手立てとして本願念仏を設てる龍樹の実践論(十住毘婆沙論)を、そこに連想したりした。
善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おおせそうらいき。(「歎異抄」)
君は今、君の親戚なぞの中に、これといって悪い人間などいないようだと言いましたね。しかし、悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中に存在するはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな、普通の人間なんです。それが、いざという言う間際に、急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです。だから油断が出来ないんです(夏目漱石「こころ」)
あくにんしょうき
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(WikiDharma)』
浄土真宗の教義の中で重要な意味を持つ用語。「悪人こそが阿弥陀仏の本願による救済の主正の根機である」という意味。つまり、阿弥陀仏が本当に救いたいのは悪人であり、善人は自らの力で成仏を目指せるので、眼目ではないというものである。
ここで「善人」「悪人」をどのように見ているのかがもっとも大切な部分である。もちろん法的な善悪を問うているのではなく、阿弥陀仏の真実に照らされたときに自らが悪人であるということを自省した上での悪人である。つまり、真実に目覚めたときに、自らが何ものにも救われようがない悪人であることに気付かされ、すべての衆生を救うとの本願によって救済の本当の目標が悪人である自分自身であったと気付かされるすがたを悪人正機と言うのである。ここに「親鸞一人がためなり」と阿弥陀仏の本願に救われていることを喜ばれる親鸞の法味がある。この説は悪をただ無条件に許容するものではない。どこまでも悪の誘惑に打ち勝とうとすべきものであるが、善に励もうとすればするほど、真に悪に打ち勝てない自分を悲嘆するのである。 http://www.wikidharma.org/jp/index.php/%E3%81%82%E3%81%8F%E3%81%AB%E3%82%93%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%86%E3%81%8D
「彼らの言動を膨大な「善良の市民」たちが支えている。自分を何の躊躇もなくまともな人間の側に置き、犯罪被害者に心からの同情を寄せ、犯人(容疑者)に不思議な動物でも見るかのような視線を注ぐ。この安定した固い枠が永遠に続くとでも思っているかのような自信に満ちた態度である。自分の中の悪を見ようとしない彼らは有罪である。自分の中の悪に蓋をして、他人を裁く彼らは有罪である。」
「根本悪のもとにあるからこそ、われわれは道徳的でありえるのだ。根本悪の絶大なる引力を知っているからこそ、われわれは最高善を求めるのだ。われわれには絶対的に「正しい」解答が与えられないと知っているからこそ、それを求めつづけるのである。」 (中島義道「悪について」岩波新書) http://blog.livedoor.jp/anan1/archives/23092501.html
中世における「悪」という言葉は、必ずしも道徳的善悪を指す言葉ではなく、「悪源太」「悪党」のように突発的な力を噴出する有様を指すものだと今井義晴が「親鸞の家族と門弟」(法蔵館)に書いていた。本紛失><
善人より悪人のほうが救われるとするこのアクロバティックな思想には、さまざまな解釈があります。真宗全般の解釈としては、ここで親鸞が使っている悪人は、ほとんどすべての人をあらわしていると考えられているようです。確かにそう考えないと、悪行を肯定どころか推奨しかねない教えになってしまう。この思想はさらに、悪であることを自覚することが大切だとの教えにも発展します。自分の中の悪なる部分を自覚しない善人よりは、自覚している悪人のほうが救われる。これも解釈の一つです。僕の語彙に言い換えれば、葛藤や煩悶が大切だとの文脈になります。
でもね、摂取不捨と重ね合わせて考えると、もしかしたら親鸞は、本気でもっと単純に、悪人のほうが善人より救われるんだと囁いているような気がして、彼の強烈な常念というか達観というか、その気配を感じてしまい、僕の中の善悪の基準が激しく揺さぶられるような感覚にとらわれてしまうんです。(森達也「こころをさなき世界のために」(洋泉社)
こころをさなき世界のために―親鸞から学ぶ〈地球幼年期〉のメソッド