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2005年06月10日

●悪人をめぐって

善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おおせそうらいき。(「歎異抄」)

君は今、君の親戚なぞの中に、これといって悪い人間などいないようだと言いましたね。しかし、悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中に存在するはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな、普通の人間なんです。それが、いざという言う間際に、急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです。だから油断が出来ないんです(夏目漱石「こころ」)

 

あくにんしょうき

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(WikiDharma)』

浄土真宗の教義の中で重要な意味を持つ用語。「悪人こそが阿弥陀仏の本願による救済の主正の根機である」という意味。つまり、阿弥陀仏が本当に救いたいのは悪人であり、善人は自らの力で成仏を目指せるので、眼目ではないというものである。

ここで「善人」「悪人」をどのように見ているのかがもっとも大切な部分である。もちろん法的な善悪を問うているのではなく、阿弥陀仏の真実に照らされたときに自らが悪人であるということを自省した上での悪人である。つまり、真実に目覚めたときに、自らが何ものにも救われようがない悪人であることに気付かされ、すべての衆生を救うとの本願によって救済の本当の目標が悪人である自分自身であったと気付かされるすがたを悪人正機と言うのである。ここに「親鸞一人がためなり」と阿弥陀仏の本願に救われていることを喜ばれる親鸞の法味がある。この説は悪をただ無条件に許容するものではない。どこまでも悪の誘惑に打ち勝とうとすべきものであるが、善に励もうとすればするほど、真に悪に打ち勝てない自分を悲嘆するのである。 http://www.wikidharma.org/jp/index.php/%E3%81%82%E3%81%8F%E3%81%AB%E3%82%93%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%86%E3%81%8D

 

「彼らの言動を膨大な「善良の市民」たちが支えている。自分を何の躊躇もなくまともな人間の側に置き、犯罪被害者に心からの同情を寄せ、犯人(容疑者)に不思議な動物でも見るかのような視線を注ぐ。この安定した固い枠が永遠に続くとでも思っているかのような自信に満ちた態度である。自分の中の悪を見ようとしない彼らは有罪である。自分の中の悪に蓋をして、他人を裁く彼らは有罪である。」

「根本悪のもとにあるからこそ、われわれは道徳的でありえるのだ。根本悪の絶大なる引力を知っているからこそ、われわれは最高善を求めるのだ。われわれには絶対的に「正しい」解答が与えられないと知っているからこそ、それを求めつづけるのである。」 (中島義道「悪について」岩波新書) http://blog.livedoor.jp/anan1/archives/23092501.html

 

 中世における「悪」という言葉は、必ずしも道徳的善悪を指す言葉ではなく、「悪源太」「悪党」のように突発的な力を噴出する有様を指すものだと今井義晴が「親鸞の家族と門弟」(法蔵館)に書いていた。本紛失><


  善人より悪人のほうが救われるとするこのアクロバティックな思想には、さまざまな解釈があります。真宗全般の解釈としては、ここで親鸞が使っている悪人は、ほとんどすべての人をあらわしていると考えられているようです。確かにそう考えないと、悪行を肯定どころか推奨しかねない教えになってしまう。この思想はさらに、悪であることを自覚することが大切だとの教えにも発展します。自分の中の悪なる部分を自覚しない善人よりは、自覚している悪人のほうが救われる。これも解釈の一つです。僕の語彙に言い換えれば、葛藤や煩悶が大切だとの文脈になります。

 でもね、摂取不捨と重ね合わせて考えると、もしかしたら親鸞は、本気でもっと単純に、悪人のほうが善人より救われるんだと囁いているような気がして、彼の強烈な常念というか達観というか、その気配を感じてしまい、僕の中の善悪の基準が激しく揺さぶられるような感覚にとらわれてしまうんです。(森達也「こころをさなき世界のために」(洋泉社)
こころをさなき世界のために―親鸞から学ぶ〈地球幼年期〉のメソッド

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コメント

補足します。

「他力をたのみたてまつる悪人」とありますから、森さんの読み方には無理があると思います。
吉本隆明さんのような知識人系の聖典に対する読み方は、レトリックを遊ぶようなところがあります。

しかし、つい、善人の立場に安住してしまう私には刺激になりました。

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