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2005年06月24日

●このごろ重く、思うこと

 2年ほど前かな、洞村の強制移転について学ぶ研修会で神武天皇陵へいきました。そこでボクは、このリンクの方のように、その鳥居が演出する荘厳さに取り込まれてしまったのでした。
 深い緑の丘に少し霞がかかっている。荘厳な風景のまえにシンプルな鳥居があるだけ。そのたたずまいの前にいると、こう、なんだか、自分まで荘厳になったようで。気持ちよかったです。
 ただ、あの丘は人工的な盛り土ということです。そういうことを考えると、かなり醒めますがね。
 あるいは、水豊かな田圃に青々とした稲が育っているのを見ると、すごくこころやすらぐんです。ほっとする。
 まぁ、水田が「自然」を示す状態である考えるのは個人的な趣向に因っています。生まれ育ったところがそういうところだから。それは間違いない。

 で、真宗の教えは、このごろの私には人工的、人為的に感じられてしょうがない。自分を罪悪深重の凡夫、この国を穢土という視点で見るって、すっごい、しんどくない?
 
 なんでそう感じ始めたかというと、この社会において、欲望肯定という考え方がどんどん強くなってきているからじゃないかな。この国が、欲望を延長した「偏狭なナショナリズム」に、のまれてしまいそうだから。
 
 おきらくにいきたくてしょうがない、今日この頃。
 がんばって、「本願のいわれ」を聞き続けな あかん

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コメント

24日ご苦労さまでした。
私も真読感じることがあります。でも真宗が人為的作為的なのではないようにも思います。私たちが人為的作為的なものとして関わっている(私たちにはそういう関わり方しかないのかも知れない)からなのではと思います。高橋ホウシンさん的な言い方からすれば、幻の門徒像いうもんなんでないかなぁ。自覚ぜず、頷かず。無理してそういう境地に入ろうとしている私達の真宗との関わりがしんどいんじゃないかぁておもいます。

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