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2005年08月01日

●高橋哲哉「教育と国家」

最初はうとうとしながら読んでたんですが、第四章「道徳心と宗教的情操の涵養」のところで、はっと目が覚めました。
 
教育現場に配布されている「心のノート」に書かれている「人智を超えた『おおいなるもの』に対する畏怖の念」、「おおいなるもの加護によって生かされてきたことの感謝の念」ですが、これは現行の教育基本法にある「個人の尊厳」や、「個人の価値」の尊重、一人ひとりのかけがえのない存在が出発点という考え方への対抗理念であると、筆者は位置づけています。
 
そして、この流れに沿っている、全日本仏教会の理事長名で出された教育基本法第9条(宗教教育の条項)の改正を求める要望書に、著者は警告を発します。http://joho.easter.ne.jp/genko03.html
 
 感謝の念を大切にしようというのは、仏教でもキリスト教でも同じでしょう。また、仏も現世に対しては超越的なものでしょう。そうした超越性、人間、個人を超えたものが宗教で敬われることは事実です。
 そこで、現に全日本仏教会がそうであるように、「宗教的情操の涵養」といわれると、宗教者たちは、「これは自分たちの世界だ」と思って引きつけられていく。そして一般の人も引きつけられていくことは十分ありうることです。けれども、そこにはちょうど、かつての天皇制が、国家を一つの宗教的な存在にする、いわば天皇制として機能したのと似たような構造があるのです。
 
「引きつけられ」ちゃあきまへん。警戒せなあかんのに。
 
私は、ハンセン病問題を学ぶなかで、戦後も回復者たちが里帰りするのではなく、「自分の苦しみを受け止め、ここで生きていくことが大事なのだ」と、療養所にとどまることを促す役割を仏教がしてきたのではないかと思っています。国家賠償請求裁判に対しても、真宗の教えを聞いてきた回復者のほとんどは、批判的だったそうです。
http://www.jlf.or.jp/work/pdf/houkoku/saisyu/13.pdf
教義がなぜ命の尊厳を叫ぶ活動を眠らせることになったのか、どこが間違っているのかを確認することを私たち門徒が、やらないわけにはいかないでしょう。

さて、高橋さんは教育基本法が掲げる「個人の尊厳」の内容を、以下のよう確認されています。
 
・・・教育勅語と教育基本法はどこが違うのでしょうか。教育勅語は、共同体のために、国家のために個人を犠牲にするという思想に基づいていますが、教育基本法は真っ向からそれを否定したところがポイントだと思います。
 しかし、個人の尊厳といっても、ある個人が主張するあらゆる主張が認められるわけではありません。当然ながら、あらゆる欲望が満たされるわけではまったくない。先にも述べたように、個人というのはあくまでも、家族、会社、学校、あるいは国、さらには国際社会といった、さまざまな集団のなかで他者と関係を持っている存在です。そのなかで他者の尊厳を侵すような行為は当然認められるはずがありません。
 したがって、教育基本法の認める「個人の尊厳」、「個人の価値」というのも、エゴイズムに似たものと誤解するのか、それとも、国家や共同体との関係を踏まえて、権力による価値観の強制を批判するものとして捉えるかで評価はまったく違ってくるのです。
 
なるほどなと。このあたりを読んで、「靖国問題」では分からなかった著者の立脚地が少し見えた気がしました。そして、やり方は違いますが、権力に対するカウンターの権威を立てるという役割が、本来は、宗教にあるはずだと、考えました。
教育と国家

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