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2005年10月29日

●「十住毘婆沙論」学習会

天一お参りを終えたら同級生から声をかけられたりもした 富山市街で報恩講をお勤めし、北陸道をひた走り、娘を幼少時よりネットアイドル化しているブロガー一家と、金沢の天下一品にて待ち合わせる。京都にいたころによく食べた「こってり」を頼んだのだが、もう年齢的に無理だった。負け惜しみに「昔の京都のから揚げは骨付きだった。骨なしなんて許せん!」と悪態をつき、学習会に赴く。

会場 石川県野々市町 常讃寺、テキスト 『新国訳大蔵経 十住毘婆沙論 Ⅰ 釈経論部12』 大蔵出版。いよいよ「あゆいおっちぼん」に突入。

らくりんさんが法華経と無量寿経、それぞれがなにをもって自らの経が真実と決定しているのかを、熱く語る。法華経は「三止三請」によって真実が聴衆をより分け、選定していく。それに対して、無量寿経は、アナンが真実を見出したことに釈尊が気づいた、他者が無自覚な者の真実を見出すことから始まっている、という話だ。

同朋の会での、恩徳讃前後の和讃の展開を思い出す。往相還相回向についての和讃が続き、「聖道門のひとはみな 自力の心のむねとして 他力不思議にいりぬれば 義なきを義とすと信知せり」、そして仏智疑惑和讃が続く。行者における真実の働きが他者からやってくる、そして自ら起こそうとする真実は疑いでしかありえないという展開だ。

法然上人からいただいた、「義なきを義とす」。御消息に「義ということは はからうことばなり」とある。そのまま当てはめれば「はからいなきを はからいとする」ということだよ! おもしろ杉 真宗かなりヤバ目

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