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2005年12月04日

●即証真如法性身 明日が本番

入出二門偈の最後の文は、むしろ正信偈の善導「すなわち法性の常楽を証せしむ」に対応しているよね。ということで、ここは「即証真如法性身」の出典じゃないや。

となると、「未証浄心の菩薩」についての部分が、それにあたるのかな。


即ち彼の仏を見たてまつれば、未証浄心の菩薩畢竟じて平等法身を証することを 得て、浄心の菩薩と上地の諸の菩薩と畢竟じて同じく寂滅平等を得るが故なり。

 

平等法身とは、八地已上の法性生身の菩薩なり。寂滅平等とは、即ち此の法身の菩薩の所証の寂滅平等の法なり。此の寂滅平等の法を得るを以ての故に名づけて平等法身と為す。平等法身の菩薩の所得なるを以ての故に名づけて寂滅平等の法と為すなり。此の菩薩、報生三昧を得て、三昧の神力を以て、能く一処にして一念一時に十方世界に遍して、種種に一切諸仏及び諸仏の大会衆海を供養し、能く無量世界の仏法僧無き処に於て、種種に示現し、種種に一切衆生を教化し度脱して、常に仏事を作せども、初めより往来の想、供養の想、度脱の想無し。是の故に此の身を名づけて平等法身と為し、此の法を名づけて寂滅平等の法と為すなり。未証浄心の菩薩とは、初地已上七地已還の諸の菩薩なり。此の菩薩亦能く身を現じて、若しは百、若しは千、若しは万、若しは億、若しは百千万億の無仏の国土に仏事を施作すれども、要ず作心を須ゐて三昧に入る。乃ち能く作心せざるには非ず。作心を以ての故
に名づけて未得浄心と為す。此の菩薩、願じて安楽浄土に生ずれば即ち阿弥陀仏を見たてまつる。阿弥陀仏を見たてまつる時、上地の諸の菩薩と畢竟じて身等しく法等し。龍樹菩薩、婆藪槃頭菩薩の輩、彼に生ぜむと願ずるは、当に此が為なるべきのみ。


 

「功徳大宝海に帰入すれば、必ず大会衆の数に入ることを獲。蓮華蔵世界に至ることを得れば、」が往相。「煩悩の林に遊びて神通を現じ、生死の園に入りて応化を示す」が還相。「すなわち真如法性の身を証せしむ」がその主体となるということが。

「主体」といっても浄土に根拠を置くんだろうな。「身を証せむ」ではなくて「身を証せしむ」という読み方を親鸞がつけているのは、弥陀廻向によりたまわるというニュアンスを含ませているんじゃないだろうか。

 

このあたりでも、明日、若坊守女性陣を攻めていこうと思案中。

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