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2006年04月25日

●同朋の会レジメ

テキストなしで正信偈を読むの2回目。以前に作った唯信鈔の私訳を使うことにする。


 

 

聖覚「唯信鈔」をてがかりに

 

法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所

そもそも名号をとなうるは、なにのゆえに、かの仏の本願にかなうとはいうぞというに、そのことのおこりは、阿弥陀如来いまだ仏になりたまわざりしむかし、法蔵比丘ともうしき。

そもそも名号(南無阿弥陀仏)を称えるのは、なぜ、阿弥陀仏の本願に適っているかを説明しよう。事の起こりは、阿弥陀如来がまだ悟りを得てしていないころ、修行僧であって法蔵という名前だった。

そのときに、仏ましましき。彼が、先輩の仏に出会った。 

世自在王仏ともうしき。世自在王仏といわれた。

法蔵比丘すでに菩提心をおこして、清浄の国土をしめて、衆生を利益せんとおぼして、仏のみもとへまいりてもうしたまわく、「われすでに菩提心をおこして、清浄の仏国をもうけんとおもう。

修行僧法蔵はあらゆる人々を救いたいという心をおこし、清らかな国土を建設し、民を慈しもうと思っていた。そこで、世自在王仏のもとへ参上して申し上げた。「私は人々を救いたいのです。よって清らかな国土を建設しようと思います。

ねがわくは、仏、わがために、ひろく仏国を荘厳する無量の妙行をおしえたまえ」と。

お願いします、世自在王仏、わたしのために、開かれた国を形づくっていく限りなく素敵な仕事を詳しくおしえてください」と。

観見諸仏浄土因 国土人天之善悪

建立無上殊勝願 超発希有大弘誓

そのときに、世自在王仏、二百一十億の諸仏の浄土の人天の善悪、国土の麁妙をことごとくこれをとき、ことごとくこれを現じたまいき。

そこで、世自在王仏は、おなじことをやった先人たちによる無数のパターンの浄土で民たちがどうなっているのか、国土がどうなっているのかを説き、ことごとくこれらを目の前に出現してみせた。

法蔵比丘これをきき、これをみて、悪をえらびて善をとり、麁をすてて妙をねがう。

法蔵はこれを聞き、これを見て、わるいところを捨ててよいところ採用し、欠点を捨てて長所を集めようとした。

たとえば、三悪道ある国土をば、これをえらびてとらず。

たとえば、苦悩に満ちた厭うべきものを抱えた国土は、これを捨てて取らなかった。

三悪道なき世界をば、これをねがいてすなわちとる。それがない世界を願い、選択した。

(第一願  たとい我、仏を得んに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ。)

自余の願も、これになずらえてこころをうべし。

そのほかの願も、これに準じて選ばれたと思ってほしい。

このゆえに、二百一十億の諸仏の浄土の中よりすぐれたることをえらびとりて、極楽世界を建立したまえり。

こうして、数限りない先人たちの浄土の中から優れたところを選び取って、極楽の世界を建設された。

たとえば、やなぎのえだに、さくらのはなをさかせ、ふたみのうらに、きよみがせきをならべたらんがごとし。

それを例えて言うならば、柳の枝に、桜の花を咲かせたようなもの。景観の素晴らしさで有名な三重県の二見浦に、これまた有名な静岡県の清見が関を並べてみせたようなものだ。

五劫思惟之摂受 重願妙声聞十方

これをえらぶこと一期の案にあらず。これらを選ぶ思索に費やした時間は計り知れない。

五劫のあいだ思惟したまえり。とてつもなく長い時間、熟考されたのである。

かくのごとく、微妙厳浄の国土をもうけんと願じて、かさねて思惟したまわく、国土をもうくることは、衆生をみちびかんがためなり。

このようにして、深遠で荘厳で清浄である国土を建設しようと願い、繰り返し思索されたが、そもそも建設の目的は、悩める人々を導き招くためだった。

国土たえなりというとも、衆生うまれがたくは、大悲大願の意趣にたがいなんとす。

いくら国がすばらしくても、なかなかそこへいけないのでは、あらゆる人を慈しみ救おうとする仏の願いから外れてしまう。

これによりて、往生極楽の別因をさだめんとするに、一切の行みなたやすからず。

こう考えて、極楽へ往生するための方法を慎重に決めることにしたが、修行というものはおしなべて容易ではない。

孝養父母をとらんとすれば、不孝のものはうまるべからず。

親孝行を行にすれば、親孝行でない人はいけなくなる。

読誦大乗をもちいんとすれば、文句をしらざるものはのぞみがたし。

経を読むことにすれば、素養がないものは望みがなくなる。

布施・持戒を因とさだめんとすれば、慳貪・破戒のともがらはもれなんとす。

施しの行・戒を保つことにすれば、けちな人や戒が守れない人は漏れてしまう。

忍辱・精進を業とせんとすれば、瞋恚・懈怠のたぐいはすてられぬべし。

我慢とか努力を認めようということになれば、おこりんぼとかサボり魔は捨てられてしまうだろう。

余の一切の行、みなまた、かくのごとし。なにをきめても、みんな、こういうことになってしまうのだ。

これによりて、一切の善悪の凡夫、ひとしくうまれ、ともにねがわしめんがために、ただ阿弥陀の三字の名号をとなえんを、往生極楽の別因とせんと、五劫のあいだふかくこのことを思惟しおわりて、まず第十七に諸仏にわが名字を称揚せられんという願をおこしたまえり。

こうして、善い人も悪い人もあらゆる人間たちが、平等に生まれるような、同じ世界を共に願わせようとして、ただ「阿弥陀」という三字の名前をとなえるということを、極楽に往生する大切な手だてにしようと、長く深い思索の末に考えぬいて、さっそく十七番目に、あらゆる仏たちに自分の名前をほめたたえてほしいという願いを起こされた。

(第十七願  たとい我、仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、我が名を称せずんば、正覚を取らじ。)

この願、ふかくこれをこころうべし。この願のいわれを、深く受け止めてほしい。

名号をもって、あまねく衆生をみちびかんとおぼしめすがゆえに、かつがつ名号をほめられんとちかいたまえるなり。

自分の名前を使って、あらゆる人々を導きたいと思われたから、とりあえず名前を讃えてほしいという誓いをたてられたのである。

しからずは、仏の御こころに名誉をねがうべからず。

であるから、仏は名誉のようなものを欲しがっているのではない。

諸仏にほめられて、なにの要かあらん。

そうでなければ他の仏たちにほめてもらう、必要などない。

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