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2006年05月11日

●道綽

今日の「華の会」の準備をしています。

 

道綽章ですが、なぜ「道綽、聖道の証しがたきことを決して、ただ浄土の通入すべきことを明かす」なのかについては、禅師の時代状況を想像してみるしかないんだなと。次の「万善の自力、勤修を貶す。円満の徳号、専称を勧む。」というのはその理由じゃなくて、結論ですもんね。親鸞聖人がなぜ比叡山を下りられて吉水へ行ったのかを想像するのと同じく、なかなか、悩まされるところです。

 

「三不三信の誨、慇懃にして」です。

 

云何が如実に修行せず、名義と相応せざると為すとならば、謂はく、如来は是実相身

なり、是為物身なりと知らざればなり。又三種の不相応有り。一には信心淳からず、存ずるがごとく亡ずるがごとき故なり。二には信心一ならず、決定無きが故なり。三には信心相続せず、余念間つるが故なり。此の三句展転して相成ず。信心淳からざるを以ての故に決定無し。決定無きが故に念相続せず。亦念相続せざるが故に決定の信を得ず。決定の信を得ざるが故に心淳からざるべし。此と相違せるを如実に修行し相応すと名づく。是の故に論主、我一心と建言す。(浄土論註)

 

如実修行せず、名義と相応せざるに由るが故なり。所以は何ん。謂はく、如来は是実相身、是為物身なりと知らず。復三種の不相応有り。一には信心淳からず、存ぜるがごとく亡ぜるがごとくなるが故なり。二には信心一ならず、謂はく、決定無きが故なり。三には信心相続せず、謂はく、余念間つるが故なり。迭ひに相収摂す。若し能く相続すれば則ち是一心なり。但能く一心なれば、即ち是淳心なり。此の三心を具して若し生ぜずといはば、是の処有ること無からむ。(安楽集)

 

道綽は三不信についての曇鸞の文章を、ほとんどそのまま使って、ちょっとだけ表現を変えて「三心」という言葉を出しているだけ。(「三信」じゃなくて「三心」?)そこに親鸞は特別に注目して、正信偈曇鸞章でなくて、道綽のところでこの事を取り上げている。(教行信証、信巻などの展開だと、上の論註の部分を引用して散善義の三心へと進んでいる。)いずれにせよ、親鸞は「〜ではない」ではなく、「〜である」とした点に注目したということかな。

 

教行信証への安楽集の引文は少ないです。しかし、信巻には「涅槃経」からの引文が多く、仏性もよく取り上げられています。そのあたり道綽の視点を継承しているということがあるのかなとか、いろいろ考えています。

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