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2006年06月03日

●真実信はどこにある?

6日の祠堂経法話は、今作ったレジメのマイナーチェンジでいくとして

8日の華の会、テキストは正信偈で道綽の後半のつもり。
http://blog.livedoor.jp/anan1/archives/2006-05.html#20060511で、予習してたんだが、曇鸞が三不信として書いたこと道綽が三不三信と、ちょいと言い換えたことを、なんでわざわざ正信偈は道綽章でとりあげているのか、いまいちわからん。

そのわりに親鸞は、信巻で論註の三不信の部分は引文しているが、安楽集の三信の部分はどこにも引用していないし
このあと善導の三心釈が引かれて三一問答が続く。道綽の三信はそこで展開されていると考えるのは、、、、むりかなぁ。

それにしても「真宗」5月号に竹中智秀氏の講義が載っていて、こんなことが書いてある。

 そういう無諍念王であることを突き止められて親鸞聖人は、阿弥陀如来の誓願を信ずる真実信心の行者、念仏者こそが因位の弥陀、法蔵菩薩であることをも、これは、『教行信証』の「三一問答」というところのなかで、徹底して見極めておられるのです。聖人は私たちに信心の行者、念仏者こそ法蔵菩薩であることを言い続けておられるのです。
 だから阿弥陀如来によって助けられた信心の行者、念仏者は、阿弥陀如来の一切衆生を助けたいという、その終わりのない衆生済度の事業に積極的に参加することのできる大乗の菩薩でもあり、その大乗の菩薩はそのまま因位の弥陀、法蔵菩薩その人であるということです。

どうなんだろうなー。教行信証には、漢文を敬語をまじえて読めという指示があって、そこは阿弥陀仏・法蔵菩薩からの行者への働きかけ(他力廻向)を表現するものだと言われてきたから、法蔵菩薩と行者を別々として考えることが前提としてあった。

その線に乗った上で、三一問答の展開は、行者が法蔵菩薩の「事業」に共感し、参画していくことを示しているというのが、らくりんさんの読み方だ。竹中さんのように最初から念仏者=法蔵菩薩とは言っていない。結論は似てるけど。。。

どうなんかのぉ、このあたり

まぁ、ある意味、どうでもいい話だけどネ

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コメント

引用されている竹中氏の文章にはひどく違和感を感じます。
いったい何が言いたいのでしょうか。
「助けられた信心の行者。。。積極的に参加することのできる大乗の菩薩でもあり」という件にも違和感を感じてしょうがない。。。。

 全文は「真宗」5月号に。「平和」ということを念頭においての文章です。
 曽我量深さんが「法蔵菩薩は我なり」とか「如来、我となって、我を救いたもう。されど、我は如来にあらず」とか書いていらっしゃいますので、その流れを受けていらっしゃるのかも知れませんネ。
 が、その場合、尊敬語の方はどうなるんだろう、行者、あるいは自分に尊敬語つかうんだろうか? このあたりは学力不足で推測できません

私には基礎知識がなくて言うのですが、
新子実信心、それは如来の心、まことの心。
そして如来が私を信じてくれている心
なんて思っているのですが、
ちょっと流星さんの発言とずれていますかね。????

曽我量深さんの言葉を受けてるんだとは思いましたが、引用されている竹中氏の文章を読むと「されど我は如来にあらず」の部分が感じられません。下手すると私がそのまま真実信心の行者であり、如来であるという風に受け取られてしまうのでは、と思いました。
全文を読んでみます。

ただ、やはり「その大乗の菩薩はそのまま因位の弥陀、法蔵菩薩その人であるということです。」と言わずいれない動機がなんなのか気になります。。。

>あおさん
昨夜はども、でした。

>七尾さん
ども、です。

真実心はどこにあるのか、如来にあるのか行者にあるのか。
自分でふっといてなんですが、「如来廻向の信」なんですから、どこにあるのかという問いは、ある意味、野暮なかもしれないな、とか考えております

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