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2006年08月18日

●「しるし」について、以下のように考えました

先に「信前信後」と書きましたが、この問題を信心を得ることによってなにが変わるのかといった視点で捉えるのは、大きな間違いだと考えました。

聖人から悪人正因の教えを受けて一部の人々に起こった出来事は、我こそ、我だけが弥陀の救いにあずかるものであるという「自信」であったのでしょう。

そう受け止めることも無理からぬ事ではあったといえ、自分以外の念仏者を貶めていく人々が教団の混乱を招いていることを危惧されたのが「しるし」のご消息なのではないか。

「もとあしかりしわがこころをもおもいかえして、ともの同朋にもねんごろのこころのおわしましあわばこそ、世をいとうしるしにしてもそうらわめとこそ、おぼえそうらえ。」

経験や聞法を自負して他者を見下すのではなく、出発点を忘れずに身近な友と共に歩みつづけようとすることこそ、念仏者の「しるし」なのだと諭しておられるのだと考え、お話してきました。

しかし暑かった。お葬式のあと、白衣・間衣でお話したら汗でずぶ濡れ。

ぼーっとして「本願力にあいぬれば」の和讃が出てこず、「あれ、あの和讃」と言うのが申しわけのないことでした。

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コメント

「世をいとう」という心がしるしなんですよね。心がしるしということは本人にしかわからないこと、もしかしたら本人にも確信が出来ないことって言うことですかね。そしたら当然他にはわかるはずのないこと。でも覚信は出来ないけど、もしかしたらっていう香りみたいものを本人や他人が感じることは出来るのかも。

というか、「私は信心を得た」(確信?)と考えたときに起こる問題に対してだけ、「しるし」という言葉を親鸞さんは使われていると思っています。

あおさんと一緒に聞いた、住田一郎さんの講義を思い出しています。

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