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2006年09月19日

●同朋会葉書・昨日の反省


あわただしく、落ち着くことができないのですが、昨日の「無碍の一道」について話した組同朋会について、いろいろ考えています。

諸行無常・諸法無我の仏教において、実体的な極楽浄土を説くことには、大きな役割があると私は思っています。

浄土教は実践を念頭に置いた仏教であるがゆえに、知性的論理に留まったり、知性の立場から感性を見下したりしてはならない。しかしながら、感性に流されて知性を失ってはならない。

だから、教説に智慧と慈悲が混在しているようにみえるのだと思います。まぁ、こんな二元論で考えていることにも問題はあることでしょうが。

その意味で、第七章「念仏者は無碍の一道なり」の一節だけを見てお話したのは、いろいろな問題を孕んでしまったのだと考えました。様々な宗教的権威などをひれ伏せさせるのが念仏だという話だけでよいのか。ならそれだけの念仏とはなんなのかということを、取り上げなければ。

歎異抄に、深い配慮の上に、続けて第八章が置かれている理由が、身に染みて分かりました。

「念仏は行者のために、非行非善なり。わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。ひとえに他力にして、自力をはなれたるゆえに、行者のためには非行非善なりと云々」

第七章と第八章は、表と裏のようだなと。

テキスト「宗祖親鸞聖人」にはありませんが、来月は第八章に力いっぱい触れてからはじめたいと思いました。

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