« 亀 | メイン | 雲の下が明るい? その2 »

2006年10月24日

●雲の下が明るい?

27日の玉永寺同朋会のお題は、いよいよ。

摂取の心光、常に摂護したまう。 すでによく無明の闇を破すといえども、貪愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天に覆えり。 たとえば、日光の雲霧に覆わるれども、雲霧の下、明らかにして闇きことなきがごとし。

尊号真像銘文。

「摂取心光常照護」というは、信心をえたる人をば無碍光仏の心光、つねにてらしまもりたまうゆえに、無明のやみはれ、生死のながきよ、すでにあかつきになりぬとしるべしとなり。「已能雖破無明闇」というは、このこころなり。信心をうればあかつきになるがごとしとしるべし。「貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天」というは、われらが貪愛瞋憎をくもきりにたとえて、つねに信心の天におおえるなりとしるべし。「譬如日月覆雲霧 雲霧之下明無闇」というは、日月のくもきりにおおわるれども、やみはれて、くもきりのしたあきらかなるがごとく、貪愛瞋憎のくもきりに信心はおおわるれども、往生にさわりあるべからずとしるべしとなり。


浄土真要鈔

「摂取心光常照護 已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」といえり。この文のこころは、阿弥陀如来の摂取の心光はつねに行者をてらしまもりて、すでによく無明のやみを破すといえども、貪欲・瞋恚等の悪業、くもきりのごとくして真実信心の天をおおえり。たとえば日のひかりの、くもきりにおおわれたれども、そのしたはあきらかにしてくらきことなきがごとしと、なり。されば信心をうるとき摂取の益にあずかる。摂取の益にあずかるがゆえに正定聚に住す。しかれば、三毒の煩悩は、しばしばおこれども、まことの信心はかれにもさえられず。顛倒の妄念はつねにたえざれども、さらに未来の悪報をばまねかず。かるがゆえに、もしは平生、もしは臨終、ただ信心のおこるときは往生はさだまるぞと、なり。これを「正定聚に住す」ともいい、「不退のくらいにいる」ともなづくるなり。

「正信偈」教学研究所

それは太陽の光が、雲や霧に覆われて形はかくされても、その雲霧の下は明るくて、闇夜でないのにたとえることができましょう。

雲や霧があっても、あたりが暗闇にならないのは、その上に太陽の光が注いでいるから。
卑小な人間には雲霧を退かす力はない。それでも、光の存在を知る事は、できている。
といったかんじでしょうか? ご意見、ご助言をいただけますれば幸いです>all

トラックバックURL

このエントリーのトラックバックURL:
http://gyokueiji.sakura.ne.jp/mt/mt-tb.cgi/621

コメントする

(初めてのコメントの時は、コメントが表示されるためにこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまでコメントは表示されませんのでしばらくお待ちください)