« 雲の下が明るい? その3 | メイン | 玉永寺同朋の会レジメ »

2006年10月27日

●雲の下が明るい? その4

昨日は、午前は魚津、午後は大沢野のほんこはん。


親鸞聖人と、たぶん玉日姫のツーショット。門徒さんのお内仏に飾られています。

夜は野々市で真仏土巻聴記輪読会初回。六名の方が参加されることになりました。ネットで案内をご覧になった方が、一人加わってくださいました。詳しい報告は、落ち着いたら書きます。東へ西へとパッソで走りまくってます。

今夜、同朋会です。

私も正信偈の内容が、教行信証のほかの部分で展開されていると考えているわけではありません。ただまぁ、聖人が同じようなことを考えながら書いていたんじゃないかなという程度です。

それでも正信偈に十二光が述べられ、「一切の群生、光照を蒙る」と続けて、雲の下は明るいという喩えをもってくるというのは、「称名憶念あれども、無明なお存して所願を満てざるはいかんとならば」という論註の疑問を重なっているんじゃないかと思うんです。

正信偈のこの後の七高僧の話がはじまる前の文言についても、どれも信巻に出てくる言葉ですよね。順序はバラバラだけど。

信を獲れば見て敬い大きに慶喜せん、すなわち横に五悪趣を超截す。 一切善悪の凡夫人、 如来の弘誓願を聞信すれば、 仏、広大勝解の者と言えり。 この人を分陀利華と名づく。 弥陀仏の本願念仏は、 邪見驕慢の悪衆生、 信楽を受持すること、はなはだもって難し。難中の難、これに過ぎたるはなし。

その意味では、信巻の前述の箇所から「雲の下が明るい」を読んでみるのも、そう悪くないんじゃないか。

そうしたことから、一つ目のポイントを、

しかれば、もしは行・もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまうところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと。知るべし。p223
を念頭に於いて、「他力回向の信」として「雲の下が明るい」を読もうと思います。

もう一つは、「煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。」の内容を譬喩で示したものとして、「雲の下」を読む。

この二点をポイントとして、レジメ作成に入ります。

ン、明日、光徳寺さんで法話をしなくちゃならないといことに、今気がついたYO! ヤバイ!!

トラックバックURL

このエントリーのトラックバックURL:
http://gyokueiji.sakura.ne.jp/mt/mt-tb.cgi/624

コメントする

(初めてのコメントの時は、コメントが表示されるためにこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまでコメントは表示されませんのでしばらくお待ちください)