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2006年10月27日

●玉永寺同朋の会レジメ

あまねく、無量・無辺光、無碍・無対・光炎王、
清浄・歓喜・智慧光、不断・難思・無称光、
超日月光を放って、塵刹を照らす。一切の群生、光照を蒙る。


摂取の心光、常に摂護したまう。

○摂取 おさめとる。
○心光 阿弥陀仏の大慈悲心の光
○摂護 おさめてまもる。
信心を、阿弥陀仏の心の光は、常に照らして護っています。

すでによく無明の闇を破すといえども、
貪愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天に覆えり。

○無明の闇 生きる方向に迷うことを「闇」に喩える。光が見えない状態。
○貪愛 名聞利養をむさぼり、愛欲に渇き執着する心。
○瞋憎 怒り腹立ち憎むこと。
それによって迷いの闇ははれて終わろうとしています。しかし、むさぼりや憎しみの心は相変わらず、信心の上を覆っています。これはどういうことなのでしょうか?

たとえば、日光の雲霧に覆わるれども、
雲霧の下、明らかにして闇きことなきがごとし。

それは太陽の光が、雲や霧に覆われて形はかくされても、その雲霧の下は明るくて、闇夜でないのにたとえることができましょう。「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」とは、こうした救いのすがたのことです。生きる方向が定まったことを言うのです。

我また、かの摂取の中にあれども、
煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども、
大悲倦きことなく、常に我を照らしたまう、といえり。

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コメント

最近、信心にひっかかっています。私の中にあると自力の信心ではないかと、なおなお迷いは深まっていきます。

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