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2006年11月09日

●「第一講 生命の構造」ノート その1

浄土は身と土を一つの構造としてもっている。

「浄土論」では二種荘厳(二種清浄世間荘厳)。
身は衆生世間荘厳、土は器世間荘厳。
「十地経」では器、衆生、正覚の三種荘厳となっている。
「浄土論」では器世間、衆生世間を総合するのが願心荘厳。
仏は主体、国土は客体と考えられてきたが、それは無理。
主体は心であり、身も土も客体である。

身土の環境における関係は「生」。

身は環境、食物を摂取して生命を維持する。
器世間は広い意味で食物にあたる。目には色、鼻には香、耳には声。

環境は広く身体の食物といえる。大切なのはそこに心は入らないこと。
五根は眼耳鼻舌身、意根は入らない。衆生世間は意根を除く。
土は五境(色声香味触)。法境を除く。

五根五境は色法、即ち物質。衆生世間、器世間はともに色法を体とする。

身と土を統合するのが心。我々からは安心。仏よりは願心。

器世間は心から言えば、外の色法(物質)。
衆生世間は心から言えば、内の色法(物質)。

他人の感覚はわからないから不共。外の環境は共同。
環境は土であり共同だが、心は不共。

浄土は仏だけのものであるが、仏が荘厳される(「される」は受身ではなくて丁寧語だと思う)土であるかぎり、共同のものがある。そこに如来の正覚と一如であるという意義が明らかにされてくるのであろう。

教行信証、前四巻は能帰の心を明かし、第五巻、真仏土は帰すべき身土。
帰すべきということは超越性を意味する。安心の対象。


以上、9ページまで。

荘厳を通して仏の心、涅槃が安心の対象として我々に伝わるということなのだろう。

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