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2006年11月19日

●教育基本法改正案 第二条

(教育の目標) 第二条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。

一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

 これまでは「教育の方針」として、まさに理念だけを述べていた部分を膨らませて、5つも「目標」を掲げている。目標を立てる人は立てるだけだが、立てられる人はたまったものではない。自分ができていないことを、他人に強制するのは無責任である。そして無責任であることに無自覚ということである。
 人を律することのできる法、法律を決める立場にいる。政治家たちはそういう権力をもっている。それをそのまま、力をもたない人を律するために使うという構図はいただけない。
 仏教も最初は戒律を定めた。その狙いは諸説あるが、仏道を極めるための障害となるものを排除することであったと思う。それが、とかく戒律を守ることが目的になって、仏道を求めることが二の次になりがちになる。戒律を守れる環境にない人々を排除するに至っては、なんのために戒律を守っているのやら、訳の分からんことになる。教育の目標を掲げることについても、同じようなことが起きるであろうことは容易に予想される。
 戒律に捉われない浄土の教えは、とかく堕落した仏教と非難される。が、そうではない。要は、日常生活のなかでもゆらぐことのない教えを求めたということである。末法という時代における仏道を追求したということである。
 いまごろ破戒と非難する人は時代錯誤である。破戒、無戒しかない現実である。その現実に耐えられない善人が恐怖し、反対者を蹴散らして、ただ戒律だけを立てようとしている。彼(女)らには、子どもたちの悲鳴がどのように聞こえているのだろうか?
 

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