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2006年12月10日

●正信偈 源信章

源信、広く一代の教を開きて、 ひとえに安養に帰して、一切を勧む。

専雑の執心、浅深を判じて、 報化二土、正しく弁立せり。
極重の悪人は、ただ仏を称すべし。

『往生要集』に云わく、『双巻経』(大経)の三輩の業、浅深ありといえども、しかるに通じてみな「一向専念無量寿仏」と云えり。三つに、四十八願の中に念仏門において、別して一つの願を発して云わく、「乃至十念若不生者不取正覚」と。四つに、『観経』には、「極重の悪人、他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生まるることを得」と。已上(行巻)

 首楞厳院の『要集』に、感禅師(懐感)の『釈』(群疑論)を引きて云わく、「問う、『菩薩処胎経』の第二に説かく、「西方この閻浮提を去ること十二億那由他に懈慢界あり。乃至 意を発せる衆生、阿弥陀仏国に生まれんと欲する者、みな深く懈慢国土に着して、前進んで阿弥陀仏国に生まるることあたわず。億千万の衆、時に一人ありて、よく阿弥陀仏国に生ず」と云云。この経をもって准難するに、生を得べしや。答う、『群疑論』に善導和尚の前の文を引きてこの難を釈して、また自ら助成して云わく、「この『経』の下の文に言わく、「何をもってのゆえに、みな懈慢に由って執心牢固ならず」と。ここに知りぬ、雑修の者は「執心不牢の人」とす。かるがゆえに懈慢国に生ずるなり。もし雑修せずして専らこの業を行ぜば、これすなわち執心牢固せずして、定めて極楽国に生まれん。乃至 また報の浄土に生ずる者は極めて少なし、化の浄土の中に生ずる者は少なからず。かるがゆえに『経』の別説、実に相違せざるなり」と。已上略抄
しかればそれ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門の中に、第十八の願は「別願の中の別願」なりと顕開したまえり。『観経』の定散諸機は「極重悪人唯称弥陀」と勧励したまえるなり。濁世の道俗、善く自ら己が能を思量せよとなり。知るべし。(化身土巻)

我また、かの摂取の中にあれども、
煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども、
大悲倦きことなく、常に我を照らしたまう、といえり

一一の光明遍く十方世界を照らす。念仏の衆生を摂取して捨てたまわず。(観経 真身観)

又彼の一一の光明、遍く十方世界の念仏の衆生を照らして摂取して捨てたまはず。我亦彼の摂取の中に在り。煩悩眼を障へて見たてまつること能はずと雖も、大悲倦むこと無くして、常に我が身を照らしたまふ。(往生要集)

また云わく、我またかの摂取の中にあれども、煩悩眼を障えて見たてまつるにあたわずといえども、大悲惓となくして常に我が身を照らしたまう、と。已上(信巻)

首楞厳院源信和尚の銘文
「我亦在彼摂取之中 煩悩障眼雖不能見 大悲無倦常照我身」(往生要集)文
「我亦在彼摂取之中」というは、われまたかの摂取のなかにありとのたまえるなり。「煩悩障眼」というは、われら煩悩にまなこさえらるとなり。「雖不能見」というは、煩悩のまなこにて仏をみたてまつることあたわずといえどもというなり。「大悲無倦」というは、大慈大悲の御めぐみものうきことましまさずともうすなり。「常照我身」というは、常はつねにという。照はてらしたまうという。無碍の光明、信心の人をつねにてらしたまうとなり。つねにてらすというは、つねにまもりたまうとなり。我身は、わがみを大慈大悲ものうきことなくして、つねにまもりたまえとおもえとなり。摂取不捨の御めぐみのこころをあらわしたまうなり。「念仏衆生 摂取不捨」のこころを釈したまえるなりとしるべしとなり。(尊号真像銘文)

首楞厳院の源信和尚のたまわく、「我亦在彼摂取之中 煩悩障眼雖不能見 大悲無倦常照我身」(往生要集)と。この文のこころは、われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩まなこをさえて、みたてまつるにあたわずといえども、大悲ものうきことなくして、つねにわがみをてらしたまうと、のたまえるなり。(一念多念文意)

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