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2007年01月31日

●五劫思惟像 再調査

尾田さんからのご依頼で昨年の九月に載せた絵像をお借りして、調べました。
IMG_1032.jpg
裏書はなかったのですが、「五劫思惟 阿弥陀如来」という文字が確認できました。

●マン喫にいってみたいかもしれない

先日の住職修習は講師が京都の谷さんでした。
久しぶりにお会いしました。
昨年5月に私自身が修習を受けたときは、
同朋会運動の理念だけというか
カッコのいい部分ばかりの講義でした。
それが、谷さんは大谷派教団の非違の歴史、
聖人の教えに背いてきた歴史を踏まえ、
そこから現在の我々の姿を照らすという内容でした。
新住職対象の研修会でこういう形の話し合いができるのは、
大谷派ならではないかな、と思いました。

同部屋が長浜の一色さんでした。
能登からの付き合いですが、相変わらず、誠実で、優しい方で
4日間一緒にいると、こちらが煩悩だらけだと思い知らされて困ります(笑

29日には共学がありまして、ひさびさに出席しました。
とうとう最長老と成り果てまして、
座談会で口を挟んでしまうので、
今後もイベント要員でがんばります。
新年会、いささか深酒をしてしまいました。

昨夜、NHKでマンガ喫茶のドキュメンタリーをやっていました。
わたしの今だ、知らない世界なので興味深深でした。
マンガ、ゲーム、DVD、インターネット、、、なんでもありなんですね。
あそこをうまく利用すれば、また違うことが見えてくるのかなー
はまって、生活、くずれちゃったりしたらこまるなー
恐れと期待まぜこぜで、今だ、外から眺めています。

一月も終わりだ。

2007年01月30日

●2月の予定

2日 10組門徒会講話「教区御遠忌テーマについて」 教務所
6日 教区御遠忌公開講座実行委員会 教務所
7日 ハンセン懇集会部会会議 京都
9日 ナムナム大集会 京都
   ハンセン病ふるさとネットワーク会議 教務所
12・13日 ご消息 玉永寺などで
14・15日 北陸連区児童連盟研修会 教務所
16日 同朋会運動推進会議 京都
18日 組同朋会 上市
19日 安田理深真仏土巻聴記学習会 野々市 常讃寺
20日 育成員研修会事前打ち合わせ 京都
23日 教区御遠忌本部会議 教務所
28日 初お講 玉永寺
   

2007年01月28日

●住職修習講義ノート

真宗学をするならいなかのおじいさんおばあさんの顔を見ながらにしなさい。聖人が、とも同行の人々と生きたように、観念的になってはいけない。寺で生活するとは法要をすることだけではない。聞法求道を生活とする場である。どうしたら聞法求道の場となるのか。どうかご門徒といっしょに。指導者意識をすてて共に歩むことが念仏するものの道です。問いを持続することを精進というのです。
求められるのは答え。あなたはなにを問いとしていますか。答えが求められる。丸かバツか。正しい答えを出して優秀な答えを出すことが求められている。
辛抱、辛さを抱える。問いを抱えることが一番辛い。なぜ生まれてきたのか。寺とは何か。門徒とは何か。どう生活したらいいのか。それに対して、答えを学ぼうとしている。それは役に立たないだろう。マニュアルはない。辛→幸 幸せの求め方は曖昧。問いを持続することが重要。よき人との出会いがなければ学び続けられない。
継職。なにを継ぐのか。日本人一般は、長男に家をついでほしい。家を継承するため。家は先祖祀り。われわれの幸不幸に関わるから。慰霊鎮魂。本家の息子の仕事。混乱しないように司祭権を持った人間が一族をまとめる。住職継承はそれと同じか? 真宗は先祖祀りはしない。職とは何か。聞法求道。教えを聞き、教えを相続する立場。なにを継ぐのか。なにを継いでほしいのか。本堂? 財産? 寺とはなにをするところなのか。聞法求道の場をどのように実現するのか。在る寺から成る寺へ。建物、法人としてあるものが、聞法求道の場にならなければ。責任は建物の維持管理だけではない。本当の命の拠り処を公開していけるかである。本当の寺になるにはどうしたらいいのか。問いを抱えていく。
自分の寺の状況の中で、住職と総代が話し合う。責任の重さ。自分の立場でなにができるか。そういうところに立って、生きる。同朋という言葉を使って課題を共有する。
大谷派がなにを願いとする教団なのか。宗憲前文に「同朋」が5回出てくる。宗門存立の本義。立教開宗の本義。本義。同朋社会の顕現。同朋会運動を推進する。
同朋とは「とも」。同胞の意味。はらから。胞衣、えら(あかちゃんをつつむ膜)はらから。親を同じくする。血のつながり。それは上方志向を持ちやすい。優位に立ちたい。血のつながりの共同体。他よりも上でありたい。ゆがみやすい。オリンピック。他の血のつながりに劣ることを許さない。一番になれ。最上尊。金メダルで無いとダメ。←→無上尊。かわりようがない。どの花見ても。あなたはあなたのままでいい。比べる必要は無い。無上尊の人間の関係が同朋。釈迦、諸仏を師とする。釈迦と、教えを相続してきた人々。一列平等の関係。親鸞は弟子一人も持たず。
はらから、同胞が人間の生き様。そういう生き方をしている我々がそのことを自覚し、なおかつ同朋という生き方に生きていこうとする。同胞、そのことだけに執着していてはならない。御同朋御同行といいながら背いてきた歴史がある。何が正しいか、何がゆがんでいるのか分からなくなる。見えなくなる。
同朋会運動の点検総括。大谷派の課題。個の尊厳と存在の平等が保たれる社会。一人一人の命の尊さ。自我、エゴの尊厳ではない存在の平等。互いに違う存在であることを大事にする。このことを生活の中でどのように受け止めていくか。そこで寺はなぜ存在するのか、なにをする場所なのか。
同朋精神。歎異の精神。廃悪修善 破邪顕正の心は真宗ではない。道徳的良心を押し付けるのも真宗ではない。異なるを歎くとは、慙愧。人間が人間であるために大事なもの。恥ずかしいと思う心。それがなければ人間ではない。畜生と為す。無慚無愧のこの身にて 慙愧していると思っていても、頭が下がらない。下げられるが、下がらない。慙愧にならない。同朋社会、我々の寺がそうなるかならないか。どうすれば聞法求道の場となるか。寺とは、そういう場を賜るということ。

総代の使命 人を生み出す。この場から人を生む出す場が無ければ、教団は存続しない。我々の寺も、本堂は何のためにあるのか。儀式執行の場と同時に、人を生み出す場でなければならない。蓮如上人の働き、講。門徒の自治組織。集い。定められた日に仏法の讃嘆や、談合をする集い。仏法を讃嘆し、確かめ合う。そのために話し合う。御同朋御同行すべての人が一列平等に集う。武士も、百姓も同じ場所に座る。なぜ寄り合い談合なのか。我々が聞きまどうから。素直に受け止めるばかりではないから。意巧に聞く。こころたくみにきく。自分の都合のいいように聞く。得手に聞く。得手勝手に聞く。それを見つめかえず場所が必要。慙愧。反省ならば、反省した自分を甘やかす。反省したふりをしながら、反省していない。慙愧は自我のものさしではできない。経験、体験に縛られ、我を持つ。
仏教は難しい。世間のことではないから。邪見驕慢悪衆生。仏教を自我のものさしで計る自分が難しい。自分の我に合う話。本当の話は自我を突き抜ける。それが仏法。仏法の教えを聞いて、問いを持ち続けることから。寺という場所を使ってやっていく。教えを聞いてもらう場所、その首座に立つ。後ろ姿がないと伝わらない。聖人は阿弥陀仏に手をあわせている。こちらを向いているのではない。諸仏。背中で伝わっている。道しるべは弥陀の方向を向いている人の後ろ姿。
寺、本堂を聞法求道の場にする、人を生み出す場所にする。参る人が仏の方向を見ることで本堂が成り立つ。わが身が欠けている。どんな身であるのかが見えていない。手を合わす場。時間が無ければ手を合わせられない。それほどに我々は弱い存在。こういう場によって、真宗の歴史が生み出されている。そこから念仏する人が生まれてきた。
ゐなかの人々を、とも同行にしていった。その地域社会の門徒が命の拠り処にしてきた。そういう場所がないと手を合わすことができない。どこでもできるか。できはしない。
 帰るところがはっきりしているから安心、ガマンできる。帰るところがはっきりしなければ不安。生きていることが不安になる。命終わったときに浄土にいたる。必ず。仏の願い。仏願の生起本末を聞いて疑心あることなし。願いに照らされていること、わたしのためにと聞く。聞かせてもらう場と時が無ければ。つめてあげるのではなく、仏事のときを用意してくださり、わたしのための、人生の意義を見出す場を用意してくださった。
人生をむなしく過ごすのではない。一人では聞けない。それが門徒としての証。
住職と総代が問題をどのように共有するか。互いに言える場所を作る。社会の問題が縁。私たちは自分から世の中に矢印を向けている。反対である。わたしがどうするというより、そこから私が問われている。この世の中で私たちはどのように生きるのか。お互いが自分に向かって問いかけられている。「弥陀成仏のこのかたは」「法身の光輪」「世の盲冥」奇麗事ではなくて、私に至った仏願。仏の光は既に、私を救うために照らしてくれていた。世の盲冥。それはわたしの闇。闇ときずかなかった。願われていた。私が照らされている。そこそこに生きていける。そこその人生。もう一つむなしい。どうしたら闇が晴れるか。照らされているという実感が無い。光は遮るものがあれば、あることが分かる。遮るとろにしか届かない。邪見驕慢にしか届かない。この世の中の闇に対して、我々はどのように、それをご縁に教えを聞けばいいか。
批判を受ける。泥かぶってほしい。一緒にやってくれませんか。問題を抱える辛抱。勇気。信は願より生ず。願いが清らかならば、生まれる信も清らか。不浄なら、両方不浄。

住職の使命。一番悩んだことは、真宗の教えに生きようとすればするほど、そうでない機構や教学が見えてくる。非違。寺の作り、装束、儀式作法、これがどうしてこうなったのか分からない。教えてもらえない。古い宗門体質の克服。現代社会との接点。真宗門徒の自覚と実践。御同朋御同行、同胞狭い共同体。過去をなかったことにはできない。現在の自分が立っているところが見えない。過去においてなぜ、非違化したか、狭い共同体意識のなかにこもってしまうのか。
聖人は御同朋御同行、念仏の僧伽。覚如上人が、本願寺を作る頃に権威化。御伝鈔、「本願寺聖人」として親鸞を位置づける。10代証如が権僧正になる。門跡。法主。一家衆といわれる寺、八ヶ寺が、朝廷から院家として認められる。一門一家。蓮如に血のつながる寺。九代の実如の仕事。蓮如の血統を本願寺の流れに取り入れた。血統となった。なにを継ぐのか。実如は血統とした。1565、石山本願寺が法衣の制度を定める。1569、本願寺が門跡へと。本末制。本山と末寺。「親鸞は弟子一人も持たず」なのに寺と門徒を分けることに関わる。皇族、摂関家。摂政。関白。貴族が入る寺を門跡。聖人は皇族とのつながりを持とうとしたのではない。宇多天皇897 931没 院政。御室の仁和寺。仁和は年号。真言宗。御座所。仁和寺の補佐する寺が「院家」。現役の天皇に仕えるのが「公家」。蓮如の後、院家、門跡となった。御門、帝であった人が入る寺。親鸞の思想には無い。
宮中に参内するための正装が色衣。教如上人のころ、寺格は九段階に。貴族、権威主義。1991年寺格廃止。
理想で現実を批判するのではない。教団の事実。寺と門徒。キリシタン禁止。宗門改め役。寺請証文がなければキリシタンとみなされ、一族郎党殺された。住職に逆らえなかった。
自分はこんな歴史を聞いていない。もし、このことを知らなかったら、ぞっとする。だれも教えてくれなかった。まじめに生きようとすれば、親鸞の教えに反するものが見えてくる。僧侶として住職としてどういう世界を求めたらいいか分からない。この原因を認識しないと。歴史を受けて我々がいる。根本的な原因は、御同朋御同行といいながら、血のつながりによる仲間意識が縦関係を許す。霊魂がさまよわないようにと、先祖供養をしてしまう。
住職とは何か。仏法住持職。自信教人信。曽我量深、自信教人自信。分かったから教えるでは無い。住職という責任は重い。寺を預かる。代表役員。重い責任を担う。担うという喜びがある。担うものが無ければ生きる力が湧かない。担わせていただく。住職という席を本願力により担わせていただく。自分はどう生きたらいいのか。我々は、願いを持つが、願われている存在なのだ。住職も、願われている。如来に。
願われている存在だと言うと変わる。生きていく自信が無い。自分がどうしたらという以前に、願われている。もういっぺんやろうという気持ちになる。自分が受け止めた仏の教えを自分の言葉で表現された。一人の住職として、自分がご縁をもつ寺に責任を持つ。自分のご縁のある寺に責任を持つ。自分の寺に責任を持たなければ、社会活動ということもない。新しい寺、歴史のある寺。伝承と己証。伝承だけでもダメ。己証だけでもダメ。七高僧が伝承。正信偈が己証。どういう形で自分の寺で具現化していくか。
現代社会との接点というと、そういうことではなくて、親鸞聖人の教えをききたいと言われるかもしれない。。しかし願文には「十方衆生」とある。宇宙の生きとし生けるものに向かって、本願が説かれている。成就したところには「諸有衆生」。我々は常に排除している。関わりは無い。なんとも思わない。差別を受けている人や社会的弱者は私たちの目には入らない。
寺檀関係は抜き差しならない。キリシタンにみなされる。住職に逆らえない。住職には逆らってはならないというのはそういう歴史をもっているから。そこに気づかない。門徒の自覚と実践。どこでそういえるのか。われわれのなかに厳然とある迷信。
しかし、理想に思い描くことで現実を裁いてはならない。社会、寺に起こる問題。批判する力は強いが、人間関係は崩れる。自分が100パーセント正しいとしても、半歩にする。提示する。こう変えたい。総代、門徒がどう答えるかを聞いて進む。人の意見を聞いて、受け止めたところから一歩出る。そのことの持つ意味を思い出してほしい。
「静かに己を悲しむ心より真実の力はうまる」武内了温
「己が」と考えている。己自身を悲しむ心が無ければ、本当に悲しむことにならない。
己で悲しんでいるばかり、己を悲しむ。
なにを視座にして、おかしいことをおかしいというか。どこに心を立てるか。おかしいと言った自分が問われる。私たちは戻っていける世界をもっている。念仏のなかに。それは誇り。信順を因、疑謗を縁に。疑わない、謗らないではない。小手先だけの住職は見透かされる。門徒を侮ってはいけない。共に生きていく。

●訂正

京都から帰ってきました。

↓に「遺骨が届いた」と書きましたが、遺骨は帰ってこなかったということです。

訂正いたします。

2007年01月25日

●祖父からの手紙

「硫黄島からの手紙」には、憲兵が飼い犬を撃ち殺すシーンがありました。
私の父は飼っていた子犬を、縁の下で隠していたそうですが、
毛皮を使うという名目で「供出」させられたそうです。
現在の父の犬の可愛がりようはちょっとびっくりするところがあります。
トラウマになっているんでしょうか。

その時、戦争とはなんと酷いものかと思ったそうです。
身内ですが、そんな父の感覚は信頼できると考えております。

祖父が祖母宛てに最後に送った手紙もファイル化しました。
CCI00000.jpg
日付は昭和19年1月11日です。
パラオ島の大きな戦闘(ペリリューの戦い)は昭和19年末に終わっています。
祖父の命日は昭和20年8月23日。
遺骨は二人で行動を共にしていた戦友の方が届けてくださったとか。
最期の様子は、つらくて詳しく聞けなかったそうです。
20代半ばの祖父は、パラオ島でどのような最期を迎えたのか。
この頃、知りたいなと思うようになりました。

明日から住職修習の班担にて、これから発って今夜から道場に泊まります。
先回は、もう5年ぐらい前でしょうか。亡くなられた能登の濤先生が講師でした。

そうだ、京都のアパのニュースが報道されていますが、父のためにネットで28日から4泊を予約していました。現在、電話で対応待ちです。ビックリしましたね。

2007年01月24日

●戦時中の手紙

釈さん、コメントありがとうございます。花は今日も綺麗です。

もう一つのブログに書きましたように「硫黄島からの手紙」を見てきました。

帰って母に話しましたら、いろいろ古いものを見せてくれました。
そのなかの一枚が下の手紙です。
CCI00005.jpg
玉永寺での疎開から東京へ戻った一人の生徒さんが、私の祖母に宛てて書いたものです。
日付は6月22日です。
3月に硫黄島が占領されて、東京への空襲が始っていました。

富山大空襲が8月2日、敗戦が8月15日。
祖父がパラオ島で亡くなったのが8月23日。

2007年01月23日

●花をいただきました

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田伏「田のし会」にいらっしゃっていた方が、
「初めてハンセン病問題についていろいろ聞かせてもらった」と
栽培している花を届けてくださいました。
ありがたいことです。記念に画像を貼っておきます。

2007年01月22日

●しんらんさまはなつかしい.gif

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●阿弥陀経1.gif

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師匠のアドバイスをいただき、ここで作りました。

2007年01月21日

●大成功

釈香立さん、コメントありがとうございます。

あくまで、主観です。が、上々の出来だったと感じております。

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一時間、休憩なしということでして、これくらいのプレゼン内容でそれだけ話せるか心配だったのですが、すこし、超過するくらい話せました。そして、聴衆の方々の集中力も、それだけの時間、しっかり持続したように見受けられました。
画像と映像をはじめて使いました。言葉や文字では表現できないことがあるのだと、実感しました。
この表現方法の威力、大でした。

終わったあと、懇親会でじっくりとみなさんとお話してきました。楽しかった♪
やったなー、という達成感。ホンマ、いいことできたなぁ。
呼んでくださった皆様に感謝です。今夜は、とても幸せ♡ ♡ ♡

2007年01月20日

●いよいよ明日になりました

プロジェクターを使っての、そしてハンセン病問題について語る、初めての体験です。
かなりプレッシャーを感じています。

近所の新年会で一時間程度の話をしてほしいという依頼を受けたのは、昨年末でした。
これまでも、いろいろな方面の方を呼んでいるということで、内容は仏教以外でもよい。
ちなみに近所のお坊さんは、海外旅行の話をされたということでした。

そのあと、富山のネットワークの会合のときに、これまでシンポジウムという形で、多くの聴衆を集める形のイベントはやってきたが、これからは公民館などの小さな場所でハンセン病に関する会合をしたらどうだろうかという提案がありました。
その時、ならばこの機会にやってみようかなと思ったのです。

これまでの自分自身の歩みを振り返ってみたい、まとめてみたいということもありました。
その意味で、お話の準備をする際に、ブログに掲載してきた文章や画像が、大変、役に立ちました。
助かりました。記録をつけることの大事さを、骨身にしみて感じました。

こういう機会は最初で最後かもしれない。30人ぐらいの、田舎の小さなお楽しみ会です。
できることなら、やってみる。楽しんできます。

2007年01月19日

●「ハンセン病療養所を訪ねて」プレゼン内容

皆様、コメントありがとうございます。
とりあえず、けっこう楽しんでやっております。

今回、プレゼンで使うソフトはこれ
持参するのは、ノートパソコン、プロジェクター、スクリーン、USBスピーカー、電源コード。
「画像」はブログに載せているものを使いました。

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ハンセン病の歴史

1873年(明治6年)
ハンセン(ノルウェー)
「らい菌」を発見

1931年(昭和6年)
「癩(らい)予防法」制定

患者の絶対隔離
強力に実行

1943年(昭和18年)
特効薬プロミンが開発

それでも
強制隔離は続けられた

1996年(平成8年)
らい予防法廃止

2001年(平成13年)
「らい予防法」国賠訴訟
判決

政府
控訴を断念

原告勝訴

それからわたしは

ハンセン病療養所を
訪ねることになりました

「ハンセン病療養所を訪ねて」

2002年3月19日・20日
邑久光明園
長島愛生園

岡山県瀬戸内市邑久町

真宗法話会の方々と交流

2002年6月21日
富山

シンポジウム開催

その後、毎年6月に開催

2005年9月14・15日
草津愛泉園

群馬県吾妻郡草津町

2006年4月13・14日
多磨全生園

東京都東村山市

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真宗報恩会

「しんらんさまはなつかしい」

かぜもないのに ほろほろと
だいちのうえに かえりゆく

はなをみつめて なみだした
しんらんさまは なつかしい

よはのあらしに はなはちる
ひともむじょうの かぜにちる

はかないうきよに なみだした
しんらんさまは なつかしい

とうさまかあさま うしのうて
ひとりるてんの さびしさに

こころのみおやを さがします
しんらんさまは なつかしい

じひのなみだに めがさめて
くおんのみおやを ふしおがみ

ほとけのいのち たたえます
しんらんさまは なつかしい

やみにさまよう われらをば
みむねにしつかと いだきしめ

ひかりにかえれと しめします
しんらんさまは なつかしい

まずしきものの てをとりて
われもさびしき ぼんぶぞと

だいちのうえに ひれふした
しんらんさまは なつかしい

あらしいばらじ ふみこえて
ただしんじつの びゃくどうを

あゆみつづけし わがちちの
しんらんさまは なつかしい

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2006年5月14・15日
富山

ハンセン病市民学会総会

1400人参加

2006年9月5日
邑久光明園

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2006年9月10日
長島愛生園

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ーーーーーーーーー
最後に市民学会総会しょまさん出演ニュース映像DVDを映して、まとめ。

注意点
プレゼン中はパソコンがプレイヤーと化していますから、
話す原稿や参考資料は、プリントアウトして持参しなければいけません。

2007年01月18日

●組 同朋の会

maroさん、コメントありがとうございました。

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プロジェクターは間に合わなかったので、コンバーターでPCのモニターをテレビに映し、高橋メソッドを試してみました。

結果は、可もなく不可もなくといったところでしょうか。

自己満足なところもありますが、事前にはっきりと道筋を立てなければならないので、そのぶんすっきりとした話ができたと思いました。

かつて、能登の上野先生が「本堂に入って、その空気を読んで、そこでどういう話をするか決める」とおっしゃっていたのが思い出されます。聴衆の表情やその場の雰囲気に相応した話をすることが理想なのだと思います。

しかし、なかなかできることではありません。私なんぞは、事前に準備をしない言い訳にしていました。

高橋メソッドであらすじを立てて、さらにその場にあわせるように話をするという形ができないかなと思っています。

次回は、近所のお楽しみ会で「ハンセン病療養所を訪ねて」と題してお話します。プロジェクターが届きました。高橋メソッドにビデオと画像を加えて組み立ててみようと思っています。

できるかなぁ??

2007年01月17日

●阿弥陀経 初回 「高橋メソッド」で

高橋メソッドを使用してみたいけれど、プロジェクターは間に合わないようです。


如是我聞
-
かくのごとき
我聞きたまえき
-
このように
わたしは
聞かせていただいた
-
大乗経典は
釈尊が直接
語られたものではない
-
仏滅後200年から
300年後に
-
経典を生み出した
人々がいた
-
「わたしの仏教とは
こういうものです」
-
「釈尊はこういうことを
おっしゃる人です」
-
経典を生み出した
人々がいた
-
釈尊の言葉そのものが
残っていたとしても
-
それを読む人
実践しようとする人が
いなければ
-
意味がない
-
聞く人
感動する人が
いなければ
-
経典は
眠っているだけ
-
阿弥陀経
-
一心不乱に
お念仏しなさい
-
なむあみだぶつ
なむあみだぶつ
なむあみだぶつ
-
念仏者を
つぎつぎと
生みだしてきた
-
インド
中国
日本
-
国を超えて
時を超えて
-
いま
ここにまで
伝えられてきた
-
如是我聞
-
初めてそこに
仏教が誕生する
-
三宝
仏・法・僧
-
「僧」=教団
-
「仏」を大切にする人々
-
「法」を聞く人々
-
三宝が揃って
はじめて
仏教が成立
-
阿弥陀経
-
「如是我聞」
このようにわたしは
聞かせていただいた
-
「一時」あるとき
-
「舎衛国」
古代インドのコーサラ国
-
「祇樹給孤独園」
略して「祇園」
-
「祇樹」
「太子ジェートゥリの森」
-
「給孤独」
「身寄りのない者に
施しをする」
-
スダッタ長者
-
「祇樹給孤独園」
「祇園精舎にて」
-
今日は
ここまでにしておきましょう
-
ご清聴
ありがとう
ございました

●明日の組同朋会 プレゼンを意識して

如是我聞 かくのごとき、我聞きたまえき このように、わたしは聞かせていただいた
大乗経典は釈尊が直接語られたものではない 経典を生み出した人々がいた
「わたしの仏教とはこういうものです」 「釈尊はこういうことをおっしゃる人です」

阿弥陀経に書いてあることは 「一心不乱にお念仏しなさい」
「なむあみだぶつ なむあみだぶつ」 念仏者をつぎつぎと生みだしてきた
インド 中国 日本 国を超えて 2000年の時を超えて
いま、ここにまで 伝えられてきた

釈尊の言葉そのものが 残っているとしても
それを読む人、実践しようとする人がいなければ 意味がない
聞く人 感動する人がいなければ 経典は眠っているだけ
如是我聞  初めてここに 仏教が誕生する

三宝 仏・法・僧 「僧」とは教団 三宝が揃うことが 大事

初転法輪 初めて釈尊が説法 ガンダーラ美術 

一時 あるとき 舎衛国 古代インドのコーサラ国 釈迦族を滅ぼした大国
祇樹給孤独園 略して「祇園」
「祇樹」「太子ジェートゥリの森」 「給孤独」「身寄りのない者に施しをする」

インドのシュラーヴァスティーにスダッタという、身寄りのない者を憐れんで食事を給していたため、人々から「給孤独者と呼ばれていた富豪がいた。

ある日、スダッタは釈迦の説法を聞いてこれに帰依し、彼に説法のための寺院を寄付しようと思い立った。

そして見つかった土地が、太子ジェートゥリの所有する森林であった。その土地の譲渡を望むスダッタに対してジェートゥリが、必要な土地の表面を金貨で敷き詰めたら譲ってやろうと戯れで言った所、スダッタが本当に金貨を敷き詰め始めたため、ジェートゥリは驚いて、そのまま土地を譲渡し、更に自らも樹木を寄付して、寺院建設を援助した。

これ故、この僧園はジェートゥリ太子と給孤独者スダッタ両者の名を冠して祇樹給孤独園と呼ばれ、そこに建てられた精舎を祇樹給孤独園精舎と称するようになった。

周利槃陀伽

釈迦の弟子である周梨槃特(スリバンドク)が、自分の名前を忘れてしまうため、釈迦が首に名札をかけさせた。しかし名札をかけたことさえも忘れてしまい、とうとう死ぬまで名前をおぼえることができなかった。その後、死んだ周梨槃特の墓にいくと、見慣れない草がはえていた。そこで「彼は自分の名前を荷って苦労してきた」ということで、「名」を「荷う」ことから、この草に茗荷と名付けた。

ビデオ鑑賞 仏典童話「パンタカ二人」

2007年01月16日

●法性・プロジェクター

昨夜は常讃寺にて安田理深真仏土巻聴記読書会。
第一講「生命の構造」が終わりました。
最後に往還二廻向が出てきまして。
還相というのは娑婆に還るんだという理解は持っていたつもりなのですが、
さらに「本来の自分にかえること」という言葉が出てきてぶっ飛んでしまいました。

触れる機(自己)を磨けば、仏は映る。自己を忘れて仏を求めるのは、自己の分際を知らぬからである。

田舎で念仏者のじいちゃん、ばあちゃんと出会ってきましたが、自己の愚かさを明るく見つめ、深いやさしさでもって世の中を見ている方々でした。それが往還二廻向の相なのかなと、思いました。

さて今日は、迷いに迷ったのですが、楽天で↓を注文しました。

明後日の組同朋会に間に合うかな?

2007年01月14日

●プレゼンかよ!

けんちんさん、murakamiさん、コメントありがとうございます。

それで、前のエントリーには間違いが二点ありまして。

まず、office2007はまだ発売されていません。Vistaと同時に出るらしいです。

そして、愛用のVAIOをよく見てみたら、なにやらそれらしい端子がついてまして。

こいつに外部ディスプレイ出力端子があるなんて、今の今まで知りませんでした(汗

それで、二月二日に教務所で10組門徒会の方々に、教区御遠忌テーマについて話をせよとの要請を受けておりまして。

そして、教務所にはプロジェクターがありますわね。

むーん、こうなってくると、どういう展開になるかというと???


ノートにパワーポイント、インスツール、しちゃいますか。。。

●パワーポイント

中学生の娘が、宿題でパワーポイントを使わなければならないというので、驚いた。

いまどきは、ワードの次にプレゼンテーションソフトを学ぶようなことになっているようだ。

確かに、ノートパソコンにプロジェクターをつないでパワーポイントで見せる講義が多くなっている。

まだ、法話で使っているのは見たことがないけれど。

オレもパワーポイントもやらんとあかんのかなぁ。

外部出力のあるノートも必要なのかなぁ。

office2000は持っているので、娘はそれで作っていったが、学校のバーションは2003だということだ。

officeはすでに2007が出ている。

バージョンアプしといたほうがいいのかなぁ。

Vistaとかも出るらしいなぁ。

テレビは4年後までにはデジタル化しないとだし。。。

なんだか、あわただしい、ことですな。

2007年01月12日

●講義を受けて

ここに世尊、阿難に告げて曰わく、「諸天の汝を教えて来して仏に問わしむるか、自ら慧見をもって威顔を問えるか」と。阿難、仏に白さく、「諸天の来りて我を教うる者、あることなけん。自ら所見をもって、この義を問いたてまつるならくのみ」と。仏の言わく、「善いかな阿難、問えるところ甚だ快し。深き智慧、真妙の弁才を発して、衆生を愍念せんとして、この慧義を問えり。

 大経のこの部分、らくりさんと私と、読み方が違いました。
私はこれまで世尊の二つの推測、「諸天の汝を教えて来して仏に問わしむるか、自ら慧見をもって威顔を問えるか」に対して、阿難は後者の方だと。誰からに言われたわけではなく、自分でそう思ったんですと答えているのだと思っていました。
 らくりんさんは「自ら慧見をもって」というのは、啓示のような宗教体験、いわゆる「悟った」から分かったのか?という問いであり、阿難は「そういうわけでは無いけれども、ただそう思ったのです。」と答えたと読まれました。つまり世尊の二つの推測のどちらにも当てはまりません、というわけですね。
 そこで釈尊は「お前は悟ったものでしか起こせない問いを起こしているのだぞ」とおっしゃっている。らくりんさんの解釈は、悟れない、悟っていないとされているものが仏法と出会っていくという問題に貫かれていることです。

 講義のなかでは、後序の法難、選択集の書写についての文章が、それぞれの出来事が起こった同時期に書かれた文脈、そのままになっていることを指摘されました。さらに化身土巻の大集経からの引文が法難を暗喩する内容になっていることも。そこから、かつて吉水教団への弾圧が、不当であること、「法難」であることを示すために、真実の仏教とはいかなるものかを明らかにするというのが、親鸞が教行信証を書いた目的であったとされました。
 教巻における大経からの引文は、世尊と阿難の新たな出会いについて書かれています。そこには、法然と親鸞との出会いが重ねられていると言われています。らくりんさんの教・行・信・証の展開についてのお話をお聞きしていると、法然と親鸞だけではなく、吉水で法然上人がさまざまな人々とどういう出会い方をしていたのかが、経論釈からの引文をとおして表現されているのだと思いました。阿難と重なる人々の仏法との出会い方ですね。晩年、親鸞は「西方指南鈔」という法然の行実を何度も書写しておられますが、吉水教団こそが真実の浄土の教えが実践された場所であったのだと、親鸞はその後の生涯を通して、ずっと考えていたのでしょう。

 講義を聞いたあとで、お世話になった先生方の跡にお参りをしました。教化に勤しまれているお二人と共に、広大な能登の地を巡りました。右も左も分からず、途方に暮れていた私に、お二人がどのように接してくださったのかが、浮かんできました。講義と、もしかしたら、関連があったのかもしれません。

2007年01月11日

●らくりんさんの講義 聞き書き

「教行信証」の名称は「顕浄土真実教行証文類」。名称が「教行証」なのはなぜか。仏教の中で、その仕組み、成り立ちはこの3つで。教えに基づいて実践(行)をして証。信はそのなかに入る必要が無かった。行じていれば信じているはず。行の中に信も含まれている。取り立てて言うことではなかった。信は仏教を確かめる際には元来必要は無かった。3つの要素で仏教は明らかになる。信が入るのは親鸞の独特の発想。入るとすれば「教信行証」。「教行信証」との違いをはっきりさせるのが今回の目標。

信心がはっきりすれば、なんまんだぶつ称える必要は無いのではないのではないか。「名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり」念仏しても必ずしも信心があるわけではない。教えを信じて念仏する? 念仏に対する信頼なら「教行信証」? 信心がある人の念仏とない人の念仏は同じか? おなじなら「名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり」と言えないのではないか?

教→行 行→信 信→証 証→行

教が教になるとはどういうことか。あなたは大経がよいと思って読んでいるか? 「それ真実の教を顕せばすなわち大無量寿経これなり。」これは親鸞が顕しているのか? 私はできない。なら親鸞はできるのか?
「顕」は他動詞。顕すではなく、顕される。「賢者の信を聞きて、愚禿が心を顕す」愚禿の心が顕れてきた。「顕れてくるとすれば」と訳す。見定める。

これがあればなにもいらないというものを、どうやって決められるか。決める力は無いけれども、それがほしい。決め方がいい加減だと、途中で迷う。念仏聞いて最初から好きな人がいるか。みな自分の好みで選ぶ。誰でもできることは選ばない。難しいものも選ばない。ちょうどいいもの。しかし、それが自分に合っているか分からない。ではなぜ大経が真実教なのか? 私がそれを信用している仕組み。その最初がはっきりしないと途中で迷う。法然を信用したから? 説法が始まる前、発起序。「なにをもってか、出世の大事なりと知ることをうる。」この人が仏だとどうして分かるか。

阿難。今日は仏様のようですね。阿難は悟っていなかった。それなのに分かった。一般に宗教的経験 啓示というが、阿難は宗教体験をしていなかった。(それを、阿難は拒否した? 悟ったものの問題点を見ていた? by藤元正樹)見る力のないものに見えた。見えたときに釈迦の方が気がつく。我々は真実を見たときに、そっぽを向いてしまうかもしれない。素晴らしいものがあっても、それと分からなかったり、背いてしまうかもしれない。真実はわたしの判断力をさしはさまないところで選ぶしかない。何が説かれているかではなくて、誰に向かって説いているか。わたしのようなものの前に説かれる。素晴らしいと思えないもののために、大経がある。

寺と神社。両方行ってもいいのか。違いはどこにあるのか。神社は煩悩を膨らませる。育てる。煩悩はいいことだとする。寺はその前提を疑い、否定する。大学合格、受かるまではうれしいが、そのあとはもたない。願望は続かない。そこには受かる事はいいことだという前提があった。受かる事はほんとうにいいことなのか? 願望の前提を疑う。←戸惑い、反感。我々は教えを求めるだろうか? 煩悩を否定的に捉えることは迷惑なことなのに。不請の法。それを与えようとするのが普賢。ほしくない。

ではいつ聴きたいという気持ちが起こったのか。誰かからもらったのか。創ったのか。なぜ聴きたいという気持ちになったのか。なぜ阿難に、ああしたことが起こったのか。聴きたいという気持ちなんか無かった。気がついたら聞きたくなっていた。それが大経の説法。なぜ仏法がいいという気持ちが起こったのか。そこ気持ちを与える力を持つものは無い。法蔵菩薩の願心。法蔵菩薩がそうさせた。事実としてそういうことが起こっている。法蔵菩薩の願心がお前に起こった。それが大経の願文、内容。

我々は聞いても喜べないが、喜んだ人が法蔵菩薩。大経の話は、法を求める心が主人公。我々は国王(所有、支配)になりたい。しかし、それを捨てた人が法蔵比丘。嘆仏偈、私もあなたのようになりたい。教えを聴きたいと思ったとき、光顔巍巍。法蔵菩薩と同じことが阿難に起こった。法蔵は発心を自覚している。菩提心。求無上道。どこまでいっても終わらない道。讃嘆。仏をほめたたえる。普通は成功した人をほめる。評価している。評価するときは、他人を。こちらは関係ない。相手のよしあしで、こちらの態度を変える。仏への讃嘆はどうか。仏はいつもと同じなのに、阿難が気がつく。阿難の方が変わった。目の前にいてもその人の本当の価値は知らない。仏を見たときに讃嘆。仏に出会う。如来がいるとしか思えないことが起こる。それを信用するしかない。信じられるからねんぶつ? それは「教信行証」。我々は真実に出会ってもそっぽを向く。わからないものが仏法に出会うやり方は、阿難の方法しかない。私がわかったというものは、本当にそれでいいのか。

龍樹。声聞縁覚は菩薩の死。悟ろうとしたもの。自分が悟ったと思う。他の人がどうでもよくなる。教えてもらって悟ろうとするのが声聞。師につかずに悟ろうとするのが独覚。生死の大海を渡ったものはだれもいないとしても、一人いれば、あらゆる人々を救っていくだろう。それが菩薩。無明は知識や経験が多いと生じやすい。傲慢さ。複雑で念入り。

真実教を決定するものを普通は信という。信じて念仏する。しかし、教えからなぜ行が出てくるか。法蔵から世自在王仏へ教えてください。しかし、「汝自当知」と。自分自身で向き合っていくしかない。手に負えない行を教えてください。

十一願、十二願 光明無量 諸仏の国を見せる(国土を見せる)。観経だと「光台現国」。三十一願、三十二願。摂浄土の願。諸仏世界が照らし見せる。仏に出会う世界。そこに如来の働きがある。なにをもって仏の出世の本願。その働きが阿難に発起序で起こっていた。諸仏を見ていた。その出来事の中に、三十一願、三十二願、諸仏に出会えたのは如来の働き。私たちは諸仏にどこで出会うか。それには気がつかない。仏仏相念(仏)。仏を念じている人。讃嘆している人。念仏者、あるいはその声に仏を見出す。囲まれているのに仏に出会っていない。念仏の声のなかに。光明 見せる 清浄 働き。気がつかない。迷いと同様に、出合ったことに気がつくのは後。

国土の善悪を選択、摂取。それを考えたのが五劫思惟。沈黙。無上殊勝の願を超発。自分が否定されていく。自分を超えた願い。最初は、教えてくれ。やりかたが分からないと思っていた。やるべき事は分かっているつもりだった。なんじみづからしるべし。自分の思いが破られていく。自分の思いを超えたものが願われる。五劫思惟。沈黙。48願として、願いが明らかになる。どうしたらいいかは問題にならなくなる。

我々に呼びかけられている願いは18,19,20。18は 至心 信楽 欲生。善導は称名と受け止めた。法蔵が願いを実現するために、称名をさせようというのが善導。念仏する人が現れるとは、18願が実現した姿。阿弥陀の本願を現行している。念仏者の姿が、本願が実現した姿。教が行となる。教えが具体的姿となって顕れる。これがその通りと受け止めるのが信。信頼する。念仏者の気持ちは問題でなくなる。教えが顕れる。17願成就、諸仏称名之願。18願成就。称える人に仏として出会えるか。それが行を信ずるということ。教が行として実現していると信じる。

いまの教団は、念仏者を敬うことを忘れ、バカにして、信心を植えつけようとしている。敬うことが、諸仏として出会うこと。念仏者が生まれるところに、法蔵菩薩の信心が顕れている。阿難は讃嘆しながら、讃嘆していると気づいていない。釈迦は阿難の中に仏を見ている。仏仏相念。

法難の当事者 親鸞。個人名をださないが、誰が過ちを犯したかをはっきり書く。主上臣下。その根拠は法と義。仏法とはなにか。法とはなんなのか。真実教。本当によるべきものはなにか。大経。承元の法難はなぜおこったのか。法然に出合ったから。出会いが選択集の書写へ印可。出合った、聞いた教えは弾圧された。ならば、あなた方が間違っていると言える教え。法然から聞いた教え。大経が真実と我々は疑わない。大経はわたしのために説かれた教典。何が真実が分からない人を対告衆にしているから。

経典はすべて釈尊の説法ではない。4,500年たっている。しかし、これだけのものをつくった。物語を作った、思想表現。教行信証を書いた人を親鸞と呼ぶ。ニセモノかもしれない。親鸞が誰を龍樹と呼んでいるか。十住毘婆沙を書いた人を龍樹とする。大経を、この説法を説いた人を仏と呼ぶ。大経をとおして出会う。

教が行になる。教の精神はどのような形で我々に現れるのか。法蔵の精神が我々の前に現れる。「大行とは無碍光如来の名を称するなり。」「称することなり」とは書いていない。大行とは称する声となる。声となって顕れて来る。行→信 成就文。称えられた声が聞こえる。行信。17願の願いを成就しているのが念仏者。聞いた喜びを一念とあらわした。その仲間に入れてもらう。聞いたという事は信が成就しているということ。法蔵の願いを受け入れた人、どういう意識をもっているかは問題とならない。 

最初に念仏唱えたのは浄土論における天親。「一心」「願生彼国」。受け止めたときに信が成立し、そのときに教が教となる。法を求める心が起こった。名を称えるという形で起こった。我々も九官鳥といっしょ。自分の意思で称えたわけではない。だれかに教えられたのである。

信証の関係。「念仏を称えてもなにも変わらないのはなぜか」。願いがかなうと願いは消滅する? それでは「満足」するのではない。願いはかなわなかったらいらなくなる? 願ったそのことが、願ったことで満ち足りる。かなうかかなわないかはどうでもいい。願いの尊さ。願っているのが菩薩の姿。自分が喜ぶ以上のこと願う。わたしのためではない。

2007年01月10日

●能登へ

9日、月参りを終え、そのまま能登へ向かう。

氷見の阿尾から山を越えて田鶴浜を目指すが、途中で石動山の看板が眼に入り寄道。
山の奥深く、いかにも修験道の風情にたどり着いたが、資料館は3月まで閉館。
そこからふたたび山越えを図るが、断崖絶壁、枯れ木を踏み分け、なんとか下界にたどりつく。

能登自動車道は使わず、懐かしい海岸線を、のと鉄道と競争しつつ、穴水へひた走り、
ふたたび山を越えて、目的地の輪島に到着。

能登「青草びとの会」に参加。
能登の者でもないし、専修学院卒でもないのだが、以前、ここで駐在教導をしていたときに関わりを持っていた。
10年ぶりに参加する。メンバーも大半が次の世代に移行してしまっていた。

でも能登はやっぱり懐かしい。「青草びとの会」、妙な愛着がある。
部外者ではあるが、富山でもこの会は開けないものだろうか?

二日間にわたって、らくりんさんの講義を拝聴。
そして、お世話になった濤先生が一昨年、亡くなられたことを、初めて知る。

10日の昼で日程は終了。
ふと、二人の先生のお寺を訪ねることにする。

輪島から海岸線を珠洲へと向かい、濤先生のお寺へ。
法名になってしまった先生に手を合わせる。
お世話になった。涙が出そうになる。

珠洲から自動車道を乗り継いで、田鶴浜の上野先生のお寺へ。
先生の法名に手を合わせる。思い出が蘇る。
5年前に亡くなっておられるのに、なかなか足を運ぶことができなかった。
やっとお礼を申し上げにこれるようになりました。

帰り道、夕日に照らされた能登の情景は、別世界のように美しかった。

再び山を、今度はすんなりと越え、氷見から水橋へと帰宅。

2007年01月07日

●オススメ!! テレビ番組

昨日たまたまみたのですが、とてもおもしろかったです。みなさまにオススメです。  

課外授業ようこそ先輩 ~何もないところからはじめよう~

出演:中村哲医師、古賀市立古賀西小学校6年1組のみなさん

再放送:
2007年1月 7日(日) 午前8時5分 ~8時35分 (NHK教育)
2007年1月11日(木) 午前3時15分~3時45分 (NHK BS-2)

●やっと楽になりました。

今日はYouTubeとかで中川翔子の動画を見ていました。

デビューからの彼女の活躍を集中的に見たわけですが、
あらためて、ただのアイドルではないなと。
実に魅力的なキャラですな。

あとネプリーグの秋葉カンペーさんのコーナーにはまってしまいました。
堀内健、やはり、只者ではない。

YouTubeもこれから規制が厳しくなるそうで。
しょうがないですけど、少々残念。

2007年01月04日

●四日の年始客

今年初めての月参りを終えて帰ってきたら、近所のじいさんが本堂に入っていく。

ちょうどウチが留守になっていて、慌てて座敷のファンヒーターを付け、私ひとりで出迎える。

このじいさん、玉永寺にたびたびお見えになるが、いつも顔見知りのお手次ぎ寺院の悪口を延々と述べられる。

一昨年だったか、そのしつこいことにこちらが切れてしまい、ケンカ口論したことだ。

お茶をお出しして、ただ相槌を入れつつ、相変わらずの話を聞いていた。

ふと、「本堂でおまいりをしてほしい」と頼まれる。

思わず、「なんでですか?」というおかしなことを聞いたりしたが、まぁおっしゃるとおりにした。

「ありがとうございました」と、そのまま自転車でお帰りになられた。

やれやれと休んでいたら、ふたたびお見えになり、「お布施を渡すのを忘れた」と。

ちょうど帰ってきた母と、外て30分ほど歓談して帰られた。

なにを話していたのか母に聞いたが、「なにを言いたいのか半分も分からなかった」とのことだった。


じっさい、世の中にはいろんな想定外の人がいる。

「他者を尊重する」なんてカッコのいいことが、いつでも言えるわけでもない現実。

私の差別心を想定して蓮如さんは「仏法は、知りそうもなきものが知るぞ」と、諭してくださったのか。

なんてね。

2007年01月03日

●正月さんがにち

元旦は年始のお客さまをお迎えし、午後から村の新年会。

近所の方とお話して、子ども会を続けていることを評価していただいているなと感じました。

二日は早朝に枕経。富山市中心部に点在するご門徒宅へ年始の挨拶まわり。

以前は、寺の鏡餅を割って配り、各家でお勤めもしたそうです。

くたくたになって帰ってみれば、弟夫妻甥っ子姪っ子で居間の人口密度がいっぱいいっぱい。

酸欠状態でボーっとしているうちに、慌しくみんな帰っていく。

今日はやっとのんびりできるかと思ったのですが、そうはいかんのですか。

母とかみさんに叱られつつ、掃除してました。

勘弁してください。もう、動きたくないんです。どうしてくれましょう。

午後から納棺です。

2007年01月01日

●尾田さんの掲示板にて

先日玉永寺の寺宝を拝見させていただきありがとうございます。砺波市には寺院数が80カ寺ありますが、慶長の年号の持つ絵像はありません。南砺市の瑞泉寺・善徳寺にしかないと思われます。水橋の古さと、真宗の広がりを垣間見る思いがいたしました。 また法蔵菩薩の絵像も、どきどきと拝見しました。法蔵菩薩の石仏や木像が呉東に多くありますが、これは明治中期に造立されています。富山東別院建設と廃仏毀釈との関連を調べています。富山藩の廃仏希釈の大津波は、門徒さんにどのように受け、どうような影響を受けられたか、興味深く感じています。

明治三年に富山藩は仏教寺院を宗派ごとに一カ寺に合併させるという事件が起こった。これは明治政府の神仏分離に呼応するもので、過激な廃仏毀釈であった。また富国強兵のため仏像仏具を鋳つぶし兵器製造を計画もされ、藩内の真宗寺院約二五〇カ寺一二〇〇人余りは畳二四〇畳ほどのところにおしこまれ、仏像仏具も持ち込まれていた。富山藩の仏教界は受難を迎えていた。全国的にも宗教界は混乱を極め、東西本願寺の財政は極度に悪化をしていた。

・門徒と法蔵菩薩
西本願寺では講社の活動を活発化し募金活動が展開され、富山にも多くの講が設立され消息が下付されている。特に法蔵菩薩の石仏の多い「新川地区には質素な日暮の中で法義弘通を行なうことなどを決議され、革新の機運がみなぎっていた。」(『越中念仏者の歩み』)。新川郡は加賀藩ではあるがこんな時期に、真宗門徒も熱狂的に真宗に聞法されて行かれた。報恩感謝つまり、「私のためにご苦労され、やせ細られた法蔵菩薩」に感謝し、恩に報いるための営為で、生かされる喜びに歓喜された証であろう。生きていることに対し、また救ってくださった弥陀に対し御恩報謝の念がやせ仏の法蔵菩薩に向けられ、それがまた庶民である門徒の平生業成の生き方として、法蔵菩薩が道端や野に安置されたのであろう。真宗の門徒にとっては、阿弥陀は家の仏壇に安置されるものであり、野に置くのは憚れたのであろう、

やせ仏の法蔵菩薩に、廃仏毀釈の現状に『歎異抄』後序の「上人の常の仰せには、弥陀の五劫思惟の願を、よくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけさよ」に報恩感謝・感謝報恩の念が、法蔵菩薩を像造させたのかも知れないと思われます。

また石仏は、誰が造立したかといいますと、時の青年たちであり、また本山からの御消息は、その青年たちに贈られたものだと思われます。青年講・若衆報恩講は明治期に草創されています。
廃仏毀釈と大谷派富山教区の門徒の青年たちに、目を向けれると今後の方策が見えるように思われます。法蔵菩薩の調査が、今後の教団の方向性が見えるようです。

明治13年に、消失していた東本願寺の再建が始まり、同じ年に富山に大谷派説教所、後の東別院が設置されます。本山両堂は明治28年に完成しています。世界最大級の木造建築物をぶっ建てたエネルギーは、名も無い人々が地方で小さな石仏をたくさん作られた思いと、重なっているのでしょうか。

本山両堂を再建し、富山別院を開かれた先人たちの苦労に「なんでここまでできたんだろう」と驚くだけでなく、彼(女)らがどういう時代の空気の中にいたのかを、知りたいなと思いました。 

●初日の出

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あけおめ、ことよろ、です。

今朝はメチャメチャ寒い。参詣客の出足が遅く、てもちぶさたです。

大晦日、光ってた人は、私的に、武田奈也、所英夫、DJオズマ、そして今井美樹夫妻でした。

除夜の鐘、若衆に任せて、引っ込んでました。子ども会のみんなが来てくれて、感謝でした。