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2007年01月01日

●尾田さんの掲示板にて

先日玉永寺の寺宝を拝見させていただきありがとうございます。砺波市には寺院数が80カ寺ありますが、慶長の年号の持つ絵像はありません。南砺市の瑞泉寺・善徳寺にしかないと思われます。水橋の古さと、真宗の広がりを垣間見る思いがいたしました。 また法蔵菩薩の絵像も、どきどきと拝見しました。法蔵菩薩の石仏や木像が呉東に多くありますが、これは明治中期に造立されています。富山東別院建設と廃仏毀釈との関連を調べています。富山藩の廃仏希釈の大津波は、門徒さんにどのように受け、どうような影響を受けられたか、興味深く感じています。

明治三年に富山藩は仏教寺院を宗派ごとに一カ寺に合併させるという事件が起こった。これは明治政府の神仏分離に呼応するもので、過激な廃仏毀釈であった。また富国強兵のため仏像仏具を鋳つぶし兵器製造を計画もされ、藩内の真宗寺院約二五〇カ寺一二〇〇人余りは畳二四〇畳ほどのところにおしこまれ、仏像仏具も持ち込まれていた。富山藩の仏教界は受難を迎えていた。全国的にも宗教界は混乱を極め、東西本願寺の財政は極度に悪化をしていた。

・門徒と法蔵菩薩
西本願寺では講社の活動を活発化し募金活動が展開され、富山にも多くの講が設立され消息が下付されている。特に法蔵菩薩の石仏の多い「新川地区には質素な日暮の中で法義弘通を行なうことなどを決議され、革新の機運がみなぎっていた。」(『越中念仏者の歩み』)。新川郡は加賀藩ではあるがこんな時期に、真宗門徒も熱狂的に真宗に聞法されて行かれた。報恩感謝つまり、「私のためにご苦労され、やせ細られた法蔵菩薩」に感謝し、恩に報いるための営為で、生かされる喜びに歓喜された証であろう。生きていることに対し、また救ってくださった弥陀に対し御恩報謝の念がやせ仏の法蔵菩薩に向けられ、それがまた庶民である門徒の平生業成の生き方として、法蔵菩薩が道端や野に安置されたのであろう。真宗の門徒にとっては、阿弥陀は家の仏壇に安置されるものであり、野に置くのは憚れたのであろう、

やせ仏の法蔵菩薩に、廃仏毀釈の現状に『歎異抄』後序の「上人の常の仰せには、弥陀の五劫思惟の願を、よくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけさよ」に報恩感謝・感謝報恩の念が、法蔵菩薩を像造させたのかも知れないと思われます。

また石仏は、誰が造立したかといいますと、時の青年たちであり、また本山からの御消息は、その青年たちに贈られたものだと思われます。青年講・若衆報恩講は明治期に草創されています。
廃仏毀釈と大谷派富山教区の門徒の青年たちに、目を向けれると今後の方策が見えるように思われます。法蔵菩薩の調査が、今後の教団の方向性が見えるようです。

明治13年に、消失していた東本願寺の再建が始まり、同じ年に富山に大谷派説教所、後の東別院が設置されます。本山両堂は明治28年に完成しています。世界最大級の木造建築物をぶっ建てたエネルギーは、名も無い人々が地方で小さな石仏をたくさん作られた思いと、重なっているのでしょうか。

本山両堂を再建し、富山別院を開かれた先人たちの苦労に「なんでここまでできたんだろう」と驚くだけでなく、彼(女)らがどういう時代の空気の中にいたのかを、知りたいなと思いました。 

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