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2007年01月11日

●らくりんさんの講義 聞き書き

「教行信証」の名称は「顕浄土真実教行証文類」。名称が「教行証」なのはなぜか。仏教の中で、その仕組み、成り立ちはこの3つで。教えに基づいて実践(行)をして証。信はそのなかに入る必要が無かった。行じていれば信じているはず。行の中に信も含まれている。取り立てて言うことではなかった。信は仏教を確かめる際には元来必要は無かった。3つの要素で仏教は明らかになる。信が入るのは親鸞の独特の発想。入るとすれば「教信行証」。「教行信証」との違いをはっきりさせるのが今回の目標。

信心がはっきりすれば、なんまんだぶつ称える必要は無いのではないのではないか。「名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり」念仏しても必ずしも信心があるわけではない。教えを信じて念仏する? 念仏に対する信頼なら「教行信証」? 信心がある人の念仏とない人の念仏は同じか? おなじなら「名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり」と言えないのではないか?

教→行 行→信 信→証 証→行

教が教になるとはどういうことか。あなたは大経がよいと思って読んでいるか? 「それ真実の教を顕せばすなわち大無量寿経これなり。」これは親鸞が顕しているのか? 私はできない。なら親鸞はできるのか?
「顕」は他動詞。顕すではなく、顕される。「賢者の信を聞きて、愚禿が心を顕す」愚禿の心が顕れてきた。「顕れてくるとすれば」と訳す。見定める。

これがあればなにもいらないというものを、どうやって決められるか。決める力は無いけれども、それがほしい。決め方がいい加減だと、途中で迷う。念仏聞いて最初から好きな人がいるか。みな自分の好みで選ぶ。誰でもできることは選ばない。難しいものも選ばない。ちょうどいいもの。しかし、それが自分に合っているか分からない。ではなぜ大経が真実教なのか? 私がそれを信用している仕組み。その最初がはっきりしないと途中で迷う。法然を信用したから? 説法が始まる前、発起序。「なにをもってか、出世の大事なりと知ることをうる。」この人が仏だとどうして分かるか。

阿難。今日は仏様のようですね。阿難は悟っていなかった。それなのに分かった。一般に宗教的経験 啓示というが、阿難は宗教体験をしていなかった。(それを、阿難は拒否した? 悟ったものの問題点を見ていた? by藤元正樹)見る力のないものに見えた。見えたときに釈迦の方が気がつく。我々は真実を見たときに、そっぽを向いてしまうかもしれない。素晴らしいものがあっても、それと分からなかったり、背いてしまうかもしれない。真実はわたしの判断力をさしはさまないところで選ぶしかない。何が説かれているかではなくて、誰に向かって説いているか。わたしのようなものの前に説かれる。素晴らしいと思えないもののために、大経がある。

寺と神社。両方行ってもいいのか。違いはどこにあるのか。神社は煩悩を膨らませる。育てる。煩悩はいいことだとする。寺はその前提を疑い、否定する。大学合格、受かるまではうれしいが、そのあとはもたない。願望は続かない。そこには受かる事はいいことだという前提があった。受かる事はほんとうにいいことなのか? 願望の前提を疑う。←戸惑い、反感。我々は教えを求めるだろうか? 煩悩を否定的に捉えることは迷惑なことなのに。不請の法。それを与えようとするのが普賢。ほしくない。

ではいつ聴きたいという気持ちが起こったのか。誰かからもらったのか。創ったのか。なぜ聴きたいという気持ちになったのか。なぜ阿難に、ああしたことが起こったのか。聴きたいという気持ちなんか無かった。気がついたら聞きたくなっていた。それが大経の説法。なぜ仏法がいいという気持ちが起こったのか。そこ気持ちを与える力を持つものは無い。法蔵菩薩の願心。法蔵菩薩がそうさせた。事実としてそういうことが起こっている。法蔵菩薩の願心がお前に起こった。それが大経の願文、内容。

我々は聞いても喜べないが、喜んだ人が法蔵菩薩。大経の話は、法を求める心が主人公。我々は国王(所有、支配)になりたい。しかし、それを捨てた人が法蔵比丘。嘆仏偈、私もあなたのようになりたい。教えを聴きたいと思ったとき、光顔巍巍。法蔵菩薩と同じことが阿難に起こった。法蔵は発心を自覚している。菩提心。求無上道。どこまでいっても終わらない道。讃嘆。仏をほめたたえる。普通は成功した人をほめる。評価している。評価するときは、他人を。こちらは関係ない。相手のよしあしで、こちらの態度を変える。仏への讃嘆はどうか。仏はいつもと同じなのに、阿難が気がつく。阿難の方が変わった。目の前にいてもその人の本当の価値は知らない。仏を見たときに讃嘆。仏に出会う。如来がいるとしか思えないことが起こる。それを信用するしかない。信じられるからねんぶつ? それは「教信行証」。我々は真実に出会ってもそっぽを向く。わからないものが仏法に出会うやり方は、阿難の方法しかない。私がわかったというものは、本当にそれでいいのか。

龍樹。声聞縁覚は菩薩の死。悟ろうとしたもの。自分が悟ったと思う。他の人がどうでもよくなる。教えてもらって悟ろうとするのが声聞。師につかずに悟ろうとするのが独覚。生死の大海を渡ったものはだれもいないとしても、一人いれば、あらゆる人々を救っていくだろう。それが菩薩。無明は知識や経験が多いと生じやすい。傲慢さ。複雑で念入り。

真実教を決定するものを普通は信という。信じて念仏する。しかし、教えからなぜ行が出てくるか。法蔵から世自在王仏へ教えてください。しかし、「汝自当知」と。自分自身で向き合っていくしかない。手に負えない行を教えてください。

十一願、十二願 光明無量 諸仏の国を見せる(国土を見せる)。観経だと「光台現国」。三十一願、三十二願。摂浄土の願。諸仏世界が照らし見せる。仏に出会う世界。そこに如来の働きがある。なにをもって仏の出世の本願。その働きが阿難に発起序で起こっていた。諸仏を見ていた。その出来事の中に、三十一願、三十二願、諸仏に出会えたのは如来の働き。私たちは諸仏にどこで出会うか。それには気がつかない。仏仏相念(仏)。仏を念じている人。讃嘆している人。念仏者、あるいはその声に仏を見出す。囲まれているのに仏に出会っていない。念仏の声のなかに。光明 見せる 清浄 働き。気がつかない。迷いと同様に、出合ったことに気がつくのは後。

国土の善悪を選択、摂取。それを考えたのが五劫思惟。沈黙。無上殊勝の願を超発。自分が否定されていく。自分を超えた願い。最初は、教えてくれ。やりかたが分からないと思っていた。やるべき事は分かっているつもりだった。なんじみづからしるべし。自分の思いが破られていく。自分の思いを超えたものが願われる。五劫思惟。沈黙。48願として、願いが明らかになる。どうしたらいいかは問題にならなくなる。

我々に呼びかけられている願いは18,19,20。18は 至心 信楽 欲生。善導は称名と受け止めた。法蔵が願いを実現するために、称名をさせようというのが善導。念仏する人が現れるとは、18願が実現した姿。阿弥陀の本願を現行している。念仏者の姿が、本願が実現した姿。教が行となる。教えが具体的姿となって顕れる。これがその通りと受け止めるのが信。信頼する。念仏者の気持ちは問題でなくなる。教えが顕れる。17願成就、諸仏称名之願。18願成就。称える人に仏として出会えるか。それが行を信ずるということ。教が行として実現していると信じる。

いまの教団は、念仏者を敬うことを忘れ、バカにして、信心を植えつけようとしている。敬うことが、諸仏として出会うこと。念仏者が生まれるところに、法蔵菩薩の信心が顕れている。阿難は讃嘆しながら、讃嘆していると気づいていない。釈迦は阿難の中に仏を見ている。仏仏相念。

法難の当事者 親鸞。個人名をださないが、誰が過ちを犯したかをはっきり書く。主上臣下。その根拠は法と義。仏法とはなにか。法とはなんなのか。真実教。本当によるべきものはなにか。大経。承元の法難はなぜおこったのか。法然に出合ったから。出会いが選択集の書写へ印可。出合った、聞いた教えは弾圧された。ならば、あなた方が間違っていると言える教え。法然から聞いた教え。大経が真実と我々は疑わない。大経はわたしのために説かれた教典。何が真実が分からない人を対告衆にしているから。

経典はすべて釈尊の説法ではない。4,500年たっている。しかし、これだけのものをつくった。物語を作った、思想表現。教行信証を書いた人を親鸞と呼ぶ。ニセモノかもしれない。親鸞が誰を龍樹と呼んでいるか。十住毘婆沙を書いた人を龍樹とする。大経を、この説法を説いた人を仏と呼ぶ。大経をとおして出会う。

教が行になる。教の精神はどのような形で我々に現れるのか。法蔵の精神が我々の前に現れる。「大行とは無碍光如来の名を称するなり。」「称することなり」とは書いていない。大行とは称する声となる。声となって顕れて来る。行→信 成就文。称えられた声が聞こえる。行信。17願の願いを成就しているのが念仏者。聞いた喜びを一念とあらわした。その仲間に入れてもらう。聞いたという事は信が成就しているということ。法蔵の願いを受け入れた人、どういう意識をもっているかは問題とならない。 

最初に念仏唱えたのは浄土論における天親。「一心」「願生彼国」。受け止めたときに信が成立し、そのときに教が教となる。法を求める心が起こった。名を称えるという形で起こった。我々も九官鳥といっしょ。自分の意思で称えたわけではない。だれかに教えられたのである。

信証の関係。「念仏を称えてもなにも変わらないのはなぜか」。願いがかなうと願いは消滅する? それでは「満足」するのではない。願いはかなわなかったらいらなくなる? 願ったそのことが、願ったことで満ち足りる。かなうかかなわないかはどうでもいい。願いの尊さ。願っているのが菩薩の姿。自分が喜ぶ以上のこと願う。わたしのためではない。

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