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2007年01月28日

●住職修習講義ノート

真宗学をするならいなかのおじいさんおばあさんの顔を見ながらにしなさい。聖人が、とも同行の人々と生きたように、観念的になってはいけない。寺で生活するとは法要をすることだけではない。聞法求道を生活とする場である。どうしたら聞法求道の場となるのか。どうかご門徒といっしょに。指導者意識をすてて共に歩むことが念仏するものの道です。問いを持続することを精進というのです。
求められるのは答え。あなたはなにを問いとしていますか。答えが求められる。丸かバツか。正しい答えを出して優秀な答えを出すことが求められている。
辛抱、辛さを抱える。問いを抱えることが一番辛い。なぜ生まれてきたのか。寺とは何か。門徒とは何か。どう生活したらいいのか。それに対して、答えを学ぼうとしている。それは役に立たないだろう。マニュアルはない。辛→幸 幸せの求め方は曖昧。問いを持続することが重要。よき人との出会いがなければ学び続けられない。
継職。なにを継ぐのか。日本人一般は、長男に家をついでほしい。家を継承するため。家は先祖祀り。われわれの幸不幸に関わるから。慰霊鎮魂。本家の息子の仕事。混乱しないように司祭権を持った人間が一族をまとめる。住職継承はそれと同じか? 真宗は先祖祀りはしない。職とは何か。聞法求道。教えを聞き、教えを相続する立場。なにを継ぐのか。なにを継いでほしいのか。本堂? 財産? 寺とはなにをするところなのか。聞法求道の場をどのように実現するのか。在る寺から成る寺へ。建物、法人としてあるものが、聞法求道の場にならなければ。責任は建物の維持管理だけではない。本当の命の拠り処を公開していけるかである。本当の寺になるにはどうしたらいいのか。問いを抱えていく。
自分の寺の状況の中で、住職と総代が話し合う。責任の重さ。自分の立場でなにができるか。そういうところに立って、生きる。同朋という言葉を使って課題を共有する。
大谷派がなにを願いとする教団なのか。宗憲前文に「同朋」が5回出てくる。宗門存立の本義。立教開宗の本義。本義。同朋社会の顕現。同朋会運動を推進する。
同朋とは「とも」。同胞の意味。はらから。胞衣、えら(あかちゃんをつつむ膜)はらから。親を同じくする。血のつながり。それは上方志向を持ちやすい。優位に立ちたい。血のつながりの共同体。他よりも上でありたい。ゆがみやすい。オリンピック。他の血のつながりに劣ることを許さない。一番になれ。最上尊。金メダルで無いとダメ。←→無上尊。かわりようがない。どの花見ても。あなたはあなたのままでいい。比べる必要は無い。無上尊の人間の関係が同朋。釈迦、諸仏を師とする。釈迦と、教えを相続してきた人々。一列平等の関係。親鸞は弟子一人も持たず。
はらから、同胞が人間の生き様。そういう生き方をしている我々がそのことを自覚し、なおかつ同朋という生き方に生きていこうとする。同胞、そのことだけに執着していてはならない。御同朋御同行といいながら背いてきた歴史がある。何が正しいか、何がゆがんでいるのか分からなくなる。見えなくなる。
同朋会運動の点検総括。大谷派の課題。個の尊厳と存在の平等が保たれる社会。一人一人の命の尊さ。自我、エゴの尊厳ではない存在の平等。互いに違う存在であることを大事にする。このことを生活の中でどのように受け止めていくか。そこで寺はなぜ存在するのか、なにをする場所なのか。
同朋精神。歎異の精神。廃悪修善 破邪顕正の心は真宗ではない。道徳的良心を押し付けるのも真宗ではない。異なるを歎くとは、慙愧。人間が人間であるために大事なもの。恥ずかしいと思う心。それがなければ人間ではない。畜生と為す。無慚無愧のこの身にて 慙愧していると思っていても、頭が下がらない。下げられるが、下がらない。慙愧にならない。同朋社会、我々の寺がそうなるかならないか。どうすれば聞法求道の場となるか。寺とは、そういう場を賜るということ。

総代の使命 人を生み出す。この場から人を生む出す場が無ければ、教団は存続しない。我々の寺も、本堂は何のためにあるのか。儀式執行の場と同時に、人を生み出す場でなければならない。蓮如上人の働き、講。門徒の自治組織。集い。定められた日に仏法の讃嘆や、談合をする集い。仏法を讃嘆し、確かめ合う。そのために話し合う。御同朋御同行すべての人が一列平等に集う。武士も、百姓も同じ場所に座る。なぜ寄り合い談合なのか。我々が聞きまどうから。素直に受け止めるばかりではないから。意巧に聞く。こころたくみにきく。自分の都合のいいように聞く。得手に聞く。得手勝手に聞く。それを見つめかえず場所が必要。慙愧。反省ならば、反省した自分を甘やかす。反省したふりをしながら、反省していない。慙愧は自我のものさしではできない。経験、体験に縛られ、我を持つ。
仏教は難しい。世間のことではないから。邪見驕慢悪衆生。仏教を自我のものさしで計る自分が難しい。自分の我に合う話。本当の話は自我を突き抜ける。それが仏法。仏法の教えを聞いて、問いを持ち続けることから。寺という場所を使ってやっていく。教えを聞いてもらう場所、その首座に立つ。後ろ姿がないと伝わらない。聖人は阿弥陀仏に手をあわせている。こちらを向いているのではない。諸仏。背中で伝わっている。道しるべは弥陀の方向を向いている人の後ろ姿。
寺、本堂を聞法求道の場にする、人を生み出す場所にする。参る人が仏の方向を見ることで本堂が成り立つ。わが身が欠けている。どんな身であるのかが見えていない。手を合わす場。時間が無ければ手を合わせられない。それほどに我々は弱い存在。こういう場によって、真宗の歴史が生み出されている。そこから念仏する人が生まれてきた。
ゐなかの人々を、とも同行にしていった。その地域社会の門徒が命の拠り処にしてきた。そういう場所がないと手を合わすことができない。どこでもできるか。できはしない。
 帰るところがはっきりしているから安心、ガマンできる。帰るところがはっきりしなければ不安。生きていることが不安になる。命終わったときに浄土にいたる。必ず。仏の願い。仏願の生起本末を聞いて疑心あることなし。願いに照らされていること、わたしのためにと聞く。聞かせてもらう場と時が無ければ。つめてあげるのではなく、仏事のときを用意してくださり、わたしのための、人生の意義を見出す場を用意してくださった。
人生をむなしく過ごすのではない。一人では聞けない。それが門徒としての証。
住職と総代が問題をどのように共有するか。互いに言える場所を作る。社会の問題が縁。私たちは自分から世の中に矢印を向けている。反対である。わたしがどうするというより、そこから私が問われている。この世の中で私たちはどのように生きるのか。お互いが自分に向かって問いかけられている。「弥陀成仏のこのかたは」「法身の光輪」「世の盲冥」奇麗事ではなくて、私に至った仏願。仏の光は既に、私を救うために照らしてくれていた。世の盲冥。それはわたしの闇。闇ときずかなかった。願われていた。私が照らされている。そこそこに生きていける。そこその人生。もう一つむなしい。どうしたら闇が晴れるか。照らされているという実感が無い。光は遮るものがあれば、あることが分かる。遮るとろにしか届かない。邪見驕慢にしか届かない。この世の中の闇に対して、我々はどのように、それをご縁に教えを聞けばいいか。
批判を受ける。泥かぶってほしい。一緒にやってくれませんか。問題を抱える辛抱。勇気。信は願より生ず。願いが清らかならば、生まれる信も清らか。不浄なら、両方不浄。

住職の使命。一番悩んだことは、真宗の教えに生きようとすればするほど、そうでない機構や教学が見えてくる。非違。寺の作り、装束、儀式作法、これがどうしてこうなったのか分からない。教えてもらえない。古い宗門体質の克服。現代社会との接点。真宗門徒の自覚と実践。御同朋御同行、同胞狭い共同体。過去をなかったことにはできない。現在の自分が立っているところが見えない。過去においてなぜ、非違化したか、狭い共同体意識のなかにこもってしまうのか。
聖人は御同朋御同行、念仏の僧伽。覚如上人が、本願寺を作る頃に権威化。御伝鈔、「本願寺聖人」として親鸞を位置づける。10代証如が権僧正になる。門跡。法主。一家衆といわれる寺、八ヶ寺が、朝廷から院家として認められる。一門一家。蓮如に血のつながる寺。九代の実如の仕事。蓮如の血統を本願寺の流れに取り入れた。血統となった。なにを継ぐのか。実如は血統とした。1565、石山本願寺が法衣の制度を定める。1569、本願寺が門跡へと。本末制。本山と末寺。「親鸞は弟子一人も持たず」なのに寺と門徒を分けることに関わる。皇族、摂関家。摂政。関白。貴族が入る寺を門跡。聖人は皇族とのつながりを持とうとしたのではない。宇多天皇897 931没 院政。御室の仁和寺。仁和は年号。真言宗。御座所。仁和寺の補佐する寺が「院家」。現役の天皇に仕えるのが「公家」。蓮如の後、院家、門跡となった。御門、帝であった人が入る寺。親鸞の思想には無い。
宮中に参内するための正装が色衣。教如上人のころ、寺格は九段階に。貴族、権威主義。1991年寺格廃止。
理想で現実を批判するのではない。教団の事実。寺と門徒。キリシタン禁止。宗門改め役。寺請証文がなければキリシタンとみなされ、一族郎党殺された。住職に逆らえなかった。
自分はこんな歴史を聞いていない。もし、このことを知らなかったら、ぞっとする。だれも教えてくれなかった。まじめに生きようとすれば、親鸞の教えに反するものが見えてくる。僧侶として住職としてどういう世界を求めたらいいか分からない。この原因を認識しないと。歴史を受けて我々がいる。根本的な原因は、御同朋御同行といいながら、血のつながりによる仲間意識が縦関係を許す。霊魂がさまよわないようにと、先祖供養をしてしまう。
住職とは何か。仏法住持職。自信教人信。曽我量深、自信教人自信。分かったから教えるでは無い。住職という責任は重い。寺を預かる。代表役員。重い責任を担う。担うという喜びがある。担うものが無ければ生きる力が湧かない。担わせていただく。住職という席を本願力により担わせていただく。自分はどう生きたらいいのか。我々は、願いを持つが、願われている存在なのだ。住職も、願われている。如来に。
願われている存在だと言うと変わる。生きていく自信が無い。自分がどうしたらという以前に、願われている。もういっぺんやろうという気持ちになる。自分が受け止めた仏の教えを自分の言葉で表現された。一人の住職として、自分がご縁をもつ寺に責任を持つ。自分のご縁のある寺に責任を持つ。自分の寺に責任を持たなければ、社会活動ということもない。新しい寺、歴史のある寺。伝承と己証。伝承だけでもダメ。己証だけでもダメ。七高僧が伝承。正信偈が己証。どういう形で自分の寺で具現化していくか。
現代社会との接点というと、そういうことではなくて、親鸞聖人の教えをききたいと言われるかもしれない。。しかし願文には「十方衆生」とある。宇宙の生きとし生けるものに向かって、本願が説かれている。成就したところには「諸有衆生」。我々は常に排除している。関わりは無い。なんとも思わない。差別を受けている人や社会的弱者は私たちの目には入らない。
寺檀関係は抜き差しならない。キリシタンにみなされる。住職に逆らえない。住職には逆らってはならないというのはそういう歴史をもっているから。そこに気づかない。門徒の自覚と実践。どこでそういえるのか。われわれのなかに厳然とある迷信。
しかし、理想に思い描くことで現実を裁いてはならない。社会、寺に起こる問題。批判する力は強いが、人間関係は崩れる。自分が100パーセント正しいとしても、半歩にする。提示する。こう変えたい。総代、門徒がどう答えるかを聞いて進む。人の意見を聞いて、受け止めたところから一歩出る。そのことの持つ意味を思い出してほしい。
「静かに己を悲しむ心より真実の力はうまる」武内了温
「己が」と考えている。己自身を悲しむ心が無ければ、本当に悲しむことにならない。
己で悲しんでいるばかり、己を悲しむ。
なにを視座にして、おかしいことをおかしいというか。どこに心を立てるか。おかしいと言った自分が問われる。私たちは戻っていける世界をもっている。念仏のなかに。それは誇り。信順を因、疑謗を縁に。疑わない、謗らないではない。小手先だけの住職は見透かされる。門徒を侮ってはいけない。共に生きていく。

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