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2007年03月28日

●植木等さん

亡くなられました とても悲しいです

本日のお講は植木等さんと 植木徹誠さんのお話しをすることにしました

南無阿弥陀仏 合掌

2007年03月27日

●同朋会レジメ

信を獲れば見て敬い大きに慶喜せん、
「信心を獲得し、仏を見て、敬い、大いに喜べば、」

すなわち横に五悪趣を超截す。
○五悪趣 地獄・餓鬼・畜生・人・天。修羅が加わると六道。
 流転する迷いの世界。
○超截  切って超えてしまう。
「すなわち、よこざまに、迷いを断ち切ります。」

一切善悪の凡夫人、 如来の弘誓願を聞信すれば、
「善人も、悪人も、どんな人も、
 阿弥陀如来の本願の教えを、聞信すれば」

仏、広大勝解の者と言えり。 この人を分陀利華と名づく。
○広大勝解 よくわかった
○分陀利華 白蓮華
「仏は、「よくわかったな」と、おっしゃいます。
この人を白蓮華と名づけます。」

弥陀仏の本願念仏は、 邪見驕慢の悪衆生、
○邪見 よこしまな見方をもつこと。
○驕慢 おごり高ぶって見下す。また、そのさま。
「阿弥陀仏の本願念仏の教えについて、
よこしまな見方をもち、教えを見下す人々が」

信楽を受持すること、はなはだもって難し。難中の難、これに過ぎたるはなし。
○信楽 信じ、ねがうこと。
「信心を受け、たもつことは、とても難しい。
難中の難です。これ以上難しい事はありません。」

(補足)「聞信」について 涅槃経より

「信不具足」
 また言わく、善男子、信に二種あり。一つには信、二つには求なり。かくのごときの人、また信ありといえども、推求するにあたわざる、このゆえに名づけて「信不具足」とす。
 信にまた二種あり、一つには聞より生ず、二つには思より生ず。この人の信心、聞より生じて、思より生ぜず、このゆえに名づけて「信不具足」とす。
 また二種あり。一つには道あることを信ず、二つには得者を信ず。この人の信心、ただ道あることを信じて、すべて得道の人あることを信ぜず、これを名づけて「信不具足」とす。
 また二種あり。一つには信正、二つには信邪なり。因果あり、仏・法・僧ありと言わん、これを信正と名づく。因果、三宝の性、異無しと言いて、もろもろの邪語富闌那等を信ずる、これを信邪と名づく。この人、仏・法・僧宝を信ずといえども、三宝の同一性相を信ぜず。因果を信ずといえども得者を信ぜず。このゆえに名づけて「信不具足」とす。この人、不具足の信を成就す、と。

「聞不具足」
 いかなるをか名づけて「聞不具足」とする。如来の所説は十二部経なり、ただ六部を信じて未だ六部を信ぜず、このゆえに名づけて「聞不具足」とす。
 またこの六部の経を受持すといえども、読誦にあたわずして他のために解説するは、利益するところなけん、このゆえに名づけて「聞不具足」とす。
 またこの六部の経を受け已りて、論議のためのゆえに、勝他のためのゆえに、利養のためのゆえに、諸有のためのゆえに、持読誦説せん。このゆえに名づけて「聞不具足」とす、と。

●同朋会予習2

信を獲れば見て敬い大きに慶喜せん、

法を聞きて能く忘れず、 見て敬い得て大きに慶べば、すなわち我が善き親友なり。(大経p50 東方偈)

すなわち横に五悪趣を超截す。

必ず超絶して去ることを得て、安養国に往生せよ。横に五悪趣を截りて、悪趣自然に閉じん。(大経 p57 善悪段)

○信巻だと「即横超截五悪趣」の方が先に「横超断四流」の釈で引かれて、「獲信見敬大慶喜」は後で真仏弟子釈に引かれる。だからもう、どこか典拠というより、正信偈はこのまま素直に読めばいいんでしょう。

一切善悪の凡夫人、 如来の弘誓願を聞信すれば、
仏、広大勝解の者と言えり(如来会)。 この人を分陀利華と名づく(観経)。

○このあたりは「獲信見敬大慶喜」とセットで真仏弟子釈に引かれている。ということで、真の仏弟子ということで。


弥陀仏の本願念仏は、 邪見驕慢の悪衆生、
信楽を受持すること、はなはだもって難し。難中の難、これに過ぎたるはなし。

もしこの経を聞きて信楽受持すること、難きが中に難し、これに過ぎて難きことなし。(大経p87)

○さあて、ここが問題で、総序とか信巻の序とか、いろいろ探してみたけど、化身土巻の真門釈の展開(p532)がいちばん似ていると思った。次の涅槃経で「邪見」「驕慢」を取り上げているから。

2007年03月26日

●同朋会準備 その1

信を獲れば見て敬い大きに慶喜せん、 すなわち横に五悪趣を超截す。
一切善悪の凡夫人、 如来の弘誓願を聞信すれば、
仏、広大勝解の者と言えり。 この人を分陀利華と名づく。

たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず。ここをもって極悪深重の衆生、大慶喜心を得、もろもろの聖尊の重愛を獲るなり。

『大本』(大経)に言わく、無上殊勝の願を超発す、と。
また言わく、我、超世の願を建つ、必ず無上道に至らん、と。名声十方に超えて、究竟して聞こゆる所なくは、誓う、正覚を成らじ、と。
また言わく、必ず超絶して去つることを得て、安養国に往生して、横に五悪趣を截り、悪趣自然に閉じん。道に昇るに窮極なし。往き易くして人なし。その国逆違せず。自然の牽くところなり。已上
『大阿弥陀経』支謙 に言わく、超絶して去つることを得べし。阿弥陀仏国に往生すれば、横に五悪道を截りて、自然に閉塞す。道に昇るに之極まりなし。
往き易くして人あることなし。その国土逆違せず。自然の牽く随なり、と。已上


設い我仏を得たらんに、十方無量・不可思議諸仏世界の衆生の類、我が名字を聞きて、菩薩の無生法忍・もろもろの深総持を得ずは、正覚を取らじ、と。已上
『無量寿如来会』に言わく、もし我成仏せんに、周遍十方無量・無辺・不可思議・無等界の衆生の輩、仏の威光を蒙りて照触せらるる者、身心安楽にして人天に超過せん。もし爾らずは、菩提を取らじ、と。已上
(大経)また、法を聞きてよく忘れず、見て敬い得て大きに慶ばば、すなわち我が善き親友なり、と言えりと。 また言わく、それ至心ありて安楽国に生まれんと願ずれば、智慧明らかに達し、功徳殊勝を得べし、と。
(如来会)また、広大勝解者、と言えりと。
また、かくのごとき等の類、大威徳の者、よく広大異門に生まる、と言えりと。
(観経)また言わく、もし念仏する者は、当に知るべし。この人はこれ人中の分陀利華なり、と。已上

「獲信見敬得大慶」というは、この信心をえて、おおきによろこびうやまう人というなり。大慶は、おおきにうべきことをえてのちに、よろこぶというなり。「即横超截五悪趣」というは、信心をえつればすなわち、横に五悪趣をきるなりとしるべしとなり。即横超は、即はすなわちという、心をうる人は、ときをへず、日をへだてずして正定聚のくらいにさだまるを即というなり。横はよこさまという、如来の願力なり。他力をもうすなり。超はこえてという。生死の大海をやすくよこさまにこえて、無上大涅槃のさとりをひらくなり。信心を浄土宗の正意としるべきなり。このこころをえつれば、他力には義なきをもって義とすと、本師聖人のおおせごとなり。義というは、行者のおのおのはからうこころなり。このゆえに、おのおののはからうこころをもったるほどをば自力というなり。よくよくこの自力のようをこころうべしとなり

●能登沖の地震

すこしずつ能登の友人と電話がつながってきました。

輪島、門前はまだ通じないので心配です。

穴水、七尾で鐘楼堂などに被害が出ています。

輪島、門前から穴水、七尾、そして富山方面へと揺れが伝わっているのかもしれない。

2007年03月24日

●スピリチュアルな阿弥陀経

明日、午後から組同朋会です。
テキスト阿弥陀経で、正宗分に入ります。
阿弥陀経に取り組むのは初体験。
「極楽」っていいですよねぇ。
もう、すぐ行ってしまいたい気分になるほど、読めば読むほど夢心地になってしまいます。
しかし、親鸞は「極楽」って言葉はあまり使わなかったし、阿弥陀経の荘厳についても取り上げていない。
私なんかも、意外に、こういう極楽世界のことについては、法話とか聞いたことがない。
だから、悩みました。
どう話したらええのやらと。

香山リカ「スピリチュアルにハマる人、ハマらない人」を読んだことが、一つ、突破口になりました。
教祖との個人的一体感とか、利他主義的な考え方が皆無というのは、もろ第二十願の問題ですよね。
「読み解く」第五巻 p172にある三心釈の配当においても、真門は深心釈(二種深信)だけで、至誠心、廻向発願心からの引文はない。けっきょく、利己的で、自己完結の世界と親鸞は見てる。すんごい、きびしい見方だと思うけど。

スピリチュアルと阿弥陀経の世界観というのは、けっこう重なるかもしれない。
そのあたりから話せたらなーと、思ってます。

2007年03月16日

●同朋会葉書

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いよいよ再開です。

●小松教区連続講座プロローグ(完成版)

1980年に出版された「不安に立つ」という対談で、安田先生は以下のように話しておられます。

歴史的、社会的現実というものが大事じゃないのかな。

それをどこまでも思想的に内面化していく。

この生々しい現実というものの問題がはっきりしてくれば、日本だの本願寺だのではない、人類が救われるんだ。

こういうことを普遍概念としていくというのが、教学でしょう。(略)

それ以外に、われわれの身をおくところはないじゃないか。

全世界の重圧を引きうけにゃならん。

このいちばん浅薄な、腐ったような現実の中に身をおかにゃならんでしょう。

教理や理論ではなくてね、悩みぬかなければならんわね。

そういうところに立たんと、教学も出てこないのじゃないのかね。

このお言葉を、多磨全生園(国立ハンセン病療養所 東京)の真宗報恩会で歌い継がれている「しんらんさまはなつかしい」という唄を通して、掘り下げてみたいと思っています。

2007年03月15日

●カルト問題研修

この時期の寒波は堪えます。お参りに家々をまわっていると、頭痛がしてきます。

午後から教区の研修会に参加しました。以下、メモ。

どういうものがカルト宗教か。

自分達だけが絶対に正しい。他の人は地獄に落ちる。他を極端に否定する。

情報遮断。否定的な人間からの情報を遮断するようにコントロールされている。新聞もウソ。否定するものの情報は一切聞こうとしない。

勧誘。信者開拓を義務的に行う。極端に行う。

抜けられない。そこが極楽であり、そこを抜けるのは地獄。恐怖感が植えつけられている。脱会自由といわれているが、自分の中のサタンを押さえるように人格形成されている。

マインドコントロール。1980年代。統一教会事件。山崎浩子が記者会見で言った言葉。洗脳とは違う。洗脳は薬物や暴力によって刑事罰を受ける。マインドコントロールは罪に問われない。同じことを何度も繰り返し。外界遮断。何時間も勉強会。すし詰め状態で人格を変えていく。

なぜ、カルト宗教は悪いのか。
入り口で嘘をついて勧誘している。宗教色を最初は見せない。

信教の自由。脱会させるために活動しているのではない。子どもが親とこれからどう対話するのか。強制脱会の後のケア。正しい教えはどこにあるのかと議論すると、両者を天秤にかけることになる。もどってきたときに怒らない。ふるさとは家である。受け皿になる土壌を大切に。
間違いをきづかせるのは困難。脱会させるという接し方は無理。仲間になる。家族に危険性を伝える。話し相手や相談相手になる。信仰を変えることはできないが、相談相手になる。

あまりの寒さに、挨拶ばかりで、早々にお参りをすませていたのですが、これじゃあかんなと思いました。

2007年03月13日

●お講チラシ

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2007年03月12日

●ドキュメント72時間が終わっちゃいます

 「ドキュメント72時間」は、全く新しいタイプのドキュメンタリーです。同じ場所や同じ人々を3日間・72時間 撮り続け、30分に凝縮させる。ドキュメンタリーにありがちなお説教や予定調和の構成は一切ありません。 「リアリティ」に徹底的にこだわって、撮影開始から72時間のあいだにカメラの前で起きたことを、ありのままに 伝えます。

 気にもとめていなかった社会の片隅の出来事。ニュースからはこぼれ落ちてしまうささやかな喜びや悲しみ・・・
そうした日常の断面の3日間を見つめているうちに、自分には関係ないと思っていた社会の営みが、自分ととても
近しく、一瞬一瞬を大切にしていることが見えてくる・・・そんな番組を目指します。

 人と人とのつながりがどんどん希薄になっている今、少しだけ立ち止まって、自分以外の日常のドラマに
目を向けてみませんか。

第15回あたりから録画して見始めたんですが、どの回もおもろかったわー。

第19回 3月6日 ナレーター:山口紗弥加
福岡 人情屋台通り

第18回 2月21日 ナレーター:鈴木 杏
名古屋 巨大リサイクルショップ

第17回 2月13日 ナレーター:吹石一恵
リゾートバイト 冬物語

第16回 2月6日 ナレーター:小池栄子
年始め ゴミ収集大作戦

第15回 1月30日 ナレーター:鈴木 杏
上野アメ横 まんが喫茶

第7回 11月14日放送 ナレーター:石田ひかり
「横浜中華街の青春」

第2回 10月10日放送 ナレーター:吹石一恵
東京・山谷 バックッパッカーたちのTOKYO

初回から全部見たかったなぁ。

観光スポットでも名所でもない。
でも、とても輝いている場所。
そこに織り成される(?)人間模様が、素敵なんです。
取り上げられた場所に、一度は行ってみたい。
今度、東京方面へ行く機会があるんですが、山谷とか行ってみようか。

明日が最終回。残念です。

ドキュメント72時間

2007年03月11日

●イタイイタイ病裁判

NHK「その時歴史が動いた」

富山を舞台とした回は、米騒動もありましたが、今回はイタイイタイ病裁判を取り上げていました。

郷土で起こった事件ですが、記憶がないのは幼かったからかな。

水俣病裁判や、四日市ぜんそく裁判などは、おぼろげにおぼえています。

島林樹弁護士がイタイイタイ病で亡くなった患者に捧げた詩

「鉱毒におかされ いたいいたい病の痛苦にたえつつ
 失われたあなたの生涯は もどらない
 しかし あなたの尊い犠牲は これからも多くの公害を告発し
 生命と健康を守るたたかいの礎として
 美しい自然をもとめる にんげんの歴史とともに
 かぎりなく 生きつづけていく」
患者さんの墓碑に刻まれています。

第267回
格差への怒り 政府を倒す
~大正デモクラシーを生んだ米騒動~

第280回
苦しむ患者を救いたい
~イタイイタイ病裁判・弁護士たちの闘い~

再放送があります。富山在住の方も、そうでない方にも、オススメです。

2007年03月10日

●文福さんの学習会に参加

連続学習会★「人権・差別・共に生きる」って何だろう
「みんなで知ろうよ ハンセン病、昔、今、未来を」
日 時:3月10日(土) 14:00~16:30
場 所:サンシップとやま 701号室
講 師:富山国際大学助教授 藤野豊氏
参加費:500円

遅刻しましたが、上記のNPO法人 文福さんの研修会に参加してきました。

正直、新しい本を出された藤野さんの最新のお考えを聞きたいと思い、参加したのですが。

意見交換、質疑応答の時間の方がおもしろかったです(汗

「人権」という概念に対抗するようにして使われる「公共の福祉」。
憲法13条「幸福追求権」によって削がれていくマイノリティの人権。
日本国憲法自体を問い直す視点からの発言に聞き入りました。

あたりまえですが、坊さんの研修会とは内容が一味も二味も違いました。
とても、刺激を受けて帰ってきました。懇親会も参加したかったな。

2007年03月09日

●「太陽」をオススメします

再びレビューを書きました。

この映画、実におもしろいです。

富山在住の方々、フォルツァ総曲輪で16日まで上映しています。

オススメします。

●法然と親鸞 その5

華の会、終わりました。 

まず、出家と法難を中心に法然の生涯を追ってから正信偈の文言へ。
選択本願の説明と浄土宗開宗の意義についておはなしました。

若坊守さんたちが、ぐいぐい内容に入ってこられるのを感じました。
法然上人の教えは、実に明快で分かりやすい。
聞く人に、ぐっと迫るものがあるんだと実感しました。

しかし、一番仏教から遠いとされていた人々こそ、弥陀の救いの対象なのであるという、法然の逆転の発想は、理解できたとしても本当に信じる事は、とても難しい。世の中はしっかりエリートを頂点としたピラミッドになってるし、自力中心の考え方は、人の本能といってよいほど抜きがたい。信じることができたと意識したとしても、今度は称える念仏を、自らの救いの手段にしてしまう。仏智疑惑が終わらない、人の本性。

正信偈源空章の後半に、「疑情」と「信心」という言葉を親鸞が選んだ意味が分かりました。ここからの問題を、この後の信巻と化身土巻で展開したんだなぁと、思い当たったことでした まる

●PCソフトの買い時

いま、メインで使っているのはVAIOのPCG-VX7というノート、WindowsXPです。
あと家にあるのは、母と若衆がつかうXPデスクトップ。程ほどのスペック。
そして、Windows2000デスクトップ。これはネットゲームをするために組んだのですが、スペックダウンして現在はDVD焼き専門です。

VAIOノートはもう5年近く使っています。VXというシリーズは重いし、スペックも中途半端であまり売れなかったのですが、わたしのようにたまに持ち歩くものにはちょうどよい感じで、できるものならサポートが終わるまで使いたいと思っています。

ただ、問題は所有しているOfficeのバージョンが2000なんです。
2007が出たので、そろそろ2005を購入しておかないと手に入らなくなるんじゃないかと心配になってきました。

老いたからでしょう。最新の機器がほしいという意欲は、薄れてしまいました。
しかし、最後尾でまわりの状況についていこうとするだけでも、いろいろあるもんですね。

2007年03月08日

●法然と親鸞 その4

華の会はいよいよ明日になった。
選択集、本願章からの一文を配布することにした。

念仏は易きがゆえに一切に通ず。 諸行は難きがゆえに諸機に通ぜず。

しかればすなわち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、
難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。

もしそれ造像起塔をもって本願とせば、
貧窮困乏の類は定めて往生の望みを絶たむ。
しかも富貴の者は少なく貧賎の者は甚だ多し。

もし智慧高才をもって本願とせば、
愚鈍下智の者は定めて往生の望みを絶たむ。
しかも智慧の者は少なく愚痴の者は甚だ多し。

もし多聞多見をもって本願とせば、
少聞少見の輩は定めて往生の望みを絶たむ。
しかも多聞の者は少なく少聞の者は甚だ多し。

もし持戒持律をもって本願とせば、
破戒無戒の人は定めて往生の望みを絶たむ。
しかも持戒の者は少なく破戒の者は甚だ多し。

自余の諸行これに准じて知るべし。

まさに知るべし、上の諸行等をもって本願とせば、
往生を得る者は少なく往生せざる者は多からむ。

しかればすなわち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、
普く一切を摂せむがために、
造像起塔等の諸行をもって往生の本願となしたまはず。
唯称名念仏一行をもってその本願となしたまへるなり。

これで「選択本願」について話そうかと。
うーん、何度読んでも、法然上人はすごいなと思うところだ。
昨日の山内さんの講義から、たくさん刺激を受けたが、↓の抜粋にあるように、法然上人の教えを簡潔に語られる場面があった。「ただ念仏」というのは日頃、浄土真宗の教えとしてなじんていることだ。「真宗教証興片州」、宗祖は親鸞であるという頭が私にあるのだが、親鸞自身は「真宗」とは法然の教えである、といただいていたはずだ。わたしが「真宗」としていただいている教えは、法然の説かれたことではなかったか。
ならば、「教行信証」は親鸞の独自性を示したものではないのか。教行信証で語られる教・行・信・証はすべて他力回向の成就だ。ということは、いわば人間の領域にあることを語ってはいない。人間の行ということについては法然の「ただ念仏」に尽きている。教行信証で語られる信の問題はいわゆる法の問題としてである。だから信心を磨いて三願転入して第十八願の信心でゴールということではない。選択集は人の行を示し、教行信証は仏の仕事を示している。
とはいえ、「選択本願」という仏の仕事を選択集は示している。選択集に他力の要素がないわけでもない。

「尊号真像銘文」。「源空聖人」の真影に「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」、三選の文、そして「、生死の家には疑を以て所止 と為、涅槃の城には信を以て能入と為。」、選択集の三箇所からの引文が添えてある。教行信証には選択集から同じ三箇所だけが引かれている。親鸞とすれば、やはりこの3つに文にこだわりがあったということだ。

正信偈。「生死輪転の家に還来ることは、 決するに疑情をもって所止とす。速やかに寂静無為の楽に入ることは、 必ず信心をもって能入とす、といえり。」がよく分からないと書いてきた。それは「信心」ということに戸惑ったのであった。ただ信ぜよといわれても、なんだかな、みたいな。しかし、疑情と信心の対象は「選択本願」であると考えたら、なんとなく、すんなりキタような気がしてきた。

親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。

●小松教区連続講座プロローグ

 東京都東村山市に多磨全生園という国立ハンセン病療養所があります。
 そこにある真宗報恩会という集いで歌い継がれている、「しんらんさまはなつかしい」という唄をみなさんに御紹介しようと思っています。

 国の政策によってふるさとを追われ、親鸞聖人を心の親として生きた人々がいます。
 出家、師との出会い、法難、流罪、関東、義絶と、救いの道を求めつづけられた聖人の生涯に、みずからの人生を重ねて生きた人々がいます。

 あらためて聖人の生涯をふり返り、「しんらんさまはなつかしい」を通し、そこから念仏者の人生観についてご一緒に考えたいと思っています。
(推敲中)

2007年03月07日

●山内小夜子「靖国問題に学ぶ」ノート抜粋

真宗と神祇・国家と宗教。聖人の時代からこの問題はあった。承元の法難から800年。住蓮、安楽が首を切られる。真宗の教えは、シンプル。弥陀の本願を信じて、念仏申せば仏になる。どうして、シンプルなのか。それしかできない人のための教え。寄進ができない生活者、出家をすることができない生活者。ひとり残らず救われる道を求めたのが法然。真宗門徒は弥陀一仏。摂取不捨の本願。善悪浄穢なき。必ずすくい取ります。念仏の行者のライフスタイル。
身体は世間に生きている。娑婆。守らなければ成らない秩序。善悪。車座の文化。花見。それぞれがそれぞれの枠をはみ出ないように、監視しあっている。他者に対しては傍若無人。内側に向かっては一定の秩序。外は省みない。車座という世間。共同体の質の問題。部落差別、靖国問題と関わる。
世間における善悪、秩序、利害。世間の善悪は時としては宗教性を持つ。神祇と関係がある。地域社会、世間の権力を統合していく、裏打ちしていく権威。
1945年以前の日本。天皇が一番偉かった。天照大神によって権威付けられた。共同体の宗教として生きていた。そこで弥陀一仏、阿弥陀だけと言ってしまうと、そのまま権力を否定することになった。拒否、なじまない。反権力。非国民。国賊というレッテル張りとなう。神祇は厳しい内容を持つ。
靖国も権威を裏付ける。信心が問われる。権力を裏付ける権威について考えることは、どういう国や共同体、世間を願うのかということである。宗教的権威を国が利用することもある。神祇という宗教性をもって共同体の宗教として、大衆を統括しようとする。
9・11 アメリカ。ブッシュによる派兵。政治的行為を聖書に誓いを立てながら。正当化した。権威化する為に宗教を使う。1945までは国家神道。現人神を中心とした国家作りをしてきた。宗教と権力、権威。政治が宗教を使う。→人間宣言
日本が仏教が入ってから、この問題はあった。神祇に裏打ちされた国家。1207年。承元の法難。興福寺奏状。吉水教団へ。嘉禄の法難。比叡山からの奏状。
阿弥陀一仏の念仏者に対して、後鳥羽上皇は法難を。国権力が仏教徒の首をはねる。その理由。興福寺奏状。叡山奏状。その共通する項目。
1、私に宗教を立てる。聖人の時代の公は公家。
2、神明・霊神に背く。「吾が朝は神国なり、神道を敬うを以って、国の勤めとす」
王法を軽んじる。霊魂を教えない。日をみない。神祇を軽しめる。
戦後世代の靖国問題。3つの課題が絡まっている。
1、私はどういう国を願うのか。仏国土にいきたいと思って穢土を生きている。
2、歴史認識。戦争で亡くなられた人が祭られている。近代史、現代史を学んでいない。どういう歴史にのうえにあるのか
3、他者とどこで出会えるのか。日本人としての自分が他国の人々とどのように出会っていけるのか。出会える場。なにを拠り処に生きているのか。

よい死に方、悪い死に方? 真宗への冒涜、臨終の際を問わない。凡夫の生を生き、死す。ただの死を死んでいく。どう死んだかは、どう生きたかということ。死をほめたたえられる事は耐えられないこと。どの人の死でも悲しい、痛ましいこと。残った我々は、亡き方の視線をいただきながら、どういう願いをもっているかを考える。
住蓮、安楽を聖人はどう扱ったのか。二人を殉教者としては扱わない。どうして彼らが死んでいかなければならなかったのか。後序。歎異抄。どうしてこういう関係が生まれたのかを考えた。なぜこれがおこったのかを批判。仏教であることの根拠とはなにか。ほめたたえたら、弾圧の不当性は見えなくなる。戦死、戦争反対の死、両方をしっかり見ていく。亡くなられた方々と向き合っていく。
市川白玄 仏教者の戦争責任 仏教者の戦争に対する罪責 戦争の勃発と同時に起こるのではなく、平和への罪責として起こるのである。過去から罪や責任を学ぶこと。
ここにある私は、先祖達の歴史の流れにある。それはしなかったことも相続して、頂いている。また次に手渡さなければならない。どう手渡すのかというのが責任。個の自覚。存在するものの責任を継ぐこと。選ぶのではなく、信心をうる主体性の回復。

2007年03月06日

●法然と親鸞 その3

そして先日、それこそ20年ぶりに井上円さんとお会いした。
歎異抄「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」について、面白いことを話された。
親鸞という人は、弟子をつくる人ではなかった。
師を次々に見つけ出していった人であったということだ。
親鸞が見出していった七高僧たちは、様々な位置づけをされているが、それなりにさかのぼっていくことができる。(天親→龍樹は無理かな。曇鸞→龍樹だ。)
親鸞は浄土教における到達点、頂点であると、宗派の教学に携る方々はよく話されるが、かなり危険なことだと思う。親鸞にしてみれば、七高僧たちがすでに見出してきていたことを、自分の時代状況と問題意識の下で確かめたのが、教行信証なのであろう。
だから、親鸞には法然にはない要素があると書いたが、正確には法然からさかのぼった曇鸞のなかに大切なものを見出したということだ。

まぁ、そんなこんなで、なぜ親鸞が選択集の中から「生死の家には疑を以て所止 と為、涅槃の城には信を以て能入と為。」だけを正信偈に抜き出したのかについては、結局、ピンとくる理由が見つからない。

2007年03月04日

●法然と親鸞 その2

 先日、池田勇諦さんの秋安居を拝聴して、いろいろ刺激を受けました。証巻についての講義でした。
 教行信証においては、「必至滅度の願」、第十一願が「証」の根拠として示されています。証巻に取り上げられているのは、いわゆる「往生」ではなくて、「住正定聚」であり、「必至滅度」なんです。「住正定聚」も「必至滅度」も、どちらも「成仏」ということを念頭に置いた言葉です。
 親鸞は教・行・信・証の根拠ををそれぞれ、大経の願文に尋ねて示しています。証を第十一願に尋ねることによって、当時の日本浄土教にはなかった要素が生まれました。法然では臨終往生の色合いが強かった念仏の証果を、親鸞は成仏へと至る道程として表現したということです。往生とは歩み続けること。
 浄土教は寓宗、添え物にしかすぎないという蔑視の中で、法然が善悪の凡夫を救う「浄土宗(真宗)」こそ本当の大乗仏教であるという名乗りを上げたことが「法難」の引き金になりました。親鸞に教行信証を書かせた動機はこの法難であったという考え方を、池田先生もされていました。
 親鸞の第十一願への注目は、曇鸞の論註、三願的証の流れを汲んでいます。「親鸞」という名乗りは、法難の後であるという意見も思い起こされます。師、法然にはなかった要素に、親鸞は法難後に注目したのではないかということです。

●法然と親鸞

9日華の会、テキスト正信偈にていよいよ最終の源空章です。

本師・源空は、仏教を明らかにして、 善悪の凡夫を憐愍せしむ。
真宗の教証、片州に興す。 選択本願、悪世に弘む。
生死輪転の家に還来ることは、 決するに疑情をもって所止とす。
速やかに寂静無為の楽に入ることは、 必ず信心をもって能入とす、といえり。

後半部分の出典は選択集、三心章です。
次に深心とは、謂はく深信の心なり。当に知るべし、生死の家には疑を以て所止 と為、涅槃の城には信を以て能入と為。故に今二種の信心 を建立して、九品の往生を決定する者なり。又此の中に一切の別解・別行・異学・異見等と言ふは、是聖道門の解行学見を指すなり。其の余は即ち是浄土門の意なり。文に在りて見るべし。明らかに知りぬ、善導の意亦此の二門を出でざるなり。

選択集といえば、二門章、二行章、本願章が有名で、三心章は善導の三心釈の引文がほとんどです。また、太線の部分は尊号真像銘文にはありますが、教行信証の他の場所には出てきません。なぜ三心章の上記の箇所をあえて正信偈に取り上げているのか、考えていました。
いま、思うところは、正信偈、源空章は、親鸞が独自の視点で選択集のポイントを押さえているということです。前半部分は、三心章にいたるまでの選択集の展開を四句で表している。そして後半部分は、善導三心釈(信心)に対する、法然の受け止め方を一番示しているとして、親鸞が選んだ四句ではないかと。
親鸞の三心釈の受け止めは、己証として信巻、そして化身土巻にて展開して行きます。その前に、師からの伝承を正信偈で押さえたということでしょうか。

時間があるので、選択集に引文されている善導三心釈と往生礼讃の部分が、教行信証ではどのように取り上げられているのかを見比べるということもやりたいと思っています。

2007年03月01日

●3月の予定

1・2日 秋安居 池田勇諦 教務所

5日 あいあう会 教務所

7日 靖国問題研修 山内小夜子 教務所

9日 華の会 13組若坊守会

10日 藤野豊講演会 文福

21日 安田理深真仏土巻聴記学習会 野々市

25日 組同朋会 上市

26日 得度研修会 教務所

27日 玉永寺同朋会

28日 お講

29・30日 教学講座 三木彰円 教務所