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2007年03月07日

●山内小夜子「靖国問題に学ぶ」ノート抜粋

真宗と神祇・国家と宗教。聖人の時代からこの問題はあった。承元の法難から800年。住蓮、安楽が首を切られる。真宗の教えは、シンプル。弥陀の本願を信じて、念仏申せば仏になる。どうして、シンプルなのか。それしかできない人のための教え。寄進ができない生活者、出家をすることができない生活者。ひとり残らず救われる道を求めたのが法然。真宗門徒は弥陀一仏。摂取不捨の本願。善悪浄穢なき。必ずすくい取ります。念仏の行者のライフスタイル。
身体は世間に生きている。娑婆。守らなければ成らない秩序。善悪。車座の文化。花見。それぞれがそれぞれの枠をはみ出ないように、監視しあっている。他者に対しては傍若無人。内側に向かっては一定の秩序。外は省みない。車座という世間。共同体の質の問題。部落差別、靖国問題と関わる。
世間における善悪、秩序、利害。世間の善悪は時としては宗教性を持つ。神祇と関係がある。地域社会、世間の権力を統合していく、裏打ちしていく権威。
1945年以前の日本。天皇が一番偉かった。天照大神によって権威付けられた。共同体の宗教として生きていた。そこで弥陀一仏、阿弥陀だけと言ってしまうと、そのまま権力を否定することになった。拒否、なじまない。反権力。非国民。国賊というレッテル張りとなう。神祇は厳しい内容を持つ。
靖国も権威を裏付ける。信心が問われる。権力を裏付ける権威について考えることは、どういう国や共同体、世間を願うのかということである。宗教的権威を国が利用することもある。神祇という宗教性をもって共同体の宗教として、大衆を統括しようとする。
9・11 アメリカ。ブッシュによる派兵。政治的行為を聖書に誓いを立てながら。正当化した。権威化する為に宗教を使う。1945までは国家神道。現人神を中心とした国家作りをしてきた。宗教と権力、権威。政治が宗教を使う。→人間宣言
日本が仏教が入ってから、この問題はあった。神祇に裏打ちされた国家。1207年。承元の法難。興福寺奏状。吉水教団へ。嘉禄の法難。比叡山からの奏状。
阿弥陀一仏の念仏者に対して、後鳥羽上皇は法難を。国権力が仏教徒の首をはねる。その理由。興福寺奏状。叡山奏状。その共通する項目。
1、私に宗教を立てる。聖人の時代の公は公家。
2、神明・霊神に背く。「吾が朝は神国なり、神道を敬うを以って、国の勤めとす」
王法を軽んじる。霊魂を教えない。日をみない。神祇を軽しめる。
戦後世代の靖国問題。3つの課題が絡まっている。
1、私はどういう国を願うのか。仏国土にいきたいと思って穢土を生きている。
2、歴史認識。戦争で亡くなられた人が祭られている。近代史、現代史を学んでいない。どういう歴史にのうえにあるのか
3、他者とどこで出会えるのか。日本人としての自分が他国の人々とどのように出会っていけるのか。出会える場。なにを拠り処に生きているのか。

よい死に方、悪い死に方? 真宗への冒涜、臨終の際を問わない。凡夫の生を生き、死す。ただの死を死んでいく。どう死んだかは、どう生きたかということ。死をほめたたえられる事は耐えられないこと。どの人の死でも悲しい、痛ましいこと。残った我々は、亡き方の視線をいただきながら、どういう願いをもっているかを考える。
住蓮、安楽を聖人はどう扱ったのか。二人を殉教者としては扱わない。どうして彼らが死んでいかなければならなかったのか。後序。歎異抄。どうしてこういう関係が生まれたのかを考えた。なぜこれがおこったのかを批判。仏教であることの根拠とはなにか。ほめたたえたら、弾圧の不当性は見えなくなる。戦死、戦争反対の死、両方をしっかり見ていく。亡くなられた方々と向き合っていく。
市川白玄 仏教者の戦争責任 仏教者の戦争に対する罪責 戦争の勃発と同時に起こるのではなく、平和への罪責として起こるのである。過去から罪や責任を学ぶこと。
ここにある私は、先祖達の歴史の流れにある。それはしなかったことも相続して、頂いている。また次に手渡さなければならない。どう手渡すのかというのが責任。個の自覚。存在するものの責任を継ぐこと。選ぶのではなく、信心をうる主体性の回復。

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コメント

昨日少し行こうという気があったんですが、雪を見て断念しました。

昨日から大聖寺に徳田茂弁護士と宇佐美治さんがおいでになっています。
そちらのほうにも行きたかったのですが、身一つしかありませんです。

行きたかった。もっと続きを聞きたいですね。

高岡からは松井さんがおいでました。

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