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2007年03月08日

●法然と親鸞 その4

華の会はいよいよ明日になった。
選択集、本願章からの一文を配布することにした。

念仏は易きがゆえに一切に通ず。 諸行は難きがゆえに諸機に通ぜず。

しかればすなわち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、
難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。

もしそれ造像起塔をもって本願とせば、
貧窮困乏の類は定めて往生の望みを絶たむ。
しかも富貴の者は少なく貧賎の者は甚だ多し。

もし智慧高才をもって本願とせば、
愚鈍下智の者は定めて往生の望みを絶たむ。
しかも智慧の者は少なく愚痴の者は甚だ多し。

もし多聞多見をもって本願とせば、
少聞少見の輩は定めて往生の望みを絶たむ。
しかも多聞の者は少なく少聞の者は甚だ多し。

もし持戒持律をもって本願とせば、
破戒無戒の人は定めて往生の望みを絶たむ。
しかも持戒の者は少なく破戒の者は甚だ多し。

自余の諸行これに准じて知るべし。

まさに知るべし、上の諸行等をもって本願とせば、
往生を得る者は少なく往生せざる者は多からむ。

しかればすなわち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、
普く一切を摂せむがために、
造像起塔等の諸行をもって往生の本願となしたまはず。
唯称名念仏一行をもってその本願となしたまへるなり。

これで「選択本願」について話そうかと。
うーん、何度読んでも、法然上人はすごいなと思うところだ。
昨日の山内さんの講義から、たくさん刺激を受けたが、↓の抜粋にあるように、法然上人の教えを簡潔に語られる場面があった。「ただ念仏」というのは日頃、浄土真宗の教えとしてなじんていることだ。「真宗教証興片州」、宗祖は親鸞であるという頭が私にあるのだが、親鸞自身は「真宗」とは法然の教えである、といただいていたはずだ。わたしが「真宗」としていただいている教えは、法然の説かれたことではなかったか。
ならば、「教行信証」は親鸞の独自性を示したものではないのか。教行信証で語られる教・行・信・証はすべて他力回向の成就だ。ということは、いわば人間の領域にあることを語ってはいない。人間の行ということについては法然の「ただ念仏」に尽きている。教行信証で語られる信の問題はいわゆる法の問題としてである。だから信心を磨いて三願転入して第十八願の信心でゴールということではない。選択集は人の行を示し、教行信証は仏の仕事を示している。
とはいえ、「選択本願」という仏の仕事を選択集は示している。選択集に他力の要素がないわけでもない。

「尊号真像銘文」。「源空聖人」の真影に「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」、三選の文、そして「、生死の家には疑を以て所止 と為、涅槃の城には信を以て能入と為。」、選択集の三箇所からの引文が添えてある。教行信証には選択集から同じ三箇所だけが引かれている。親鸞とすれば、やはりこの3つに文にこだわりがあったということだ。

正信偈。「生死輪転の家に還来ることは、 決するに疑情をもって所止とす。速やかに寂静無為の楽に入ることは、 必ず信心をもって能入とす、といえり。」がよく分からないと書いてきた。それは「信心」ということに戸惑ったのであった。ただ信ぜよといわれても、なんだかな、みたいな。しかし、疑情と信心の対象は「選択本願」であると考えたら、なんとなく、すんなりキタような気がしてきた。

親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。

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