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2007年04月28日

●近況

昨日は組の解放運動研修会で柴田秀昭さんのお話を拝聴しました。
下の太字はノートを整理したものです。文責は流星にあります。
本山と富山11組のこれまでの取り組みを総括し、自分はどのように部落差別問題に関わるのか。
その迫力に圧倒されました。

夜は玉永寺同朋会。8人の出席。
七高僧のお話しをしました。
年配の方が少しずつ欠席される傾向にあるので、なんとか宣伝をしようと思っています。

五月二十六日、二十七日に祠堂経法要を勤めるので、チラシや米の袋などを準備しています。
だいぶできました。

多磨全生園での聞き取り調査の整理、
公開講座に向けて富山での廃仏毀釈についての年表作成。
そんなこともぼちぼちやってます。

安田理深の言葉。「やらねばならぬと思うならやめなさい。
あなた自身がやらずにおれないと思うならやりなさい。」

なぜ「同和学習会」が「解放運動推進学習会」と変わったのか。
「同和」という言葉が初めて使われたのは昭和16年6月「中央融和事業協会」が「同和奉公会」と名前を変える。同時に、「同和国民運動」という新聞が発刊される。それで「同和」という言葉が使われる。「同和」自体はもっと古くからある言葉。
「同胞融和」→「同和」。同化ということが強く意識されていた。当時の朝鮮の人々を同化する、海外侵略の施策の一環。
昭和44年以降。教団の部落差別が問題化し、何度も糾弾が行われる中で同和推進本部が設置され、取り組んできた。それを改称する。この言葉は教団だけが使ったのではなく、差別を受けていた部落解放同盟も積極的に使ってきた。そこから「同和」は被差別部落の問題だと使われてきた。あるいは融和事業、大正8年。それは「同情融和」。かわいそうな人を救っていく。そこから「同和」の名称は、そぐわないとした。

教団として差別意識を問題にしてから、部落差別だけではなく、性差別。身障者差別。アイヌ民族差別(人種差別)←明治時代の積極的な北海道開拓。侵略の歴史。在日朝鮮、台湾の問題。ハンセン病問題。どの問題も、問題を深めるのではなく表層的に並べるが如く、問うてきた。「解放推進」という言葉に引っかかる。課題の深まりとしては満足できない。

差別の問題は、どこまでいったら終わるのか。国民的課題とはされている。第11組で学習を始めたのは、御消息塗布事件。宛名書きが塗りつぶされていた。寛政九年。被差別部落の人々への職業差別。賤称。平成5年に発見される。教区で同和特別伝道がはじまる。第11組では平成十二年に半年かけて行われる。
一回目、なぜ同和問題を学ぶのか。
二回目、県内の実情。富山の同和地区について。
三回目、富山での塗布問題のご消息の経緯。
四回目、人権啓発センターへ。
終わっただけでいいのか。学習会を続けようという声が上がる。

昭和44年4月、大谷家が訓覇内局に対して開申事件をおこす。大谷家の戸主と管長、本願寺住職、代表役員。三位一体であったものを、法主の名前で管長を長男に譲る。
その後、大谷家側が選挙に勝つ。昭和44年7月。差別問題の表面化。二年前の難波別院結婚差別事件。昭和43年に表面化。新聞に載ったのが44年7月。8月に第一回糾弾。差別を受けた人が人間としての生きる権利を示す。人が人を差別する道筋を通して、差別する人される人の両者が自覚して、人間としての変革を目指す。人間変革を願いとする教育。直後に曽我量深の発言が問題となる。中道誌差別事件。

「同和はこわい」ということがささやかれるようになる。劣悪な環境を改善。同和対策特別措置法。時限立法。大谷派も協力。署名運動。藤本正樹、武内了温、朝野という先人がいながらも同盟の運動に乗っかっていく。真宗としての解放理論が必要なのに。

観念論と唯物論という議論がある。世界のすべての思想はこの議論の中にある。言い換えれば、観念論か実践論か。観念論か行動論か。わたしの立場は、同和問題に取り組むということは、人間の差別はどうして起こるのかを学ぶこと。それに対して、差別をなくしていくという行動論から「それは観念論だ」と批判される。真剣に生きるなら、ここにぶつかる。観念論といわれようと学んでいく。この議論について考えたことがないなら、自己と社会に生きることのまじめさを欠いている。観念論は精神を中心にものを考えていく。物質、現実に目を据えていくのが実行論、行動論、実践論。

教団内でも差別発言がある。訓覇元宗務総長の発言。推進員の会報。「この頃同和とか靖国が問題になっているそうだが、やっておる暇がない。自己とは何ぞや。これ人生の根本問題なり。このこと一つに余生をおくっていく」大問題になる。同朋会運動を提唱した訓覇氏がなぜこう発言したのか。歴史的は歩みがある。同朋会運動は信心の回復。信心が大事。真宗の念仏者として信心。なぜこういうことを言い出したのか。それは戦時教学があったから。真俗二諦論。自己と社会は車の両輪だ。王法を敬い、内には信心を抱く。戦時教学に身を置いた反省に立ち、真宗の真実信心を考えるのが同朋会の提唱とした。

しかし、この問題に対して、あれは信心派であり我々は社会派と称える人々が現れる。同朋会運動を進めてきた人たちが批判される。これからは社会的な問題を担える教学を。キリスト教、解放の神学に影響される。プロテスタントではなく、カトリックから起こる。ルーベン・アビト。第三世界は自然に恵まれるが、その大部分が貧困にあえいでいる。その原因を分析。マルコス政権での富の偏在、軍事独裁。教えと現実の狭間で、徹底した社会の分析、認識。現実を見る。そして抑圧されている人の側に立つ。実践する。立ち上がる。それをしなければ貧しい人々を助けることはできない。そこに「解放の神学」が成り立つ。アキノ政権の誕生。歴史に学ぶ。過去の出来事を過去の人が歩んだ道を見ていかなければならない。バチカンを揺るがす。マルキシズムと言われて元気がなくなるが、そこから「解放の真宗」ということが提唱される。

訓覇氏は戦時教学を越えようとした。純粋に真宗の信心に帰ろうとしていた。しかし、同朋会運動という言葉だけが残り、この中身はなにかということが問われなくなってきた。御遠忌、「いのちを大切に」? 

差別の中身を考えなくてはならない。人間そのものが、差別の本質なのだ。仏教は「自我」を問題としてきた。自我を破って無に帰す。究極の境地。自我とは六識。眼、鼻、耳、舌、身、意。そして第七未那識がある。本能。自己がかわいい。自我愛。本能的な領域から差別をする。人間がある限り差別あり。ならほっとけばいいのか。無くならないものだが、それを問い続けるのが念仏者の姿勢。柳澤大臣。状況認識が欠けていた。訓覇氏も。常に今どういう状況なのかを学習する。それが智慧。

なぜ11組が取り組まなければならないのか。それは状況の認識のため。それが欠ければ差別する自分が問いにならない。菩薩道における初歓喜地とは「未証の自覚」である。
三願転入。努力精進するなかで自分の力量に限界があることを知る。南无阿弥陀仏という念仏をただ信じる道。その道を称える身を選択した時、半自力半他力。念仏の中に自分の思いを持ち込む。ナムアミダブツを己の善根として現世利益を願う。どうかわたしの病気が治りますように。家族が幸せになりますように。感謝感謝。それは念仏でない。20願の問題。真実と虚仮の狭間に身を置くのが20願の問題である。念仏しながら、それを善根とし続ける自分を問い続ける。狭間に身を置く勇気。未証の自覚。真の念仏者たらんという高い志を持ちつつ、なれない自分を問題とし続ける。内に捉える。内観。問題を内に見るのが仏教。

原点を。人間にとって差別とは何かを学ぶ。

そんなこんなな毎日です。

2007年04月22日

●「しんらんさまはなつかしい」waveファイル

http://www.gyokueiji.net/blog/2007/04/post_521.html

4月9日 多磨全生園、和光堂での花まつりにて歌われた「しんらんさまはなつかしい」。
途中からですが、携帯で録音したものをUPしました。

http://www.gyokueiji.net/natukasii.wav

20日の13組若坊守会では、プロジェクターによるプレゼンテーションとあわせて
この歌を聴いていただきました。


全生園で「こころのみおや」「わがちち」として歌い続けられてきた「しんらんさま」。

私もその一員ですが、今の大谷派が「宗祖」としている「本願寺の聖人」。

そのギャップを感じています。

2007年04月21日

●育成員研修会

17日から19日まで研修道場で行われました。
講師は高田教区の井上円さん。
高田での行われている御流罪法要の熱気を京都まで運んでくださいました。
以下の太字は講義ノートの抜粋です。文責は私にあります。

三日間、さまざまな議論を参加者やスタッフと交わしてきました。
最終日、閉会式、やれやれと息をついておりましたら、参務挨拶が「『主上臣下、法に背き』という言葉について学んだと思うが、法難は聖人の生涯の一部に過ぎない。」からはじまり、愕然としました。
「「真宗聖典」の教行信証は何ページから始まっているかが言えなくては僧侶と胸を張って言えない」。
「浄土宗の人は愚者になりて往生す」をテーマとした今回の講義は、いったいなんだったんでしょう。

参務挨拶と研修内容が噛み合わない事は、修練などで何度も経験してきました。それでも今回はかなりガックリしました。社会運動する僧侶は寺をないがしろにし、 自分自身を見失っているという趣旨のこともおっしゃったことでした。

以上、研修会参加についての感想でした。

高田教区の「御流罪法要」について。なぜ御流罪法要を大事にするのか。昭和31年に前回行われた。御流罪の地。親鸞の亡くなった日を機縁とする法要を大切にしてきた。聖人御自身が大事にした日。この日は忘れてもらっては困る。
教行信証の最後の文章。後序ではなく「流通附属分」と読みたい。
承元の法難。死罪流罪。赦免。法然の死。時間が逆転し、29歳、33歳で終わる。この出来事は念仏を大事にする人たちには忘れないでほしい。それが流通附属分の持つ意味。だからこの法要を一教区の事業と位置づけることはできない。それに多くの人が賛同してくれた。教行信証流通附属分を大事に思っている人は多いことが分かった。

御流罪は古い言葉。浄土宗、日蓮宗でも、流罪にあわれたところで使われていた。江戸時代の講本にもある。何か悪いことをして流されたのではないとする、門弟の気持ち。

第八章。大悲に生きる。法語はご消息と歎異抄が中心。

赦免 流通附属分 「予はそのひとりなり」 そのいちなり ひとつなり
なぜ許されたのか。遠流は死罪に次ぐ重い罪。許された理由は、法然の体調が悪かったから。法然を流罪にしたまま亡くなっては朝廷が困る。西方指南鈔。後白河上皇や九条兼実が心酔。法然は幅広い層に影響。朝廷は法然を処罰するかどうかを検討した。弟子が悪いのだから師匠に罪科を科する事はよいのか検討された。法然は甘んじて受けた。
流罪地は四国の土佐であったが、讃岐に変更となる。九条兼実の力。家臣が国司を務めていた。九条は4月5日に亡くなる。
三段階の赦免のされ方。まず讃岐に変更。12月8日、讃岐から摂津の国に変更。勝尾寺。口伝鈔によれば親鸞が教信沙弥を探した寺。5年ほどたって80歳になろうとするとき老いが加わってきた。老耄。西方指南鈔にでてくる。11月17日に勅免。法然に流罪のまま亡くなられたら困る。戒律を守り、智慧のある有名人。タタリがあるのではないかということを怖がった。嫌悪した。それで11月に勅免。同座したものも。反省して許したのではない、謝ったので許したのでもない。朝廷側の事情から。
京都に戻り、健康を取り戻すが、1月25日に亡くなる。西方指南鈔。

親鸞の越後時代について検証できる記録はほとんどない。唯一わかっているのは、勅免前に子どもが生まれたこと。明信。平雅行によれば、赦免前に子どもが生まれることをを許す国司は、親鸞に寛容、協力的。流人への対応は現地に任されていた。
親鸞は京都に戻らなかった。恵信尼は越後の豪族。関東へ行く、恵信尼はついていく。
この時代の人の行動としては変わっている。許されたなら普通は京都へ行く。関東へ行くというのは普通の人ではないということをあらわしている。婿取り婚。南北朝から嫁取り。恵信尼がついていくという事は考えられない。もし離縁となると生活する場所を失う。関東に行くことに、よほど大事な使命があった。恵信尼にはそれを信頼する気持ちがあったはず。
なぜ関東へ? こどもづれ。生活の保障があったはず。引き受ける有力者の存在。一緒に行く人がいた。親鸞の名乗りの持つ意味。

聖典400ページ「名之字」。「なのじ」と読んできた。しかし古い御伝鈔では「みょうのじ」と表記されている。「なのじ」では善信なのか親鸞なのか分からない。善信であると思う。親鸞はなぜそれは記さなかったのか。「善信」が罪名として使われたから。聖典398ページの「姓名(しょうみょう)」に対応する。姓は禿の字。名は名の字。
これは後の人への伝言である。私たちがきちんと読まなければ。
「善信」がそのまま罪名に使われた。「ぜんしん」ではなくて、「よしざね」。普通は「よしのぶ」と読むはず。源空は「藤井元彦」。「彦」は男。事件の元の男。

信を大切にしたのが親鸞。善信は大切な名前であった。聖典345ページ。如是の義。 選択集は三部経の確かめに終始している。書写を許され読み込んでいく中で、「綽空」ではこの本は受け止められないと思った。「善信」でなければならない。
その後、なぜ親鸞と名乗ったのか。「善信」を罪名に使われたから。法然が亡くなった。釈尊のような方。本師。天親と曇鸞の仕事、選択集の論を書く。仏滅後の仏弟子が、仏教と相応するのはどうしたらよいか。応答できるのか。それが論、論註の仕事。それをしようとしたのが親鸞という名乗り。三部経の了解に終始している選択集に対して、「親鸞」を名乗ったのは法然の死を契機として。「後序」ではなくて「流通附属分」。論をつくろうとした。京都ではこういう仕事はできない。しかし罪を許されたばかりの人間は書物を見せてもらえない。そういう状況のなかで関東を目指した。
選択集に応える様な論を書きたい。使命感。妻子をともなう。途方もない決意。

選択集の書写を許されたのは少ない。七人。この人がわたしの後をついでくれる。後のことを考えてくれる人ではないかということを見据えて法然は書写させた。亡くなってから版木となった。
法然の「没後起請文」。二か条。親鸞は西方指南鈔にそのうちの一条だけを引いている。載せなかったのは遺産相続の件。
「わたしの没後、弟子たちは、一つの場所に群がってはならない。かならず争いごとが起こる。」親鸞が関東へ行く理由の一つか。
「追善供養のためになにもするな。念仏だけにせよ。」しかし葬儀は天台的なものになった。

「浄土宗の人は愚者になりて往生す」
聖典603ページ。88歳。与えられた姓名は「藤井善信」。なぜ「藤井」なのか。前例主義。30年前の天台座主、明雲が後白河上皇によって流罪にあう。罪名「藤井松枝」。
しかし親鸞は「禿」を名乗る。愚禿。愚禿釈。姓は個人を示すものではない。自分だけの姓としたのではない。類。共通の姓。
禿は破戒者。その内容が愚。仏弟子が破戒を生きている。無戒名字の比丘。戒律を守ることが僧の基本。しかし、結婚している人はいた。聖覚、隆寛。妻帯は許された。しかし、建前としては戒律。親鸞は事実に戻して、破戒を生活の形態とする。破戒せずに生きていけない人と共に生きる。
供養されたものは食べていいのか? 現実の生活と矛盾する。人間として守れない。だから無戒名字の比丘を指針として行く。現実に即して。いなかのひとびと。そうした人々と共に生きる。それが愚禿。われら。
「一枚起請文」。亡くなる二日前の文章。浄土門の修行は愚痴に帰る。念仏一つ。
知者の法。「さかさかしきこと」。賢賢しい。念仏一つに定まって、念仏を生きる。
「往生必定すべし」。印可。「ものをもおぼえぬ」、記憶は文字を知らないとできない。読み書きが基本。念仏一つに定まった人たち。
「愚」。嘆徳文。愚禿鈔。聖典423の「賢者」は法然のこと。
いなかの人々と同じく愚禿の生活を送ろう。
ほほえみを通して、愚痴であることを忘れることが念仏から離れること。自分の中の愚かさ。ねんぶつひとつと定まること。愚かな身であるという反省と共に、人々と共に生きようとした。我々は、この言葉を指針にしなければと思う。門徒とは違うと、上に立ちたがる。

佐貫の三部経千部読誦について
恵信尼消息 619ページ。「まはさてあらん」 今はそうしよう。建保二年。関東では実朝が法華経、般若心経を読誦させる。京都で雨乞い。年貢減免。
親鸞も依頼されたのではないか。実実しく。衆生利益のため。
善導。355ページ、往生礼讃。「自信教人信 難中転更難 大悲弘普化 真成報仏恩」衆生利益のためというのはおもいあがり。たすけられまいらすべし。歎異抄第二章。助けられなければならないのは私なのだ。共に弥陀によって救われるべき人間。
「弘」。普通の往生礼讃では「伝」。「礼懺儀」では「弘」。親鸞は後者を選んだ。私が弥陀に代わって伝えるのではない。信じる人が信じない人と共に救われる。

寛喜三年 二ねん6月9日、美濃武蔵に雪が降る。8月に京都で霜。大雨。季節が逆転。寛喜の大飢饉。寛喜3年。疫病。幕府が米を放出。餓死者。

人を助けるという思いあがり。助けられるという思いあがり。念仏ひとつを確認。人々と共に生きよう。上に立つこと、助ける立場とは念仏とはかけ離れたものである。偉くなったことではない、そういう縁に会うことができた。

「聖道門修行は智慧を極めて生死を離れ 浄土門の修行は愚痴にかえりて極楽に生まる」
八万四千の光明。八万四千は煩悩。摂取不捨の光明は人間の煩悩をみせることを内容とした光明。阿弥陀の光明は我々の眼で見れるものか。私が教えに触れて自分の煩悩を知った、それが光明が働いている事実。所照の自覚。自分の煩悩を知るということが照らされていることの中身。宇宙空間。遮るものがあって始めて光があることが分かる。
自分の煩悩を知ることに於いて、知らしめる光明に気づく。摂取不捨。
光をみたくてしょうがない。しかし、それは私にこういう煩悩があったのかとうなづけること。それを特別視してしまうとずれていく。煩悩があるとうなずける。自分に受け止めさせるのが摂取不捨の利益。
気づかせてくれたことをいただいていく。異常なことではない。ごく自然なこと。煩悩を見つめさせてくれるものに出会う。

聖典の言葉をちゃんと読んでいるということがこれまでなされていなかった。「藤井善信」。それが悪い意味を持つことを考えた人はいない。侮辱的意味があると考えたことがない。「名之字」、善信と書かないのはなぜかを確かめた人はいない。書かれたものを読む、拝読の仕方はあるとしても、意味を確かめることができていないと思う。穴ばかり。分かったつもりになっている。私は自分に得心が行くまで知りたい。

学ぶ事はいけないことなのか。こざかしくなるような学び方と事実を事実として受け止める学びは質が違う。

名づけられる。他人の願い、打算、思いが。意味が分からない。こたえきれない。
名乗り。自分で決めた。自分の中に理由がある。名乗ったことがないと分からない。
綽空は法然に付けられた。しかし、善信こそが適している。ところが善信を罪名にされる。屈辱的。
法然亡き後の課題として親鸞を名乗る。愚禿釈の鸞 禿は流罪を契機。

見下された人々が、本願に救われる人々なのだ。
元気を出す。生きて働いた言葉。愚者になりて往生す。
愚者、悪人と侮辱された人々が、そうではないと見直す基点となった。
侮辱された人々が、敬われていることに気づいていく。

「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」
関東だけに限るものではない。浄土宗、吉水の集いも含めて考えるべき。こういう姿勢が念仏するものには大切なのだ。親鸞に於いては、とすると矮小化。聖人だけは一人も持たなかった、他の人はよい、ではない。弟子を作るような広がりはおかしい。諍論が絶えない。念仏というものの教え自体がそういう性格のものなのだ。他の教えは弟子を作る。念仏はその感覚と違う。個人的な性格ではない。
こういう感覚がおかしいということに気づいていく。弟子を作るのではない。念仏を本当に喜ぶことにならない。偉ぶるものがでてくるのは専修念仏ではない。
それを気づかせたのは法然上人。七高僧の問題。そのもとは法然上人の浄土五祖。

先生に出合わなければならないという仏法ばかり。
出会っている人は感激が強すぎる。教えを自分の姿勢にしている人は少ない。
念仏は師を仰ぐ仏道。常に弟子。弟子の道を歩む。

2007年04月17日

●組同朋会・御通夜

15日 組同朋会 テキストは阿弥陀経
先回の浄土荘厳をもう一度、おさらい。
なぜ、夢のような国をお釈迦さまは説いたのか。
ただ念仏を称えることによって、あらゆる人々が極楽へいけるという仕組みが大事だった。
祇園精舎に集まった、打ちひしがれた孤独な人々のために。

16日から京都へ、同朋会運動推進会議に行く予定が、
納棺と御通夜のため、欠席する事となった。
いつもなら父に任せられるのだが、今回は用事が入っていた。

勤行はつれあいと、村の御住職と共に。
二人とも女性なので、声の高さを低めに。
いい感じなのでどんどん低くしていったら、最後、声が出なくなってしまった。

今回はじっくりと、時間をかけて法話をした。

先日、曹洞宗の方のお葬式にお参りしたところ、お勤めが長い事は知っていたが、
丁寧に、時間をかけて法話をされたことに驚いた。
法話を重視するのは真宗の特長だと思っていたところが、井の中の蛙、そうでもなかった。

日程も大事だが、それに追われてばかりではあかんと思った。
ということで、仏事の際にはじっくりと、法話をこころがけることにしました。

葬式は父に任せられるということで、明日から京都へ。育成員研修会の班担。

2007年04月15日

●信教の自由・パラオ島・子ども会

14日

○教区御遠忌公開講座実行委員会

太田浩史さんを招いて、今後の作業について打ち合わせ。
富山での廃仏毀釈をきっかけにして、明治の仏教徒が危機意識をもち、
国家神道に抗する「信教の自由」を明治憲法に刻んだという流れ。
越中米騒動が寺内内閣を倒し、政党政治を生み出したという視点と類似する。
明治期の再建エネルギーには廃仏毀釈に対する危機感があったという民衆史的視点を、
本山は欠いている。
これを年表を整理作成することによって明確にする。


○ハンセン病問題ふるさとネットワーク富山公開講座

藤野豊さんと同行したカメラマンが、パラオ島を取材したニュース映像を見る。
孤島に送られた元患者の方と出会い、収容所跡をみつけたというスクープ。
そしてパラオ島は祖父が戦死した場所。
映像で島の様子や人々の姿をみると、一度行ってみたいという思いが強くなる。

15日 玉永寺子ども会送迎会
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3人の卒業生。6年間よく来てくれたね。どうもありがとう。
お寺で遊んだ思い出を大切にしてほしい。
プロジェクターで仏典童話を鑑賞して終了。

2007年04月13日

●東京 靖国神社、防衛省

富山からの参加者と千鳥が淵で合流。靖国神社へ。

軍国主義称賛の神社ではないという口実に使われる、鎮霊社と元宮。
じつに小さな社。あるのかないのか分からないくらい、片すみに。

一般神道との整合性を保つために、お守り、絵馬などが片手間に陳列してある。
軍人の魂を招くという「招魂斎庭」。職員の駐車場になっている。
東京裁判不当性の材料として取り上げられるようになったパール判事の碑が、新しく建てられている。
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遊就館。それほどのもんでもないっす。
哀れな消耗戦へと日本を導き、多くの若者の命を散らした指導者の責任についての視点が
完全に抜け落ちている。

12日 防衛省へ。「市ヶ谷ツアー」に参加。

日本とアメリカの国旗。この下あたりにかつての大本営地下壕があるという。
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市ヶ谷記念館に移設された講堂。東京裁判会場の復元。
かつての「玉座」の位置が、えらく懇ろに説明される。
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靖国神社同様、パール判事に関する陳列。その意図明白。
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以上。楽しい、学ぶこと多い、4日間でした。

●東京 秋葉原、山谷

多磨での日程を終えて、東京駅のフォーム、長年BBSでお付き合いしてきたお留守居役様と初対面。

上野で祝杯をあげ、アメ横の雑踏を抜けて、秋葉原へ。

オーディオおたく(?)でもあるお留守居役様に案内していただき、超高額な機器の世界、パソコンとオタクの街と化してしまった秋葉原の変遷について現地研修w
じつーーーに面白かったです。感謝感激。
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秋葉原で再び祝杯をあげ、握手、お別れしました。

電車と徒歩、「あしたのジョー」泪橋、山谷のドヤ街へ向かう。

先回の西成に続き、簡易宿泊所は二度目の利用。一泊2500円。
シーツは清潔。冷蔵庫、テレビはあるが部屋自体が清潔かといえばそうでもない。
問題は部屋の鍵が渡されないこと。
内側からロックはできるが、貴重品を部屋に置いて外出するわけに行かない。
脱衣所は内側からロックできて、とりあえず風呂に入って寝る。

11日 早朝に目がさめて外出してみる。
おじさんたちがたむろして、暖をとっているのか道で焚き火をしたりしている。
コインロッカーがたくさんある。それで鍵の問題解決。この街の仕組みを少し学ぶ。

玉姫公園。ジョーがのり子とデートした場所。
すごい賑わいで、雑誌、雑貨、DVD、古着などが露天で売られている。
おでん屋台で一杯やってるよ。みんな。
二箇所、職業安定所前を通りかかる。すごい活気だった。
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白髭橋を渡り、隅田川沿いを歩く。仕事に出たみんなが生活している場所なんだろう。
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●東京 多磨全生園

9日、電車とバスを乗り継いで多磨全生園へ

真宗報恩会の花祭りに参加。大谷派各種団体が参加し50人ほどの参詣。
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全生園、散った桜もじつに美しい。昨年満開だった和光堂前しだれ桜は、まだ五分咲きだった。
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座談会、ビデオ学習、懇親会で終了。

10日 納骨堂前、標本にされた子どもたちを悼む碑が建てられていた。
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リニューアルした国立ハンセン病資料館へ。

栗生楽泉園、重監房のミニチュア。実物大の房も再現されており、なかに入ってみることもできる。
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全国の貴重な資料が収集、展示してあり、素晴らしい施設になっている。
学芸員と「語り部」の方が、詳しいお話もしてくださる。一度、訪れられることをみなさんにオススメしたい。

午後から、聞き取り調査。釋香立さんと組んで、入所者の方のお宅を訪問。
これは初体験。緊張。療養所での半生を、ただ、ただ、拝聴した。

2007年04月09日

●TypeKeyでのコメントをお願いします

4日ほど留守にします。

このところ、スパムコメントが激しく、TypeKeyでのコメント投稿を試します。

コメントのために手続きは必要になりますが、どうぞ趣旨をご理解ください。

2007年04月07日

●人の脆さ

今日は組共同学習会に参加。座談会の司会をしました。
テキストは「法語に学ぶ宗祖親鸞聖人」。
講師は辻俊明さん。出席者は30名あまり。
講義形式だと、講話録であるこのテキストは使いにくい。
解説の解説になってしまうので、辻さんも大変そうだった。
それでも曽我量深、安田理深の話しを直に聞かれているというのは大きいなと思った。

「忙しいということを生きがいにするような、情けないことはやめなさい」
辻さんが安田先生から聞いとか。

ふと、もう10年ぐらい前になるか。
駐在教導を辞めて寺に帰った直後に盲腸で入院した時のことを思い出した。
病院で安住できなかった。休むことが不安でたまらなかった。
とにかく、無性に家に帰りたかった。
無理に帰って、結局、家で寝ていた。

父がくも膜下出血で朦朧としていたとき、しきりに腕時計と手帳を求めていた情景も思い出した。

人間、ほんまに脆くて、弱い。

2007年04月05日

●教区御遠忌教化部門会議

来年春の取り組み準備。順調です。だいぶ、具体的になってきました。

企画内容など、公に発表できるまで、もう少しです。

教区児童連盟、あいあう会といった、最近発足したセクションが新しい企画を積極的に出しています。

教化委員会の方は、ずっと言われていることですが、硬直化しているのかも。
なかなか乗り気になってもらえません。
新しいものを生み出す力が、失われているのか。

2007年04月04日

●4月の予定

5日 教化推進部会 教務所

6日 組共同学習会 上市

9・10日 ハンセン病に関する懇談会部会 多磨全生園

11・12日 教区靖国問題研修会 東京

13日 教学推進部会実行委員会 教務所
     ハンセン病問題ネットワーク富山 公開講座

14日 玉永寺子ども会歓送迎会

15日 組同朋の会 上市

16日 同朋会運動推進会議 京都

17~19日 育成員研修会 班担 京都

20日 華の会(13組若坊守学習会)

27日 組同和研修会 上市
     玉永寺同朋の会

2007年04月03日

●ここ10日間ほどの日記

25日 組同朋会 阿弥陀経 浄土荘厳について
悩んだ、ホンマに悩んだ。

その時に、仏、長老舎利弗に告げたまわく、「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて、世界あり、名づけて極楽と曰う。その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまう。かの土を何のゆえぞ名づけて極楽とする。その国の衆生、もろもろの苦あることなし、但もろもろの楽を受く、かるがゆえに極楽と名づく。

まったく苦がない国。ほんまに極楽はええとこや。そんなところにいきたくない人がいるだろうか。
しかし、親鸞さんはそこへいきたいという心を、深く深くみつめた。
そこから教行信証、化身土巻がうまれた。
「三願転入」とはいうけれども、決して無量寿経が正しくて阿弥陀経がおかしいということではない。真門釈に無量寿経からの引文があるくらいだから、念仏にかかわる問題全体として三願回転入を親鸞は考えていたんだと思う。同じように他力ならよくて自力はよいのかといえば、他力を起こす事はできやしない。自分を根拠にしてなにかを求めて苦しんだり、他人を苦しめてしまうありかたを見通した話なんだと思う。
そこあたりをお話しすることは、わたしにはとても難しい。というか初めて真剣に20願の問題を考えるきっかけをもらって、教行信証のスゴサとでもいうものを、実感もしている。

26日 得度研修会
プロジェクターで聖人の生涯とハンセン病問題についての「しんらんさまはなつかしい」プレゼンをした。
ところが、9歳の参加者がいることを、なんと、まったく失念していた。
限られた時間、ハンセン病問題について説明したが、どのくらい伝わっただろうか。
それにしても、同じ年のこどもたちを目の前にして、和泉式部が出典とのことだが、親鸞が9歳で「あすありと」、無常の歌を詠んだという話しが現実感をもったりもした。

27日 玉永寺同朋会 正信偈
信を獲れば見て敬い大きに慶喜せん、 すなわち横に五悪趣を超截す。
一切善悪の凡夫人、 如来の弘誓願を聞信すれば、
仏、広大勝解の者と言えり。 この人を分陀利華と名づく。
弥陀仏の本願念仏は、 邪見驕慢の悪衆生、
信楽を受持すること、はなはだもって難し。 難中の難、これに過ぎたるはなし。

「難中の難、これに過ぎたるはなし」から、上の阿弥陀経の話と連動するが、化身土真門釈に注目した。そして「聞信」は真門釈での涅槃経の引文、信不具足と聞不具足を指しているんだと考え、やったなと思った。
しかし、参加者に、読み仮名をつけたとはいえ、涅槃経引文を配布したのはよくなかった。なじみのない経典の言葉にびっくりされたようだ。頭の中にとどめて、内容を話せばよかった。

28日 玉永寺お講
植木等さんと徹誠さんの話しをした。この話題は、「わかっちゃいるけどやめられない♪」と「煩悩成就の凡夫」の組み合わせなどが、おもしろい。
プロジェクターでみてもらおうと差別問題に関連したビデオを大谷派仏典童話のなかに探したが、「ウパーリの出家」がみつからない。よく考えたら本願寺派のアニメビデオに入っているんだった。借りにいく時間が無いので「消えない灯明」をみてもらった。仏典童話にこうした話しが入っていないのは不思議なことだな。

30日 冨田祭り
参加させてもらった。実はかくし芸なども考えていたのだが、やらなくてよかった(笑)
お二人とこどもたち、祝福する仲間たちの光景に、感動したことであった。
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