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2007年05月30日

●6月の予定

2日 高岡第8組同朋大会 常入寺 「不安に立つ」

4日 ハンセン懇 集会部会 京都

5日 善教寺祠堂経法要 岩瀬

7日 あいあう公開講座 園田久子 教務所
   安田理深「真仏土巻聴記」読書会 野々市 常讃寺 

9日 玉永寺子ども会

12日 解放運動協議会 教務所

13日 華の会(第13組若坊守会)

14日 組同朋大会 今泉温資 大浦西光寺

15日 組同朋会 テキスト 阿弥陀経 浄誓寺
  ネットワーク富山シンポ打ち合わせ 西別院

17日 常讃寺祠堂経法要 野々市

22日 勝訴6周年記念シンポジウム 市民プラザ

25日 同朋会運動推進会議 京都
     愚禿鈔の会 宗正元 玉永寺

26日 ハンセン病問題学習会 神美智宏 三条教務所
    組解放運動学習会 訓覇浩 カミール

27日 玉永寺同朋の会

2007年05月29日

●明治期の真宗・参加型法要

廃仏毀釈について手元にある資料をパラパラめくる。

 嶋地黙雷の存在の大きさを感じる。周防出身の同志たちと共に明治政府と深いパイプをもち、西本願寺を改革し、近代化した人物だ。「信教の自由」を憲法に盛り込んだとして、あらゆる資料に名前が出てくる。
 対して、大谷派の宗政の動向は一般資料ではなかなか見えてこない。松本白華ら、そのころの宗政に関わる人物達の出身、加賀藩は、維新では乗り遅れた存在だった、ということだ。明治28からの清沢満之らによる宗門改革運動になって、やっと大谷派の動きが目立ち始める。
 あるいはやがて、政府と一体となって敗戦を迎えた本願寺派だから、実証的な歴史研究が優れていて、対抗するような形で大谷派では近代教学としての精神主義があるのかな。

いずれにせよ、手元にあるもの、富山ではこれが限界。大谷大学図書館が近くにあればいいのになぁ。

午後から教務所で「住職総合研修」という、たいそうな名前の研修に参加。
帰敬式実践運動の上意下達だろうけれど、昨日で住職若葉マークが取れた?ばかりで、わざわざ封書でチラシまで送ってくださったので、正直嫌々参加しました。
講師は渡辺晃純さん。10年ぶりにお会いしました。懐かしかった。で、意外とおもしろかった。
たとえば、御自坊での法要式の取り組み。通常の読経はせずに、嘆仏偈と三誓偈の間に念仏和讃を挟むような形、昭和法要式の経文の代わりに偈文を置くような形で門徒さんと一緒にお勤めして、法話、そして正信偈の同朋唱和、というようなことをやっている。
私も、それこそ上意下達ではなく、参加型というのが真宗の儀式の形だと思うので、非常に参考になった。
帰って父に話してみた。「そりゃあいい」という反応なんだが、具体的なところまで話し合うと、やっぱりこれまでの形を変えることは難しいということになる。
しかし、住職になったからには、現在以上の参加型の法要に、なんとか取り組んでみたいと思っている。

2007年05月27日

●祠堂経二日目

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一日目と同じくらいの参詣があり、天候にも恵まれ、二日間の延べ人数は昨年より増えました。
やはり、こういうことはウレシイもんです。
東條さんの御法話は素朴で、飾り気がなく、心打たれました。

教えをストレートに受け取ることを警戒し、
あれもこれも考慮に入れなければと、
オレはこういうこと知ってる、経験したと、難癖つけたくなるわけですが、
なんだかそういうのって、よくないかもしれない。

でも、いろんなことを知った以上、そこから考えていくしかないんですけどね。

終了後、受付をしてくださった方々と慰労会。
来年、旅行会がしたいとのご希望。
別院の法要があるからと渋っていたのですが、勢いに押されてしまいました。

まぁ、そういうご希望を出してくださることに感謝しなければ。

2007年05月26日

●祠堂経法要一日目

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昨年同様、東條さんのご法話です。
地域の小学校運動会の日程と重なったのですが、それほど影響は出ませんでした。
午後も、けっこう残ってくださいました。ありがたいことです。

廃仏毀釈の時、本山からの取り組みはあったにせよ、
民衆の支持がなければ真宗寺院は残らなかったと思います。
門徒さんたちは寺になにを見ているんだろう、ということを考えています。

2007年05月25日

●同朋の会チラシ

いままで作ったことのないようなデザインのチラシを目指しましたが、
けっきょく、自分にできるものは、自分にできるようなものでしかないですねぇ。
ちょっと脱力系で文章中心になりました。
イラストは娘がDLしていたものを使いました。
明日からの祠堂経法要で、お供えといっしょに配ります。
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●勝訴6周年記念シンポ

先日、打ち合わせがあったのですが、市民学会参加者とそうでないものとのズレを感じました。
参加者にはハンセン病基本法制定などに関する意気込みがあります。
ですからシンポにもそれを前面に出そうということなのですが、療養所のない富山では空回りしたり、啓蒙で終わってしまわないだろうかと思いました。
いろいろな問題点を含みつつ、このシンポにはなんとか自分を奮い立たせるようにして関わっています。
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2007年05月24日

●「富山合寺事件」についての議論

今日は、太田浩史さんをお迎えして、公開講座実行委員会の二回目。

さまざまな史料が集まり、議論が行われました。
たとえば、合寺事件は新しい国づくりを目指した功利主義的立場から行われたのか、それとも国学・儒学をバックとした宗教弾圧なのか。
富山藩の場合は、度重なる大火や財政の逼迫を抱え、革新派が四民平等・富国強兵をスローガンとし、封建体制で力を持っていた士族と僧侶を排斥しようとしたという見解の研究が多いようです。「廃仏」ではなく「廃僧」であるという書き方もありました。廃仏毀釈の要素がまったくないわけではありませんけれども。しかしながら、合寺を強制された側からみれば、どうしたって宗教弾圧なのです。
その意味で、士族廃止とは違って、富山合寺令が失敗したのはどういう要素からなのかを慎重にみていきたいと思いました。
これまで真宗教義のせいで弾圧がおこったのではないかという考え方をどこかでしていたのですが、そういうことではない気がしてきました。お念仏を門徒衆はどのようにして受けとめ、伝えてきたのか、ということかな。
ですから、合寺令のプレゼンの後で、親鸞聖人の生涯と、「しんらんさまはなつかしい」にあるように聖人を心の親として大切にされた真宗報恩会の方々を紹介したのは、間違ってなかったなと思いました。

そして私は、次回までに、合寺令で奔走した松任本誓寺の松本白華について調べることになりました。
合寺令、東別院設立に関わった松本氏とはどういう人物なのか、興味があります。

●小松仏青「連続講座」

終わりました。帰ってきました。

「合寺令」「しんらんさまはなつかしい」プレゼンしました。

「不安に立つ」プレゼンはせずに、ホワイトボードでやりました。
しかし、ここだけしっくりしませんでした。
プレゼン、やったほうがよかったかもしれません。

スタッフの方々のご尽力に頭が下がりました。

明日は、あおさんですね。おつかれさまです。

2007年05月23日

●「不安に立つ」プレゼン

合寺事件の影響

明治憲法

信教の自由が
もりこまれる

仏教の近代化

大きな問題
をはらむ

仏教復興運動

石仏の建立

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廃仏毀釈は
なぜ起こった?

富山藩の財政危機

富国強兵

廃仏論

出世間主義
に対する

儒教・国学の攻撃

この世は
迷いの世界



修羅
畜生
餓鬼
地獄

六道輪廻の一部

仏教の目標

解脱による成仏

瞑想、学問、儀式、慈善、道徳。。。

様々な方法

それで
迷いを離れられる?

往生→浄土

「ただ念仏」

念仏は善根?

浄土ではなく

天上界を
目指しては
いないか



人⇔浄土

三願転入

久しく万行諸善の
仮門を出でて

ながく双樹林下の
往生をはなる

善本徳本の
真門に回入して

ひとえに
難思往生の
心をおこしき

しかるにいま

まことに
方便の真門をいでて

選択の願海に
転入せり

すみやかに
難思往生の
心をはなれて

難思議往生を
とげんとおもう

19願→20願→18願

双樹林下往生→
難思往生→難思議往生

第十八願でゴールですか?

果遂の誓い
まことに
ゆえあるかな

ここにひさしく
願海にいりて

深く仏恩を
知れり

自力が廃れたと
いうことではない

捨てられないという
悲歎のままに

内にありながら
外に走るものを

なお取り込んで
内に抱くという

広大無辺の
仏恩の随喜である

「不安に立つ」

2007年05月22日

●合寺事件プレゼン

富山藩合寺事件

別院設立

富山藩とは

加賀藩の支藩

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明治3年
(1870年)

10月27日
合寺令発令

すべての寺院は
一派一寺に

ただちに合寺せよ

大谷派寺院
70ヶ寺

本願寺派寺院
185ヶ寺

合わせて

255ヶ寺を
1ヶ寺に

数百人にのぼる
武装兵士を配備

合寺をためらうもの

即時に逮捕

寺院は
取り壊され

仏具は
鋳つぶされた

真宗の合併所
「持専寺」

1200人あまり
240畳に雑居

町名を改名

寺町

梅沢町

海岸寺町

八人町

古寺町

常盤町

政府は黙認

北陸門徒に動揺

僧侶たち
本山
動き始める

明治4年
7月22日

廃藩置県

合寺事件
未解決のまま

明治5年
9月24日
合寺令解除

明治11年
解決

明治13年
総曲輪に
説教場設立

明治17年
別院に昇格

明治19年
「砂持ち奉仕」

神通川の土砂で

富山城の堀を
埋め立てる

参加
延べ7000人以上

明治21年
(1888)
仮本堂完成

明治32年
(1899)
富山大火

昭和20年
(1945)
富山大空襲

そして

現在にいたる

2007年05月19日

●真宗と廃仏毀釈・法難

23日 小松へお話に行きます。
来年の富山教区法要において富山藩の合寺令、廃仏毀釈を取り上げることを紹介しようと思っています。
それで、なぜ明治維新のときに廃仏毀釈が起こったのかを考えつづけています。

明治政府の意向。どういう国づくりをしたかったのか。
そのとき仏教はどのように見られていたのか。
そして、真宗だから、弾圧を受けたと言えるのかどうか。
真宗教義は権力から危険視される内容をもっているのか。

そうなると、教行信証の成立と法難との関係も考えざるを得なくなるんです。
法難を受けて、教行信証が書かれたと、どういう点で言えるのか。
教行信証の中で法難は、なぜ取り上げられているのか。
教行信証があるから弾圧を受けるのか。
それとも全く関係はないのか。

23日までなにか結論は出せるだろうか??

このあたり、お考えを御持ちの方、コメントしていただけると幸いです。

2007年05月18日

●組同朋の会

テキスト阿弥陀経。

いつも当日まで悩みに悩む。

今回は六道輪廻(天)と往生浄土の違い。
善因善果、悪因悪果によって輪廻していくことを迷いと見定めたのが仏教。
いわゆる善根によってではなく、
ただ念仏によって輪廻の鎖を断ち切るのが往生極楽の道。
そして光明無量と寿命無量は「いつでも どこでも だれでも」。
光の性質についていろいろ語ったりしました。
混迷するかと思いきや、意外とすっきり話せました。

質疑応答座談もけっこういろいろ話が出て、
最後に床の間にかけてあった曽我量深「開神悦体」が話題になって、
「教えを理解しているつもりでも身体はどこか緊張したりしているもの
 本当に教えをいただいたならば体がよろこぶものです」
といった話を、会の長老のような方が切々と語られた。

なんかすごいなーと、拝聴してました。

2007年05月16日

●いろいろ追記、など

 震災に遭われた方々とお話しして印象に残ったのは、風景が変わったことをよく話されたということです。慣れ親しんできた、岬や海岸線、山々が地震によって大きく変貌してしまった。変わらないのが当たり前と思っていたものが崩れるというのは、本当にショックなんだろうと思いました。

 仮設住宅は被災地から比較的近距離にあり、集落単位で、集落内の大谷派寺院の方々もそのまま入居されていました。ですから神戸の時のような精神的孤独、孤立という問題はそれほど起きないかもしれないと、車の中で辻内さんとお話ししました。しかし、高齢化と過疎化が切実である能登においては、自宅、生活の再建について、より懇ろに手を差し伸べなければならないと思いました。寺院に付いても同じことが言えます。

 「業」ついて。 「業」は仏教用語ですが、元来は行為のことです。それが、「私を私たらしめているもの」という意味合いを持って使われるようになりました。無我、縁起という考え方から、「業」は克服される対象であり、人を悩ませ苦しめているけれども、本当は存在しないということになります。
 しかし、生活実感にあまりに符号しているからでしょうか、輪廻と併せて広く使われ続けています。運命、負い目、コンプレックスというようなニュアンスもありますね。「業病」などという、悲しい言葉にまでなりました。

 私、個人としては、「業」という言葉を、他人に対しても自分に対しても、萎縮や恐れを巻き起こすような意味合いで使うことはやめるべきだと思っています。
 「業報に喘ぐ」という文章において、水平社宣言の起草者、西光万吉は、解放運動を実践していくことを、させずにはおかないような、意欲を巻き起こすような働きとして「業報」という言葉を使っています。そういう使い方がいいなと思っています。でも、もう使うのはやめようという意見もあるでしょう。

 時間ができたら西光の書いたものを、改めて読んでみたいな。転向も含めて左右から批判された方ですが。

 今日は午後から法話のピンチヒッターというか、リリーフに行ってきました。
 「しんらんさまはなつかしい」を聞いてもらうのに、外付けスピーカーを持ち歩かないといけないかなと思っていたのですが、携帯のスピーカーに会場のマイクを近づけるので十分であることに気がつきました。あはは。

●私、流星はこのように思います。

いわゆる「運動」といいますか、行動することを嫌い、
宗教は心の救いを説くものだという論調があります。

行動は縁が催すものですから、縁がなければ動く事はありません。
縁があれば動く。縁を左右する事はできません。
だから、行動を強制することは人にできるものではありません。
同じように「動いてはいけない」というのも、強制できないことです。

本当の救いを求め続けるのが宗教です。
それを行動しつつ求めることを否定することはできないと思うのです。
実際のところ、行動と心、身と心を切り離すことなんて、できはしないのですから。

私のはからいを越えて、さまざまな業縁がわたしにふりかかってきます。
いっしょうけんめい計らいながら、業報に喘ぎつつ、生き続けようと思っています。

2007年05月15日

●震災の地

14日 月参りをしつつ、志賀町で開催される北陸連区差別問題研修会に向かいました。
能登へ向かう目的はもう一つありました。
富来町の震災に遭われた、ある寺院をお見舞いにいくことです。

あおさんのブログに写真が載りました。
私が能登教務所に勤めていたとき、
顔なじみのご住職、そして坊守さんは当時、坊守会長をされていて
大きな行事をごいっしょさせて頂いた、お二人のお寺だったのです。

志賀町についてお電話したところ、金沢の娘さんの家につながりました。
久しぶりにお聞きする声でした。15日にお会いする約束をしました。

研修会のテーマは「業、宿業」です。講師は近藤祐昭さん。
仏教の「業」の思想は縁起的業報思想であり、ヒンズー教の業報思想とは本来異なっている。
しかし、大無量寿経の五悪段にはその深い影響が見られる。
それでも親鸞聖人は歎異抄13章にあるように、仏教の戒律によって罪悪感を持たされてきた人々を、罪悪感から解放した。一人ひとりの持っている生きることへの意欲や情熱、人間の尊厳を支えている願いとしての本願を明らかにしていった。歎異抄には、因果応報、自業自得、悪因苦果(悪果)といった考えは見られない。むしろそうした業報観を批判した。
大谷尊由に反論した西光万吉論文「業報に喘ぐ」。業報として社会的差別を諦めるのではなく、差別のない世界を限りなく目指すことを「大悲が私に為させてくれた」「水平運動を見る人よ、業報に喘ぎつつ白道を進む人間の姿を見よ。」

以上、レジメの印象に残った部分を抜き書きしておきます。

15日、研修会を終え、ボランティア活動の受け入れをされている長谷部さん(今月の同朋新聞に談話が載っている)と解放運動推進本部の辻内さんとともに被災地に向かいました。

寺の状況はあおさんの写真のままでした。お二人はお変わりになっていませんでしたが、金沢との往復にさすがに疲れていらっしゃいました。「震災のおかげでこんな懐かしい人と合えるなんて」とお互いに笑いながら、涙が出そうでした。本堂にお参りさせていただきました。ボランティアのおかげで掃除はできたということですが、お木像の代わりに置いてある三つ折本尊に手を合わせると、もうなんとも言いようもない気持ちになりました。

お別れして門前の町へ向かいますと、ブルーシートで瓦屋根を覆った家屋が、広い範囲にたくさんありました。解体中の家がたくさんありました。

門前町の仮設住宅を訪れました。輪島にもできているとの事です。
かつて、神戸で見た風景が、能登の海辺にありました。
5月に入って建設されたばかりで、引越しの第1陣が終わったところの事です。
散歩していらっしゃった方とお話しました。長谷部さんの親戚寺院のご門徒さんでした。
地震で陥没や断層ができて、風景が変わってしまったとおっしゃっていました。
すぐに近くにボランティアセンターがあり、ひっこし手伝いなど、個人ボランティアを受け付ける体制ができていました。
辻内さんの神戸からのボランティア、NGOなどについて、長谷部さんと打ち合わせしていました。

辻内さんを津幡駅まで送り、帰路に着きました。

2007年05月12日

●草津には行けなかったけれども

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子ども会で「ルイのともだち」の読み聞かせをしました。

って、みんな近すぎ。。。

草津にはいけなかったけれど、子どもたちの顔が見れたから、

まぁ、いいかな。

2007年05月11日

●今の課題

○教区、組、玉永寺の行事を運営、企画、研修会で積極的に学び、今、自分にできる法話をする。

○安田理深「不安に立つ」というテーマについて、話せるところまで学ぶ。(23日まで)

○富山藩の廃仏毀釈について話ができるように、学び、整理をする。(23日まで)

○40代から50代に呼びかけるような同朋会のチラシを作成する。(25日まで)

以上

2007年05月08日

●祠堂経法要チラシ

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●子ども会葉書

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●GW終了、動き出す

日程の調整を続けてきたが、12、13日、草津でのハンセン病市民学会への参加はとうとうあきらめざるを得なくなった。キャンセル。残念。

午後から教務所へ出向き、来年の教区御遠忌にあわせて、ハンセン病問題に関する講演会ができないか事務方と調整。

「こりゃ無理か?」と思う場面もあったが、居合わせた玄雄氏、土肥氏とも話し合い、11日の組織拡充委員会に企画書を出すところまでこぎつけた。

夜は野々市まで車を走らせ、常讃寺で安田理深真仏土巻聴記読書会。

このところ、一人で安田先生の本を読み進めているのでなんかなんだか分かっているようなつもりでいたが、みんなで話し合うと、まったくそうじゃなかったことに気づかされた。話し合うってのはほんとに大事なことだ。

阿難は最後まで悟らなかった
しかし証は自己申告に過ぎない。
信仰体験をもつことの問題、第二十願。
なくてもかまわない。ただの実感なんだから

以上、これだけメポw

帰れば、次の日になっていた。風呂も入らず、寝た。

2007年05月03日

●5月の予定

7日 安田理深真仏土聴記学習会 野々市

9日 ハンセン病問題ふるさとネットワーク会議 西別院

10日 組親鸞聖人講座 上市 辻俊明師

12日 玉永寺子ども会

12・13日 ハンセン病市民学会 草津

14・15日 北陸連区差別問題研修会 能登

18日 組同朋会 上市

21日 組解放運動学習会 上市 柴田秀昭師

23日 小松教区仏青連続講座

24日 教区御遠忌公開講座実行委員会 教務所

26・27日 玉永寺祠堂経法要

2007年05月01日

●想像を膨らませて観経を読んでみる

坊さんはGWとかありません。月参りと御法事の毎日です。
昭和法要式で何度か観無量寿経をお勤めして、いろいろ考えました。

お釈迦さまは何で、幽閉された頻婆娑羅王のところには訪れなかったんだろう??
韋提希のとこには、呼びもしないのにやってきたのにね・・・

二人の違いはなんなんだろうと想像してみるに、王のほうは我が子によって幽閉され死を迎えるという状況を、受け容れられていたからか。諦念していたというか。その死が「阿那含」、一種の悟りのように形容されているわけですから。

韋提希の方は、すんでのところで刃にかけられそうになってるし、夫の事も心配でたまらんかったでしょう。我が子に対して激しい恨みのようなものを抱いていたんではないでしょうか。お釈迦さまは心配だったんじゃないかな。それが爆発、「世尊、われむかし、なんの罪ありてかこの悪子を生ずる!」。彼女が現実を厭離し、浄土を願うという展開は、素直なこころの動きだと思うんです。

そこでお釈迦さまが浄土に生まれるための「三福」を説く。
その最初が「父母孝養」という言葉。それを聞いて韋提希は我が子のことをどのように考えただろう? 

「もし仏滅の後のもろもろの衆生等、濁悪不善にして五苦に逼められん。いかにしてか当に阿弥陀仏の極楽世界を見るべき。」という質問をする。彼女のどこかに、我が子はどうなるのだろうかという気持ちが湧いてきたのか?

お釈迦さまの法話の終盤、中品下生で再び「父母孝養」が説かれ、直後に極悪人が念仏によって救われていくことが明らかにされる。そして韋提希は無生忍という素晴らしい悟りを開いて、完。

夫を死に追いやり、自分をも殺そうとした子を許し、救いを願うことになる過程が、観無量寿経ではないかと。

以上は、私的な想像で、善導や親鸞の考え方に基づくものではありません。でも、信巻で子、アジャセの救いが唐突に出てくるのは、親鸞にもアジャセはどうなったのか、という思いがあったからじゃないかな、とまたまた、想像してみたり、してます。

しかし、本当に韋提希の立場になったとしたらと想像することは、私の限界を超えています。