●私、流星はこのように思います。
いわゆる「運動」といいますか、行動することを嫌い、
宗教は心の救いを説くものだという論調があります。
行動は縁が催すものですから、縁がなければ動く事はありません。
縁があれば動く。縁を左右する事はできません。
だから、行動を強制することは人にできるものではありません。
同じように「動いてはいけない」というのも、強制できないことです。
本当の救いを求め続けるのが宗教です。
それを行動しつつ求めることを否定することはできないと思うのです。
実際のところ、行動と心、身と心を切り離すことなんて、できはしないのですから。
私のはからいを越えて、さまざまな業縁がわたしにふりかかってきます。
いっしょうけんめい計らいながら、業報に喘ぎつつ、生き続けようと思っています。
コメント
「さまざまな業縁がわたしにふりかかってきます。いっしょうけんめい計らいながら、業報に喘ぎつつ、生き続けよう思っています。」
流星さんの日記のこの部分が、重く響きます。
あることに生き甲斐を求めているけれど、でも病気のために、自分ではそれを実現できない人がいます。
私からすると、その人の望みは、その人が人生の最後の最後になっても諦めきれない「業」のように思えます。その「業」を私に背負ってほしいという思いがひしひしと伝わってくるのですが、私にはとうてい背負い切れません。
私に降りかかってきた「業縁」に喘ぎながら、いつになったら私は解き放たれるのだろうかと思うこの頃です。
Posted by: 村上絢子 | 2007年05月16日 10:50
村上さん、コメントありがとうございます。
お言葉が、染み入りました。
Posted by: 流星 | 2007年05月16日 20:05