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2007年05月16日

●いろいろ追記、など

 震災に遭われた方々とお話しして印象に残ったのは、風景が変わったことをよく話されたということです。慣れ親しんできた、岬や海岸線、山々が地震によって大きく変貌してしまった。変わらないのが当たり前と思っていたものが崩れるというのは、本当にショックなんだろうと思いました。

 仮設住宅は被災地から比較的近距離にあり、集落単位で、集落内の大谷派寺院の方々もそのまま入居されていました。ですから神戸の時のような精神的孤独、孤立という問題はそれほど起きないかもしれないと、車の中で辻内さんとお話ししました。しかし、高齢化と過疎化が切実である能登においては、自宅、生活の再建について、より懇ろに手を差し伸べなければならないと思いました。寺院に付いても同じことが言えます。

 「業」ついて。 「業」は仏教用語ですが、元来は行為のことです。それが、「私を私たらしめているもの」という意味合いを持って使われるようになりました。無我、縁起という考え方から、「業」は克服される対象であり、人を悩ませ苦しめているけれども、本当は存在しないということになります。
 しかし、生活実感にあまりに符号しているからでしょうか、輪廻と併せて広く使われ続けています。運命、負い目、コンプレックスというようなニュアンスもありますね。「業病」などという、悲しい言葉にまでなりました。

 私、個人としては、「業」という言葉を、他人に対しても自分に対しても、萎縮や恐れを巻き起こすような意味合いで使うことはやめるべきだと思っています。
 「業報に喘ぐ」という文章において、水平社宣言の起草者、西光万吉は、解放運動を実践していくことを、させずにはおかないような、意欲を巻き起こすような働きとして「業報」という言葉を使っています。そういう使い方がいいなと思っています。でも、もう使うのはやめようという意見もあるでしょう。

 時間ができたら西光の書いたものを、改めて読んでみたいな。転向も含めて左右から批判された方ですが。

 今日は午後から法話のピンチヒッターというか、リリーフに行ってきました。
 「しんらんさまはなつかしい」を聞いてもらうのに、外付けスピーカーを持ち歩かないといけないかなと思っていたのですが、携帯のスピーカーに会場のマイクを近づけるので十分であることに気がつきました。あはは。

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