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2007年06月01日

●戦争と寺院

 道綽と廃仏毀釈の関連を調べていたら、こういう記事を見つけた。

 道綽禅師は十四歳で出家されました。中国社会の混乱の中で、静かな深い教えをもとめ
て仏教に帰依されたことが出家の動機であったでしょうが、生活苦も理由の一つであった
といわれます。
 ところが、道綽禅師が十六歳になられた五七七年、北周の武帝は北斉を滅ぼして中国北
朝を統一し、仏教と道教の禁止令を発布しました。一部の僧は南朝に逃れたり、山深い地
に隠れたりしましたが、ほとんどの僧は還俗させられました。道綽禅師も還俗させられた
一人でした。
 北朝統一前の北周では、富国強兵策をすすめるために仏教と道教を禁止し、寺院やその
田畑を没収し、仏像などの金属品を鋳溶かして工具や兵器にし、僧侶は還俗させて徴兵し
て軍備を増強しました。仏教側から道安などが皇帝の前で廃仏の非を切々と説きましたが
受け入れられず、仏教を捨てることができない人々は身を隠し、衣食住に苦しみながらも
細々と教えを護っていました。

http://www.biwa.ne.jp/~takahara/
http://www.biwa.ne.jp/~takahara/shosin22DS.htm

 富山藩合寺事件の際にも、仏具と梵鐘が供出させられ、弾丸や大砲にされた。武器の倉庫や工場にされて、打ちこわしを免れた、寺の本堂もあった。明治維新の富国強兵の気運にのって、富山藩は軍隊の強化を目指していた。そこには仏教を貶め、軍国主義を民衆に対して示威していくという狙いもあった。

 「廃仏毀釈」の歴史には、こういう兵器との関連があるということだ。

 もしも、安倍首相から「美しい国、安全な国づくりのために、宗教者も痛みを分かち合っていただきたい。」と、仏具や梵鐘の供出を依頼されたら、いまの我々はどうするだろう。

 じっさい、玉永寺も梵鐘仏具を昭和に入って、国に供出している。梵鐘を供出する際には、鐘に衣を着せて、門徒とともに法要が勤められている。探せば、写真があるはずだ。彼らは「お国のため」と喜んでいたのだろうか、それとも悲しんでいたのだろうか。そして、ご存知のように、住職が二人、徴兵され、中国と南方で戦死している。

 玉永寺がこうした「縁」に遇っている以上、戦争という問題に無関心では、いられないと思っている。

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