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2008年03月26日

●宮城喜久子さんのお話

ひめゆり学徒隊の生存者が命の大切さ語る

 第二次世界大戦末期の昭和20年、日本で唯一の地上戦となった沖縄で、負傷兵の看護などにあたった「ひめゆり学徒隊」の生存者が、26日、富山市で当時の悲惨な戦争体験を通して命の大切さを語りました。

 富山東別院で当時の体験を語ったのは、16歳という若さで負傷兵の看護などにあたったひめゆり学徒隊の生存者で宮城喜久子さん(79歳)です。

 主催者の(ひとり)石川玄雄さんによりますと「5月に行う沖縄フェスティバルに先立って、事前に沖縄の歴史を知ってもらおう」とこの講演を企画したということです。

 沖縄フェスティバルは真宗大谷派富山教区・富山別院の御遠忌の記念行事として5月17日(土)に富山東別院で行われます。 (KNBニュース 一部補足)

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以下は講義ノートの一部 文責は流星

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土地に行ったらしっかり感じることがある。
観光地というイメージだけでなく、本土とわれわれが様々な温度差をもっている。
それがなにかを知り、生かしてほしい。
わたしは16歳でひめゆり学徒隊 沖縄戦はこれまでどこにもなかった戦争 小さな島で3ヶ月戦った17万という住民が引きずり込まれた もうこれまでもなかったし、これからないような戦争 戦場のなかでは逃げることもできない 日本の国のために勝つまでがんばれと 教育によって追い詰められた 二十万の人が死んでから自分たちの愚かさに気づく 楽しい学園生活 国際通りは ひめゆりの通学路だった 静かな通りは観光地になってしまった
雑踏の中を通りながら、本屋や首里城へ遊びに行ったことが思い浮かぶ それは10代でみな亡くなったから 心の傷 わたしが16歳ですべてを失った まだまだ引きずっている亡くなった211名の学友 辛くて悲しくて ひめゆりの塔にも行かなかった いまは悲しいのではない 悔しい 時代の流れ わたしは戦争のなかで育ったのが みなさんとの違い 友達はどんなに悔しい思いで死んでいったか 悲しいのではなく悔しい 戦争勝つまでがんばろう 陸軍病院へ行けと夜中近くに言われる これまで受けた教育では日本は神の国で、絶対に負けることはない 日本軍を友軍と呼んでいた 信頼していた ほとんどが死ぬとは夢にも思わなかった
227名の死をわたしは戦場のなかで遭遇した そこで戦争を知った
人間生きることは当たり前だと思っていた 生きられることがどんなに大事なのか 幸せなのか 大事な人を失ってはじめて気がついた。35年間教師をしたが、ひめゆりのことを話さなかった。悲しさだけに取り付かれていた。40年たって わたしの周りで戦争はなくなったか。二十万という人々が亡くなった。人間、金も物もいらない。収容所からテント小屋へ。これからは少しは人間らしく生活できると思った。砲弾の音も聞かずに生きられると思った、そして朝鮮戦争が起こった。沖縄の基地から。戦争と無縁で生きられると思ったときだった。三ヶ月間、血まみれで逃げ惑っていたことが思い浮かんだ。
皮肉にも戦争のおかげで日本は再生した。そして、ベトナム戦争、10年。核爆弾を搭載できる爆撃機が沖縄から出撃。小学校教師をしていた。朝鮮半島の人が、沖縄の人が憎いと言っていることが新聞に載った。なぜまた戦争をするのかという質問に答えられなかった。
27年間沖縄は軍政下にあった。本土復帰。日本の教科書を使っていた。民主主義、平和憲法。国民全体の総意の国へ。希望があった。5月15日。本土の51%の基地が無くなるという夢を見ていた。しかし自衛隊が来て、基地も存続。75%へと増える一方。40年過ぎた。戦争の映像を見ると、あのときのことが思い浮かぶ。トラウマ。ひめゆりの塔の第1外科壕から出された。うめき声、叫び声。友達を壕に残したこと。33年忌にやっとそこまで行けた。しかし足が震えた。姉を残した友達。お姉さんごめんなさい。40年ぶりに中に入り、遺骨、遺品を拾った。整理されていると思っていたが、遺骨がたくさんあった。山になっていた。別世界に行ったような感じ。沖縄戦のことを、本土の人は知らない。事実を知らない。戦争の風化に気がついた。思い知らされた。
ひめゆり資料館を作ろう。観光地になっている。間違った証言を払拭する。しっかりと伝えて、平和、亡くなった人たちへの供養。ひめゆりの心を忘れないで
25名の証言者が 今は15名。戦争がいかに愚かか。人間の努力によって平和を築く。日本の国が平和なら平和?

13歳で入学。先生志望。寮生活。友達がいっしょ。英語は使えなくなる。16才、勉強なし。基地を作る。アメリカのことは知るな。アメリカの力は分からない。竹槍。アメリカは全部知っていた。国策。世の中を見つめる目が必要。

4回の大空襲 3月23日 炸裂弾。それから3ヶ月。病院へ行け。看護の手伝いをする。その前、両親に戦場動員の許可をもらいにいく。父も教師だった。がんばって来いとは言わなかった。お前を16歳まで育てたのは、そんなことをさせるためではない。女は戦争に行かなくてもいい。山へ逃げろ。私は「非国民と言われるよ。」と答えた。立派な日本人になれという教育を受けた。方言、歌をやめた。今も方言が使えない。母が泣いてしがみついた。3月23日戦場へ行った。半分以上が亡くなった。そういう教師。いかなる教師であるべきか。他の女子学徒隊は卒業者のみ戦場へいった。ひめゆりだけは在校生。それを誇りと思っていたが、18名の教師がついていた。そのために、悲劇が起こったのかもしれない。それが悔しい。恩師であるが、二度と教師に過ちを犯してほしくない。
陸軍病院に空襲。壕に入れない。なぜ病院に爆弾が落ちるのか。教師も分からない。これが戦争。ルール無視。
先生は「心配するな。爆弾が落ちない後方で看護するのだ。」と言っていたが、そうではなかった。
砲弾の中の卒業式。この世界のなかで稀なこと。戦場での卒業式。悔しかった。「別れの歌」、鎮魂歌。
4月1日 米軍上陸 70代の男性まで負傷者を運ばされた。すべての学校からも動員。21の学校。戦場の学徒隊。学生は通信兵をした。有線。工業高校の生徒。100名、14、5歳。80名が亡くなった。上級生は爆弾を背負って戦車に体当たり、訓練を受けていた。火薬を体に巻く。生徒に手榴弾を渡し、敵の後方から使え、最後の一つで自決せよ。生徒、住民に手榴弾を渡す。軍と関係がないはずがない。
血まみれな人を見て呆然とした。戦場だ甘ったれるな。座り込んだり、震えたりしてはいけない。どんどん負傷者が増えていく。3000名。病院がいっぱい。糸数壕へ1000名移す。ガーゼで水を与える。血と膿の悪臭。空き缶で小便を取る。
何もいわない人。喉に穴が開いていた。蛆が這い上がっていた。蛆が傷口を食べる音が聞こえる。うめき声が聞こえる。やせこけた兵隊とコロコロ太った蛆。
有事法制によって戦争に行かされる。法律によって行かされた。国家総動員法。
血まみれの手足を運ぶ。病院の回りにできた穴に投げ込む。最初は泣いた。泣きもしなくなった。そうしないと任務が出来ない。人間の感覚が無くなる。すべて人間ではなくなる。青酸カリのミルクが配られる。軍人だけではない、住民も追い詰められて死んでいく。ピンポン玉のおにぎり。病気になり、眼が見えなくなった子がいた。今は物があふれている。そのときはどうすることも出来なかった。それが戦場。何も出来ない。
4ヶ月前に書いた手紙。普通の女の子。そういう子が戦場へ行き、死んだ。
井戸をアメリカ軍は狙い撃ちした。血のにおいのする水を飲んだ。
第一外科。8人友人たちが血まみれ。教頭先生が蝋燭をともす。6月18日 学徒隊を解散します。出て行けといわれる。連れて行けなかった。

国際法は通じない。学生にガス弾。火炎放射器。6月20日、解散命令。もう一度お母さんに会いたい。6月21日、日本兵が投降して、日本人に殺された。ピンを抜けなかった。「金城さん手榴弾置いて」友達が声をかけた。他の人々が手榴弾で死んでいた。アメリカ兵が手当てをしていた。

収容所 7ヶ月ぶりに母に会う。「生きていた。」死んだ方がよかったと思っていたが、母に謝った。

人間の基本はいのちである。生きられる幸せに気づいてほしい。平和でないと生きられない。平和を作る。大事なときには、その言葉を思い出してほしい。沖縄フェス。いのちについてしっかり考えてほしい。いのちがどんなに大事か。戦争がいかに愚かなことか。

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