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2008年08月19日

●お盆のいわれ

以速寺通信から

 ところで、お盆は正式には盂蘭盆会(うらぼんえ)といいます。インドの言葉の「ウランバナ(逆さづり)」を漢字に当てはめたものです。
 こんなお話が伝えられています。ある日、お釈迦さまのお弟子目蓮尊者(もくれんそんじゃ)が、亡くなったお母さんが極楽でどう過ごしているか自慢の神通力をつかって覗いてみました。すると、あろうことか、優しかったお母さんは、餓鬼道(がきどう)におちて倒懸(とうけん=逆さにつるされる)のような苦しみをうけていました。目の前にあるご馳走を食べようとすると、燃えてしまうのです。
 目連尊者はお釈迦さまに訴えました。「なぜ、優しかった母が餓鬼道に落ちているのでしょうか。また、この母は、どうすれば救われるのでしょうか」お釈迦様は答えます。「目連よ。子に優しい親が、全ての人に優しいとは限らない。多くの親は、我が子のためには、周りから鬼と言われるのを厭わない。また、この罪の深さは一人で救えるものではない。今、まさに夏の研鑽会を修了する多くの僧がいる。この僧にご馳走をもって供養し、その功徳によって母を救いなさい」と。
 この経説が行事になったものがいわゆるお盆です。
 ところが、今日では、ご先祖の霊を迎え入れ、ご先祖のために功徳を積み、再びあの世へお見送りをする、という考え方が付加されているようです。しかしお念仏の教えに出会われた亡き人は、ふわふわと、迷われているわけではありません。むしろお浄土から私達に、「大丈夫ですか、倒懸(逆さ)になっていませんか、頼りにならない物を大切にして、本当に大切なことをないがしろにしていませんか?」と絶えず心配される、「諸仏(しょぶつ)」の一人になっておられます。そもそも、仏さまとなった亡き人に、私達が、功徳を足す必要があるのでしょうか。また、ふわふわしているのは残された私たちではないでしょうか。
 ですから、私たちは、霊が迷わないようにと迎え火や送り火をしたり、精霊流しをする必要はありません。お盆というご縁を、ご先祖・亡き人を偲び、お墓参りとともに、心静かにお内仏(お仏壇)の前に座り、お念仏の教えにわが身をたずねていくという、本来の姿としたいものです。

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