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2008年11月28日

●「ごまんさん」

玉永寺 御正忌報恩講です
本堂でのお勤めの後 ミニシアター(座敷)でのDVD上映
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私の法話の後 前住職の説明
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広間での お斎
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心和む集いとなりました
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2008年11月23日

●五木寛之「親鸞」

単行本になってから読もうかなどと考えていたのですが
とうとう北陸中日新聞を購読し始めました
現在 親鸞が法然のところを訪れる場面辺りまで進んでいます
五木さんの世界観のなかで どのような親鸞が描かれるのでしょうか

9月から新連載小説「親鸞」 五木寛之・作
2008年7月12日掲載

 朝刊の新たな連載小説として、9月1日から五木寛之・作、山口晃・画の「親鸞」が始まります。ご愛読いただいています宮城谷昌光・作、村上豊・画の「新三河物語」は8月末で完結します。親鸞は浄土真宗の開祖です。活気にみちた青年期から、激動の時代を生き抜いた、画期的な親鸞像を描きます。ご期待ください。

 <作家の言葉>ひさびさの新聞連載なので、不安もあればプレッシャーもある。しかも主人公は親鸞だ。時代は激動の中世である。作者としては武者ぶるいを禁じえない。とことん判(わか)りやすく、明日がまちどおしいような面白い作品を書こうと思う。できればそこに、いくばくかの深さも欲しいと願うのだが、それは傲慢(ごうまん)というものだろうか。

【五木寛之氏(いつき・ひろゆき)】1932年、福岡県生まれ。戦後、朝鮮半島より引き揚げ、のち早稲田大学露文科に学ぶ。66年「さらばモスクワ愚連隊」で小説現代新人賞、67年「蒼ざめた馬を見よ」で直木賞、76年「青春の門 筑豊編」ほかで吉川英治賞を受賞。81年より休筆して龍谷大学に学ぶ。2002年菊池寛賞受賞。近著は「百寺巡礼」「私訳 歎異抄」など。

 <画家の言葉>五木さんに「自由にやってください」とおっしゃっていただきましたので、そのように致したく存じます。本文とつかず離れず、描かずもがなの事は省き、読者の方の助けと楽しみとなるような絵を、二割三分の打率で描き出せたらと存じます。……低すぎますでしょうか?

【山口 晃氏(やまぐち・あきら)】1969年、東京生まれ。群馬県桐生市に育つ。96年、東京芸術大学大学院美術研究科絵画専攻(油絵)修士課程修了。2001年、第4回岡本太郎記念現代芸術大賞優秀賞。日本の伝統的手法と現代風俗とを融合した作品などが国内外で高く評価され、幅広い分野で制作活動を展開中。

2008年11月20日

●ハンセン病知って 「新・あつい壁」上映

ハンセン病知って 「新・あつい壁」上映
2008年11月18日 asahi.com
 ハンセン病患者への差別と偏見を取り上げた映画「新・あつい壁」が30日、魚津市の新川文化ホール・小ホールで上映される。上映終了後、中山節夫監督のトークがある。

 映画は50年以上前に熊本県で実際にあった殺人事件を題材にして、ハンセン病患者が死刑判決を受けた裁判を中心に、ルポライターが事件を追っていく内容。1969(昭和44)年に、患者を親に持つ子どもが差別に悩んで自殺する映画「あつい壁」を手がけた中山監督が、再びメガホンを取った。

 全国ハンセン病療養所入所者協議会が、らい予防法廃止10周年とハンセン病国賠訴訟勝訴5周年を記念して制作。文化庁の日本映画上映支援事業として映画センター全国連絡会議が、全国35カ所で上映する1カ所。魚津市での上映は、すでに市民団体によって自主上映された富山市と高岡市に次いで県内で3カ所目。映画の準主役を演じる左時枝さんの出身地・朝日町に近いことも上映につながった。

 映画のPRに魚津市や朝日町を訪れた同会議の竹内守議長は「ハンセン病患者への差別や偏見は今でも残っている。映画を見てハンセン病患者のことを少しでも知ってほしい」と話した。

 上映時間は30日午後1時。聴覚障害者のために日本語字幕が付いている。前売り券一般・シニア900円(当日は千円)。

●「三福」について

先日 組同朋の会においてお話した 観無量寿経に出てくる「三福」について考え続けています

釈尊が突然 三福について話すのを聞いて
韋提希はどう思ったかについて
ほとんどの講師は わが子に殺されそうになった状況を省みて
いたたまれない思いで聞いていただろうと 話しているようです

しかし 私は読み返すうちに 違うことを考えるようになりました
というのは 一般的な解釈では 釈尊がここで三福を話す理由が明確でないように感じるのです

もしかしたら 韋提希は釈尊の話す三福の教えを
目を輝かせて聞いていたのではないかと考えるようになりました

寺でも法話を聞かれた方から こういう感想をよく聞きます
「今日のお話は ほんとうにいい話でした
 家の息子にこそ 聞かせてやりたいものです」

もちろん自分が感動した法を 身近な人にも勧めたいという気持ちもあるでしょうが
自分を棚に上げて 他人を咎めるための道具のように
法話を 聞いているということもあるわけです
私も「この話 オレはいいからあいつに聞かせてやりたいもんだ」
なんて 考えてしまうことがあります

一者孝養父母、奉事師長、慈心不殺、修十善業。
二者受持三帰、具足衆戒、不犯威儀。
三者発菩提心、深信因果、読誦大乗、勧進行者。

韋提希はわが子 アジャセにこそ聞かせてやりたいと思って
釈尊の三福についての話を受け取っていたのではないか

「福」という言葉は 仏教において
「福徳」「福田」のように 称える意味としても使われます
しかし「罪福」「禍福」のように 災いを恐れる心情の裏返しとして
いわゆる不幸を恐れる 人の心の弱さを示す言葉としても使われます

三福は 世間でも仏教においても
これ以上なく 当たり前に善いこととされるような内容です
ですが 災いを逃れる術として行うことに問題はあります
実践しようとしてできなければ 自分を貶めたり 逃避してしまう
逆に 私にはできると誇り 他者を見下すこともある
こうしたニュアンスを込めて「福」という言葉が使われているのではないか

釈尊は 悲劇から逃れたい韋提希の心情を見抜いて
まず三福から話したのではないか

そして続けさま定善について話すことで
「思惟」「正受」を求める韋提希の要求に応じて
さらに本願念仏へと話を展開していく

善導はここはまだ序分であり
正宗分には入っていないと読んでいる ということもありますね

このように 考えをめぐらしています

学ぶほどに 公表できるほど 十分に読み込んでいなかったと 反省しています

2008・12・17

2008年11月18日

●御正忌チラシ

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2008年11月14日

●報恩講法話ノート 

法話 藤場俊基氏 文責は流星
報恩講とは 講は集まり 恩に報いる
恩とは何か すぐに忘れてしまう 忘恩
忘れてしまうので年に一回 みんなで確かめ合わないとなくなってしまう
独り占めして内緒にしておくのは忘恩
みんなで共有する 同じものをいただくようにする そのために人が集まる 知らない人もいる
報恩講というのは 親鸞聖人のご命日を縁としている
報恩講になっているか 忘恩になっていないか そのためにお話を聞くことが大事
師恩 仏恩 教えを伝えてくれた 教えを説いてくれた
恩とは恵 では仏から何をいただいたか お名号をいただく
なんまんだぶつ 簡単なこと 念仏しなさい
しかし あまりしない お参りしても聞こえないことがある
恵みとして名号をいただいた これを回向という
名前がやってくる それを教えていただいた しかし うんといわない
念仏したら極楽行くことになっている しかし しない 極楽に行きたくないから
人間は何が好きか 地獄が好き
地獄ばかりを作っている 夫婦 学校 兄弟 会社
極楽はきらいだから念仏しない 教えてもらっても大事なこととは思わない
人間は疑い深い 自分ではっきり分からないことはしない
人間と仏教は 相性が悪い 仏教をいただいても素直に受け取らない
なぜか 嫌なことを言われるから

阿弥陀仏は光 光に当たったものが見える
月は太陽の光を遮るから光って見える
阿弥陀仏の光を遮るのは私たちの煩悩
私たちの醜いことが見えてくる それが大嫌い
人間は自分のことは自分が一番よく知っていると思っている 傲慢 錯覚
閻魔の浄玻璃の鏡 自分のすべてを写す鏡 その前に立てる人はいない

阿弥陀の光は我われの心をさらけだす
嘘をついて生きる 秘密を隠して生きるのは辛い
そういうものを抱えていることは重荷
それをどこかで認めてもらう 許してもらう
それが 観音 だから我われは観音菩薩が大好き

しかし 観音だけだと 優しさに甘えてしまう
観音は慈悲 勢至は智慧 嘘を許さない だから怖い
勢至 それでいいのか? 観音 それでいい

自分自身を許す 自分が好きになれない
赤塚不二夫 天才バカボン バカボンのパパ これでいいのだ
観音菩薩の働きが届いた時の言葉
それにうなづいていく しかし それは一回しか効き目がない
それ以上は 自分をなんとか納得させようとする
自分に言い聞かせる 二回目以降は不信感の現われとなる

罪悪深重の凡夫 教えを受け取らない 素直にならない
言葉によって罪悪深重が明かになるが それも二回目以降は疑いととなる
思いのなかに取り込む 手垢をつけて 握り締める なんでも汚してしまう それが煩悩

曇鸞 人間はなにもかも汚してしまう それをもっている人間がどうして仏法に合えるのか
阿弥陀仏は それを名前を届けることで実現しようとした
名前は意味が分からなくてもよい
十字名号 九字名号 漢字に意味がある
南無阿弥陀仏 インドの言葉の音
音だけということが大事で便利 中国 アメリカ すべて なむあみだぶつ
それが大事 阿弥陀の教えに出会った人のしるし

念仏しなさいと聞いたことが いわれ 意味を知りなさいということではない
御正忌の御文 南無と「言う」はすなわち帰命なり
言う 口に出すということ そのことを帰命という
教えを受け入れたということが起こった
意味が分かったということではない
素直に言えない 傲慢さがでる それも煩悩
分からないことを分からないままに 要求してくる教え
聞こえる 受けとめる 言葉が届く

浄土真宗の教えはただ念仏 知っている人はおおい しかし言わない
真宗の門徒は知っているだけでなく する
しかし 最近はしない人が多い 御文のなかにも 念仏せよとでてくる
ひとまねはおぼつかない 六字の名号のいわれ
しかし 当時と様子が違う 仏法繁盛 昔は満堂だったろう
今は せめてまねでもしろと 言わざるを得ない時代

ほめるということは難しい 感心な時だけ 100点なら喜ぶ 取らなければ喜ばない
ものごとには裏と表がある うまくいったかいかなかったで
そうでない時にほめるとイヤミ
お参りをほめる うまくいかない関係ない うまくいったときだけほめる
目に見える損得はない

秋葉原の事件 自分が大切と思えない 事件を悲しむ人が思い浮かばない
彼のような人に真宗の教えを聞いて欲しい
彼に真宗の教えが伝わっていない 間に合わなかった
親が迷惑 困らせるために事件を起こす 両親から大事にされたことがないのでは
歯止めは大事にされること よろこんでもらう経験

自分自身を責める 成功失敗と無関係にほめてもらえる場所がない
それが自分のなかにたまっていく
仏の前に座る 向き合う相手が変わる 自分で考える


報恩講 一軒一軒おときがでる てんこ盛りのご飯 かた豆腐 山菜
どこも同じ料理 報恩講とおちゃ 先祖総経 毎日同じ料理
それをする家はもう一軒か二軒 山菜料理もできない
ぜんまい胡桃あえ それができない くずし豆腐 みなで集まり 話を聞く
楽しい思い出 毎年の恒例 やらなくなって大切な空間と時間だとわかる
もう一度やろうと思ってもできない 世代が変わる
あんな手のかかることはできない
報恩講とは何か ごちそう?
今の子どもたちは何を記憶するのか 結婚式 葬式 ホール
自分が手をかけることがなくなる 小さい時の強い印象は少なくなってしまった
大事にしてもらった思い出を 子どもの時に持ってもらいたい
子どもがいっしょにお参りしたときにほめて欲しい
いい思い出になる それが財産になる なにかしたことを喜んでもらう
理解できない事件が起こる 理由がないわけではない 世の中に対する恨み 仕返し
両親を困らせたいために事件を起こす
極悪人というより縁 自分もそうなっていたかもしれない
同世代 気持ちがよく分かる 自分が無視される ないがしろにされる
なにが歯止めになるか 一概には言えないが それをすれば悲しむ人がいるか いたか
引き戻す理由 それが逆の理由になっている
自分が大事にされた記憶が大事 一緒にご飯を食べる お茶を飲むと親しい感情をもつ

仏法には三つのことがある 仏事 法事 僧事
仏事 荘厳 仏への敬いを形にする
法事 法を伝える お話をする
僧事 講 お斎 ご飯を食べる

家族 親戚からほめられる 大切にされたことが経験として残る
ほめるのは難しい いいときだけ うまくいったときだけほめる
良い子のフリ 本当の姿をさらけだせない 自分はダメな子
裏と表 悪い時にほめるのは難しい 皮肉になる
関係なくほめるのは 仏に参るときだけ
神は? 仏の前に手を合わせるのは お願い事をするためではない
うまくいかなくても 怒らない 本気では信じていない 欲がそこに見える

仏に手を合わせる なにが突きつけられるか
本当のこと 真実 不都合な真実 半分は嫌なこと
それに向き合うには正直にならないと それは大切なこと できたときにはうれしい
本当の自分に気がつかない ダメな部分を否定する
100% 完全な子どもを求めると ほめられなくなる
完璧を求めると できないところ だめなところを見つけようとする
どこまでいっても追い立てられる

親鸞の前で 私は真宗門徒だと言えるか?
自信はやっかいなことだが どうなったら手を上げられるのか
なにがいるのか どうなったら胸を張れるか
生まれでは決まらない
信心がはっきりしている人? それでは懐の小さい教え

自分が門徒になりたいか 自分がそうしたいか
自信がないからそうしたい そうでありたい
菩提心 そうでありたい 形を持って現われる 念仏
声に出す 極楽浄土は遠いところにある 阿弥陀経
遠いけれども 行く先々で諸仏がいる
極楽へ行く道が楽しい 周りにいる人と仏として出会える
憎みあっているが その息子に背中を押されて寺に来る
揉め事のない家族はどれくらいあるか みな家族で困っている 苦しんでいる
家族を大事にしろと言われると苦しい
仏法に出会える 仏の働き この子のおかげで出会える 極楽に行こうとしたときに始まる
関わりが変わる 極楽に行こうとしたら道のりが違ってくる
仏に出会っていく道を教えてもらうことが何事にも変えがたい

●城端別院報恩講

13日・14日と城端別院報恩講に参詣してきました
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御伝鈔拝読
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拝読の後 小豆粥が振舞われました
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法話は藤場俊基さん 真仏土巻読書会の仲間が集まり懇親会も催しました
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2008年11月08日

●子ども会

12月6日「さようならとかんしゃのつどい」の予行練習をしました
プロジェクターを使った巨大紙芝居「キャベツくん」など
今回も楽しい集いになりそうです
終了後 みんなで ふかしたサツマイモを食べました
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2008年11月04日

●玉永寺こども会葉書

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