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2008年11月20日

●「三福」について

先日 組同朋の会においてお話した 観無量寿経に出てくる「三福」について考え続けています

釈尊が突然 三福について話すのを聞いて
韋提希はどう思ったかについて
ほとんどの講師は わが子に殺されそうになった状況を省みて
いたたまれない思いで聞いていただろうと 話しているようです

しかし 私は読み返すうちに 違うことを考えるようになりました
というのは 一般的な解釈では 釈尊がここで三福を話す理由が明確でないように感じるのです

もしかしたら 韋提希は釈尊の話す三福の教えを
目を輝かせて聞いていたのではないかと考えるようになりました

寺でも法話を聞かれた方から こういう感想をよく聞きます
「今日のお話は ほんとうにいい話でした
 家の息子にこそ 聞かせてやりたいものです」

もちろん自分が感動した法を 身近な人にも勧めたいという気持ちもあるでしょうが
自分を棚に上げて 他人を咎めるための道具のように
法話を 聞いているということもあるわけです
私も「この話 オレはいいからあいつに聞かせてやりたいもんだ」
なんて 考えてしまうことがあります

一者孝養父母、奉事師長、慈心不殺、修十善業。
二者受持三帰、具足衆戒、不犯威儀。
三者発菩提心、深信因果、読誦大乗、勧進行者。

韋提希はわが子 アジャセにこそ聞かせてやりたいと思って
釈尊の三福についての話を受け取っていたのではないか

「福」という言葉は 仏教において
「福徳」「福田」のように 称える意味としても使われます
しかし「罪福」「禍福」のように 災いを恐れる心情の裏返しとして
いわゆる不幸を恐れる 人の心の弱さを示す言葉としても使われます

三福は 世間でも仏教においても
これ以上なく 当たり前に善いこととされるような内容です
ですが 災いを逃れる術として行うことに問題はあります
実践しようとしてできなければ 自分を貶めたり 逃避してしまう
逆に 私にはできると誇り 他者を見下すこともある
こうしたニュアンスを込めて「福」という言葉が使われているのではないか

釈尊は 悲劇から逃れたい韋提希の心情を見抜いて
まず三福から話したのではないか

そして続けさま定善について話すことで
「思惟」「正受」を求める韋提希の要求に応じて
さらに本願念仏へと話を展開していく

善導はここはまだ序分であり
正宗分には入っていないと読んでいる ということもありますね

このように 考えをめぐらしています

学ぶほどに 公表できるほど 十分に読み込んでいなかったと 反省しています

2008・12・17

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