第1回 同朋会 第一段 出家学道 

 
 テレビ、ラジオ、新聞から、様々な情報が手軽に入ってくる時代になりました。その中で、若者も年輩の方も、なにを支えに生きていけばよいのか、迷い続けています。あるいは、時の流れにまかせて、ただなんとなく、生きてます。
 
 この度、有志の方々が中心となり、玉永寺同朋会が新たにスタートしました。親鸞聖人のご命日、毎月28日に開催しています。
 
「親鸞聖人伝絵」という、絵巻物を読んで鑑賞しています。神道・神社との関係や、肉食妻帯の問題など、私たちの日頃の生活と仏教の関わりについても書かれており、皆で、いっしょに、話し合っています。
 寺は念仏の道場です。
 どうぞ、ご近所の方、お誘い合わせ、おいでください。

6月28日(金)午後2時より4時まで、第1回目の同朋会を開催しました。
出席者は推進員の方々を中心に11名でした。

配布物

1,御伝鈔と訳文の部分をスキャナーで取り込んで、切り張りしてプリントにしたもの1枚。

2,下のように、御絵伝の解説の部分にカラーの絵巻物をスキャナーではめ込んで、インクジェットプリンターでカラー印刷したもの。
2場面をそれぞれ1枚。
           
3,「玉永寺通信」13号

4,この後、配布物を入れていく、薄いファイラーを1枚

以上のものを、用意して配布しました。特に、2,のカラーの資料は大変好評でした。
見ていて楽しく。これからは、ビジュアルの時代ですね。
時間配分

1,正信偈・同朋奉賛式 導師 副住職

2,開会の挨拶 会長

3,御伝鈔の解説 副住職 ここまで1時間

4,休憩を挟んで

5,座談会 1時間

6,今後の運営について協議


松若丸の牛車が青蓮院の前に到着している

それ、聖人の俗姓は藤原氏、天児屋根尊二十一世の苗裔、大織冠 鎌子内大臣 の玄孫、近衛大将右大臣贈左大臣 従一位内麿公 号後長岡大臣、或号閑院大臣、贈正一位太上大臣房前公孫、大納言式部卿真楯息 六代の後胤、弼宰相有国卿五代の孫、皇太后宮大進有範の子なり。

 しかあれば朝廷に仕えて霜雪をも戴き、射山に趨って、栄花を発くべかりし人なれども、興法の因うちに萌し、利生の縁ほかに催いしによりて、九歳の春の比、阿伯従三位範綱卿 干時、従四位上前若狭守、後白河上皇近臣、聖人養父 前大僧正 慈円、慈鎮和尚是也、法性寺殿御息、月輪殿長兄 の貴房へ相具したてまつりて、鬢髪を剃除したまいき。

範宴少納言の公と号す。

自爾以来、しばしば南岳天台の玄風をとぶらいて、ひろく三観仏乗の理を達し、とこしなえに楞厳横川の余流をたたえて、ふかく四教円融の義に明らかなり。
親鸞聖人の出家以前の名字は藤原氏である 天児屋根尊@から二十一代の子孫 官位の最高職であった 藤原鎌足内大臣の孫の孫で 近衛大将右大臣贈左大臣 従一位藤原内麻呂公(この方は後長岡大臣あるいは閑院大臣という 正一位太上大臣房前公の孫 大納言式部卿真楯公のご子息でもあった)の 六代の子孫 弾正台の参議の藤原有国卿から五代の子孫 天皇の母の給仕をする職、日野有範の子である。

 したがって、冠を戴く髪が霜や雪のようになるまで朝廷に仕えるか あるいは院の御所へと昇進し 栄華を開くはずのお方であったが 仏法を興さんとする志が萌えあがり 衆生を利益せんという仏縁にかきたてられて 九歳の春のころ 叔父の従三位範綱卿(従四位上前若狭守で後白河上皇近臣で聖人の養父)が さきの大僧正慈円(慈鎮和尚というのがこの人である 法性寺殿御子息、月輪殿長兼実公の兄)の御房へお連れ申し上げられて 鬢髪を剃られた。

範宴少納言という公名を称した。

それ以来、じっくりと奈良の諸寺や比叡山を訪れ、高遠な教学を学び、広く仏教学の真髄にまで達し、長らく横川の恵心僧都の法流に親しみ、仏教の教義に深くあかるくなったのである。
天児屋根尊 天照大神の臣下の第一

公名(きみな)叡山の慣例で、度牒をえない寺童に父の官名を付けて呼ぶ仮名。

左で慈円におめどおり、右で剃髪

話し合われたこと

○比叡山などの学問としての仏教が述べられているが、我々が学ぶべきことは、当時の貧しい民衆が、どのような教えの中にいたのか、そのなかで仏教がどのようにいきずいていたのかではないか。そして、親鸞聖人はどういう、課題をもって真宗の教えを開かれたかを、学ぶべきではないのか。

「天児屋根尊」と出てくるが、神道と真宗の関係はどうなるのか。弥陀一仏でなければならないのか。あるいは八百万の神々と争わず、寛容な宗教であればよいのか。

○当時の貴族にしても、世襲によって身分が決まってくる。果たして、寺の世襲とは、それと同じことなのであろうか。
 肉食妻帯と世襲との関連は。あるいは肉食妻帯により、真宗は多くの人々に受け入れられたのか。
 門徒が、おかみそり受けることとの関連は。

○「利生の縁」という言葉に感動した。他の人のために、仏道を志すとは素晴らしいことだ。


私感

様々な意見が活発に話し合われた。
今後も「御伝鈔」を読むことになるが、この聖教が門徒の生活と密接に関わる問題を取り上げていることを、実感させられた。
10人の出席者は座談会にちょうど適した人数であった。
次回は、チラシなどで、参加者を募ることになるが、人数が増えると座談会にならないのではないか。


(余談)
ご自分の生まれを語られなかった、あるいはそうした記録がほとんど残っていない親鸞さん。それを思うと、神代までさかのぼる御伝鈔の視点には、どうも違和感があります。ただ、松野純孝さんは「親鸞ーその行動と思想ー」(評論社)にて、親鸞さんの生誕日が記されていない点に注目して、こんなふうにおっしゃています。
 このように見てくると、『拾遺古徳伝絵詞』は、純然たる伝記集成の形式をとっているのに対し、『報恩講私記』や『親鸞伝絵』ば、そのような伝記の集成でばなく、布教の実戦用としてつくられたことがわかる。そこに、前者が生年月日から筆を起こしているのに対し、後者は俗姓から、いぎなり出家の年次にとび、生年月日をはぷいている理由があるのではなかろうか。

初期の真宗では、親鸞の信仰の確立ということ中軸となっていたのであって、親鸞が何年何月何日何時に生まれたか、というようなことは間題にならなかったのであろう。 さぎに、覚如はおそらく祖母覚信尼から親鸞の生年月日にっいて聞いていたに相違ないのではないか、とした。しかし、このようにたどってくると、あるいは覚如は生年月日について知らされていなかったかもしれないともいえる。それは、初期真宗の人たちの関心は、専ら親鸞の思想信仰に集中しており、親鸞の生年月日については、関心はあまりなかったことにもとづいていたのかもしれないからである.

それに対して、初期真宗の人たちは、親鸞の死没年月日については関心がぎわめて強かつた。彼らは、親鸞の命日にちなんで、毎月念仏の集会をもつた。それは親鸞の冥福を祈るといった、いわゆる今日のような追善供養の念仏ではなかった。親鸞の恩徳にむくいるための報恩の念仏であった。その報恩の念仏とは、ただ恩を謝ずるといった静止的なものではなかつた。それは、親鸞につづいて、親鸞の伝えた念仏を一人でも多くの人たちに伝道し、正信の念仏者とすることであつた。

すなわち、死投年月日にきわめて強い関心をもつたのは、結局、伝道にあつたわけである。つまり、死役年月日は伝道に結びっいていたのであり、きわめてダイナミックな意味をになっていたのである。したがって、覚如が、こうしたダイナミックな伝道用としてつくった『親鸞伝絵』に、死役年月日を詳記したのは当然であろう。初期親鸞伝が、一般の伝記のスタティックなのにたいし、ダイナミックなのはこれによっている。
親鸞さんの叡山時代の学問や生活の様子についても、美文が重ねてあるばかりで、深い記述はありません。「御伝鈔」の意図としては、親鸞さんの生涯について、こうした点について、あまり重きを置いていない、と言えるのではないでしょうか。