第三講(一九九一年九月一三日)

なぜ富山は「正信偈」なのですか
 富山教区で、「正信偈」のお話し合いを一緒にしましょうということになりまして、すでにもう三度そういう機会が与えられました。その三度目を始めていただいて、ちょうど今日で、それのまた三回目になります。先回から特に私は、いわゆる「お正信偈」と私たちがいっております、その「正信偈」の帰命無量寿如来・南無不可思議光という文々句々についてお話をしていくということが、なにか極端にできなくなったというか、親鸞聖人がお書きになっているお言葉の意味はこういうことではないだろうかというようなお話をする気持ちになれないので困っているのです。そんなことが、今回お引き受けした時以来、私の気持ちの中にありますものですから、そういう意味も含めまして、一番最初に等覚寺さんがお宿になってお話をした時でしたか、素朴にいいまして私は、なぜ富山の会は「正信偈」なのですかという問いを出したわけなのです。
 具体的には、三度機会を与えられたといいましたけれども、二〇年前にお邪魔しました時にも「正信偈」でした。その時には石川正生さんが、かなりキチッとプランを組んでおられまして。そのプランにこちらが乗っていかざるを得なくなって、いわゆる依経分・依釈分という分け方で申しますと、依経分が終わったところで事が切れてしまったわけです。その次にまた会が開かれるようになりまして、また「正信偈」だったのです。その時は、いろいろな事を思いながらもなんとか「正信偈」の本文に入ってお話をしていこうと思っていたのです。ところがこの三回目に入りましてから、どうしてもそういう気持ちになれない、もうひとつなりきれないのです。
 特に富山という、昔の言葉で申しますと越中の国でですね、そこで「正信偈」の話をするという気になりきれるようになるには、かなり私の中で事柄を確かめる時をいただかないとできないという感じがしてならないのです。それで最初に、なぜ富山は「正信偈」なのですかというお尋ねをした。その時確か、すぐにお答えをいただく必要はないけれど、考えていただく必要はあるのではないでしょうかといいました。日本の中で、特に越中のご門徒、越中の真宗門徒において、なぜ「正信偈」なのかというのは、いろいろな意味でかなり重い問題を抱えているように思えてならないのです。
 いやそんなこと考えたこともない。とにかく常日頃、「正信偈」で生活しているといってもいいような、そういう土壌で育ってきた我々が、中に何が書いてあるのかということもわからずに、ただ「お正信偈」をあげるというのでは、いかにもお粗末でありすぎるから、「正信偈」の内容について、今日の我々には、どういただいていったらいいのかということを話してもらえば結構なのだということであるのかもしれません。意識の表面ではそういう事なのかもしれません。
 しかし越中の国の、真宗のご門徒であるみなさんから、時が移り変わっても「正信偈」の講義をという要請がでてくる。その要請の根っこが何であるかというのは、いま私が申しましたほど単純ではないように思えるのです。
 私にとりましても、なぜ「正信偈」なのかという問いは、問えば問うほどそう単純ではないのです。その問いについて私の中に一つの方向が見えてこないと、たとえ帰命無量寿如来・南無不可思議光という言葉から始まる偈文についての解釈ができたとしましても、それは私自身にとって納得のいくものにならないような気がしているのです。
 確かに一回目の時は、私もそれほど突っ込んでものを考えておったわけではありません。ある感覚的なものの中から、なぜという問いを立てていたのです。幸い石川君と鈴木君が私の話をメモしてプリントにしてくださっておりますのでそれを見ますと、一番最初に一九八七年の一二月三日に勝蓮寺さんでの話の概要が一番最初に載っているのですが、その時の感覚と、今度のものとでは、話している事柄についてはそれほど違っていないのですが、自分で読んでみると、感覚的にずいぶん違うなという感じがするのです。勝蓮寺さんの時は、これから「正信念仏偈」を話すという心の準備をお互いにいたしましょう、という感覚がかなり強かったのです。ところが今度の場合は反対であって、「正信偈」の話が今の状態のままではすぐにできないので、できるような確かめというものをしないと、いくら要請があってもできないという感じで話をしているわけです。だからその辺のところをご一緒にお考えいただけるかどうかということが、今日おじゃましている私の一つの大きな問題なのです。
 そこにはいろいろな事が考えさせられます。具体的には今日の真宗寺院の中で重要な要素となっている事柄が、はたして親鸞聖人が真宗とおっしゃった仏教の表現であるのかどうかという問題もありましょうし、もっと一般化して仏教の表現であるのかどうかという問題も、問題として立てて決して愚問ではないと思うのです。
 そんなことまで考えてきたとき、なぜ富山では「正信偈」なのかという問いは、私にはかなり問い詰めていかないと、いわゆる聖典の講話というようなことには、取り掛かれそうもないという気がしております。
 どこの会でもそうなのですが、いっぺん確かめをしないとおれないことになっておりまして、名古屋でもしばらくやめておって、最近また復活した会がありますが、その会もやっぱり同じ聖典を読んでいくことにしているのです。ただ「正信偈」ではなくて『選択本願念仏集』なのですが、やっぱりその場合にも、二度目を始めますときに、今私が申しているような確かめをしましたけれども、それともずいぶん違うのです。『選択集』をなぜ読むのかということと、「正信偈」をなぜ学習するのかということでは、同じなぜでもなぜの内容がずいぶん違うのです。
 簡単に申しますと、『選択集』は私たちの浄土真宗という宗派においては七祖のお聖教であり、特に親鸞聖人のお師匠様である法然上人のお聖教であります。けれども、いわゆる真宗という宗派の中で、宗派内の生活の中には『選択集』は日常化されていない聖典ですよね。
 ところが「正信偈」は日常化されておるどころのさわぎではない。表現がいいのか悪いのかわかりませんけれども、真宗の家庭の精神的支柱をそこに求めるかのごとくにして、「正信偈」というものが生きているという事実がありますね。そういう意味では名古屋の会を再開した場合に、なぜ『選択集』かということを確認して始めようとすると、案外確認が早くできるのです。ところがなぜ「正信偈」かと尋ね出すと、これはいよいよ問題がこちら側に出てくるばかりであって、確認できるというわけにはいかないということがずいぶん多いのです。
 しかも正直に申しますと、私が疑問に思っているというか、課題にしていることが、ものすごく話しにくいのです。しかしそれを課題にしないと、越中の国の真宗のご門徒の学習会は、なぜ「正信偈」なのかという問いの意味が明瞭にならないのです。
 これからもこういうような問題の立て方が続くのではないかと思います。時によりますと現実の生活、あるいはその現実の生活を成立せしめてきた歴史、よい言葉でいうと伝統、悪い言葉でいうと因習。そういうものを問い返していくということを抜きにして「正信偈」は話ができないのではないかという気がするのです。だからそのあたりのところで、現実生活と接近してくるところが出てくるかもしれません。
 そういうかなり現実味をおびた問題ですね。しかもその現実は民主主義という。長い日本の歴史の中で一度も、そういう民主主義というものの考え方のもとで生活するという経験を持ったことのない日本人が、たまたまそういうものを与えられて、混乱した民主主義の上で四〇何年か生きてきたというようなことのなかで、なぜ「正信偈」かと尋ねるのではないのです。
 そうではなくて、やはり北陸真宗王国、越中の国において、「正信偈」ということがどういう役割を果たしてきたのだろうかということを問いながら尋ねていこうといたしますと、どうしても現実問題にぶつからざるを得ない。そしてその問題は、現実の真宗学徒であるその生活の在り方を変えても、それを変えたくらいではすまされないほど根の深い問題があるのかもわからないということが念頭に出てくるわけです。

蓮如上人と「正信偈」
 その時ひとつ、非常に気になることがあるのです。それは蓮如上人なのです。
 いわゆる私たちの生活、日常の日暮らしの中に、「正信偈」と『三帖和讃』、これを文明年間に開版された。それまでは『往生礼讃偈』を読んだり、時によると好みによって違うものを読んだりしていた状態を改めて、真宗の寺院ならびに門徒であるならば、「正信偈」と和讃の読誦ということをもって生活していくという一つの方向づけをしたのは、ご承知のように蓮如上人ですね。
 ところが、いわゆる文明開版といわれております、文明年間に蓮如上人のお声掛かりで開版された、「正信偈」と念仏と三帖のご和讃ですね。その三帖のご和讃の中身が、高田専修寺に所蔵されている、親鸞聖人の真筆もしくは真筆にちかい、親鸞聖人の直弟子が書写した草稿本・初校本といわれておりますご和讃と比べてみますとかなり違うのです。
 もっとも蓮如上人の開版なさった文明本のご和讃の、その元本がどういう形であったかということになると、これもそう簡単にわからないのですから、あまりはっきりしていないといった方が正しいのかもしれません。
 ただその違いですね。私たちがいま読誦している蓮如上人の文明本のご和讃と、そして親鸞聖人の真筆、もしくは真筆に近いご和讃との違いを埋めるのは何で埋めたらよいのか。なぜ違うのか。違うものを親鸞聖人がお書きになっていて、それを蓮如上人が取り入れられたというふうに了解しきってよいのかということですね。
 なぜこの和讃の左ガナが、こんな左ガナに変わっているのか。文明本にも左ガナが付いておりますが、その左ガナは親鸞聖人の真筆、もしくは真筆にちかい初本と比べてみますとずいぶん違うのです。時によると文明本の方が詳しいときがありましたり、時によるとこれは親鸞聖人がずいぶん特異なご解釈をなさったのだなあと思うような左ガナが、ズバッと抜けているところもある。
 どうしてこのようになってしまったのだろうか。蓮如上人が、ある意味では真宗のご門徒の生活規範、別の言葉でいうと精神的支柱の基礎にしていくような役割を、日常生活の中で具体化していくであろう事を予測して開版した文明本の和讃がなぜこんなに違うのだろうか。もちろん、そんなに多く違うというわけではありませんけれども、かなり私にとっては大事だと思われる言葉が違うというのはなぜなのだろうか。これは蓮如上人がなさったのだろうか。それともそういうものがすでに先にあったのだろうか。
 そして、蓮如上人が「正信偈」と、いまの文明開版の和讃との二つをセットにして、当然、「正信偈」は、それの成立の考証をしていく研究からいうと、「正信偈」というのはもともとあったので、それを『教行信証』の中に組み込んだか、組み込まなかったか、というような議論はあります。しかし我々は『教行信証』の行巻の最後に、「正信念仏偈」として置かれている「正信念仏偈」以外は見ていないのですから。やはり「正信念仏偈」という偈文は、「顕浄土真実行文類」の一番最後に位置づけられている。
 とすると、その「正信念仏偈」を独立させて、「正信偈」という名称で呼んで、そして文明開版といわれている三帖の和讃との二つをセットにして。それを読誦していく生活、それが真宗門徒の日暮らしであるというふうに、真宗のご門徒の生活の支柱をそこに位置づけていかれた。
 その時、蓮如上人のお気持ちの中にあったものは何だったのだろうか、というところまで考えていきますと、この二つの果たした役割は、ここまで話しただけで、かなり大きな役割を果たしてきたということはおわかりいただけると思います。

「お正信偈」で育てられるとは
 ひとつ思い出すことがあるのですが、私、大谷大学で六年間学長職に就いておりました。
 現在も、大学の危機・経済危機といわれている状況ですけれども、あのころも、今日の経済危機を見越して、私立大学、それ自体が足腰を鍛えなければならない時だったのです。そのために大谷大学も総合整備計画というものをつくりまして、何年かのプランをたてまして校舎などの建て直しをやっていたのです。
 私は、大谷大学の歴代の学長の中で、年齢が三番目に若いのです。五五歳でしたから。そんなことで、初代学長清沢満之先生、三代目学長佐々木月樵先生についで若い学長ということで三学長といわれたんです。それは、あくまでも年が若いという意味の三学長なのですが。ともかく、あのときになぜ私を学長に引っ張り出したのだろうということを、辞めてからとくと考えてみたら、ああいう荒っぽい仕事をしなければならない時には、いままでのように、曽我先生のように八〇何歳になられた先生では、どれ程優れたお徳の高い先生であっても、できない仕事なのですね。
 余談になって申しわけ無いのですけれども、私があの時の学長で何をやったかといいましたら、建築をやったのですよ。だから四六時中、建物をたてることばかりを考えていました。そういう仕事をさせるために五五歳の私を学長に引きずり出したのだなと。そればかりとはいえないかもしれませんが、まあ当たらずとも遠からずといったところでしょうか。
 そんな時代だったものですから、あのころは各大学共に学長が若かったのです。大きい小さいは別にして、各大学押しなべて同じくらいの年齢の学長がそろっていたのです。だから押しなべて同じような苦労をしていたという事なのです。
 それで、そういう大学の学長の集まりがありまして、その集まりの中で、それぞれテーマを持って報告するということがありました。その時たまたま私にあたえられたテーマが。
 いまは普通の大学は四年制です。その初めの二年間が教養学科で、後の二年間が専門学科ですよね。その教養学科というのは一体何なのか、あるべき姿は何かということを話せということになりまして、ずいぶん苦労して報告したのです。
 今は大分考え方が違いますけれども、その時は、それぞれの学校に、それぞれの建学の理念があり、人間をつくっていこうとする時の理想があるだろう。だからその理想を実現できるような工夫をしていくのが教養学科の仕事ではないだろうか。一般的にあれも知っておいたほうがいい、これも知っておいたほうがいいという形で、物理も科学も数学も何もかも少しずつ知っておいて、ということは必要ないと思う。ところが現在の教養学科というはだいたいそれ式になっている。だからほとんど意味のないことを二年間やっている。そして本当にやらなくてはならないことは、たった二年間でやれるはずがないではありませんか、という話をしたのです。
 その時に、そういう意味では大谷大学は親鸞の精神に立っているというのが、やはり大学の理念なのであって、だから親鸞が願っていたような社会と、親鸞が願っていたような人間を創造していく方向性を二年の間にキチッとしておくということが、大谷大学に教養学科がある本質的な意義であるというふうに、特殊な例になるかもわかりませんが報告いたしますといったらもう皆から総スカンを喰いましてね。
 だいたい特定の宗教ということを、戦後の公教育の中では位置づけしてはいけないといわれている。大学の母体が、宗教集団であることはやむを得ないとしても、学科の中に宗教というような事柄が入ってくるということは、すでに民主主義教育の中の一つの大きな確かめを見落としているという批判。
 もう一つは、日本の宗教といった時に、本当に数えきれない程の宗教がある。そんな宗教を各大学が取り入れていったらどうなるか、どんな人間ができてくるかというようなことも少しもあなたはわかっていない。あなたは宗教に関係している人間かもしれないけれども、日本の宗教現状も知らないし、日本の民主主義教育もご存じない。それが親鸞についてというようなことを大学でやろうと考えること自体、もうこれは時代錯誤もはなはだしいと。もう、こっぴどく各大学の学長先生におしかりを受けたんですよ。
 さすがにシュンとしてしまいましてね。お昼が出ましたけれども、ご飯を食べる元気がないのです。そしたら、あんまりしょんぼりしているから同情して下さったのでしょう。ある大きな大学の総長さんが、横へスッと寄ってこられまして「先生のいうことは、私は何かわかるような気がしますよ。私もお正信偈で育てられた人間の一人ですからね。」といわれたのです。
 その時私は、ものすごく感動しました。普通ああいうインテリの人たちは、いくらそれで育てられたといいましても、「お」の字はつけませんよ。「正信偈」といいますよ。「お正信偈」というのは生活用語でしょう。真宗の家庭の中で古くから培われてきた、生活用語となっている「正信偈」の呼び名ですよね。それが学長会議の中で、ある一流私学の総長さんが私も「お正信偈」で育てられた人間ですから、あなたのいうことはわからないことはありませんといってくれた時、何か非常に感動したのです。それほど人間を育てるのが「正信偈」なのか。本当に土壌にまでなっていくような「お正信偈」の伝統というものが、真宗を伝達してきたのかなと。その時は本当に感動しました。
 ところが、その感動が最近少し、果たしてそういう感動ですべてを尽くしていけるものだろうかと。「正信偈」で育てられたということは、どういう人間に育てられてきたことなのかということが、はっきりしなくなったのです。
 もっと広げて申しますと、わざわざ越中の国といういい方をしますのは、いろいろな意味で非常に土徳化していくような。「正信偈」に代表される、そういう真宗念仏の生活化ということが、伝統的に培われてきたこの土地柄の中で。「正信偈」が実際の具体的な現実として、どういう人間を生み出し、さらにはどういう人間の社会を生み出し、さらにはそこに生み出されてきた人間と社会とが、本当に人間を創造してきたと市民権を持つ発言としていい切れるかどうか。もっと具体的にいうと、親鸞聖人の願った人間と人間社会を創造することとなったのかどうか、というようなことが気掛かりになってきたのです。

蓮如・一向一揆
 私が蓮如上人ということを申しましたのは、あまり蓮如上人のお書き物をキチッと読んだことがないので、教学的な話はできませんけれども、何か感覚的に違う。親鸞聖人の教え、親鸞聖人のうなずいた仏教をたずねていこうとすると、蓮如上人は親鸞聖人に近づこうとなさったように見えるけれども、何か違う要素が多く作用しているような気がしましてね。
 そんな中で「正信偈」と和讃とを、今まで申しましたような形で位置づけたということは、いわゆる教団組織の強化。それは外側からの強化以上に大きな強化作用をしてきたことは明らかだという気がするのです。
 そういう意味では、私に見えて参ります事柄は、蓮如上人は精神的支柱というよりも生活規範をそこで決められたのではないだろうかということです。一つの組織教団というものの統一性というものをキチッと理の通ったところで、理の通ったというのは、親鸞聖人のお言葉で、組織教団の統一ということの筋を通していこうとした。そしてそうすることによって、それが持続化していける十分な要素を見ておいでになったのではないかという気がするのです。
 そういう要素があるといたしますと、私の気になり出しましたことは、蓮如上人のご時代に一向一揆というのがございますね。あの一向一揆が気になりだしたんです。
 ある先生は、「一向一揆というあの戦いをしていくエネルギーをもっていたのが浄土真宗であって、あの歴史状況から枯れずにあったエネルギー源が噴出するようにして一向一揆が始まったのだ。だから一向一揆は信心の発露であり表現である。」というのが一向一揆に対する評価のようであるが、それはとんでもない間違いではないか、ということをはっきり文章にしておられますね。
 「あれは蓮如の考えだ。ひとつの本願寺教団確立のための非常に巧みな政策なんだ。だから教団組織を護持していくために信仰というものを見事に利用したんだ。」という評価も最近出てきています。
 はっきり申しまして、どちらがいいかということは私にはわかりません。どちらの意見についても、何かストレートにそうだとはいい切れないですよ。
 ついでにちょっと申しますと、日本の仏教が諸宗に別れますけれども、その諸宗で、その宗の中で一揆というものをおこしているのは、真宗以外、いわゆる一向宗以外で申しますと日蓮宗に少しあるだけであって、真言一揆とか天台一揆とか、あるいは禅一揆とか、そんなのありませんよ。だけど一向一揆だけあるのですよ。これはどういうことでしょうか。
 そしてその一向一揆が、本願寺教団確立のために利用されたという、負の部分というのですか、そういうことはあるのでしょう。
 特に蓮如上人のご先代までは、『実悟旧記』等に出ておりますように、本願寺というご本山は、わびわびとして蜘蛛の巣がかかり、お参りをする人もいなかった。そんななかで部屋住の蓮如上人はおむつの洗濯までしていたとか。あるいは灯明の油が買えなくて、暖をとるための炭火でお聖教を読んだとか。いくつかの逸話が残っておりますが、事実だったようです。
 ところがそれでは真宗の諸教団全部が、つまり、親鸞聖人の流れを汲む仏教は全部そうだったかというと、そうではないのです。弟子教団、いわゆる血統教団ではない弟子教団は隆盛を極めていた。例えば渋谷の仏光寺派は、そのころ強大な力をもっていましたし、高田専修寺もやはり大きな力をもっていました。弟子教団は盛んであったけれども、覚如上人を先頭にできあがった血統教団が、どうしてそんなみすぼらしい状態で、喰うや喰わずの生活を、法主がしなければならなかったのか。
 これはやはり「正信偈」と和讃を、ひとつの規範にしていこうと考えることと、全く無関係に位置づけることはできないような気がするのです。

法に依りて人に依らざるべし
 やはり私は、血統と法脈とがひとつであるということは、仏教の本来の筋からいって、通らない筋だと思うのですよ。
 特にそういう意味では、親鸞聖人が『教行信証』の「方便化身土巻」の中で、
法に依りて人に依らざるべし、義に依りて語に依らざるべし、智に依りて識に依らざるべし、了義経に依りて不了義に依らざるべし
という「四依」という事柄を、いわゆる四依という事柄として表現しないで、『智度論』にこういう四依についての解釈があります、という文章で引いてきていますね。
 あそこの引き方での大きな特徴は、釈尊がご入滅になろうとする時、諸々の比丘に遺言をした。その遺言が四依だ。ということをキチッと言葉にしているわけですね。
とすると、親鸞聖人がそういう引き方をなさったということは、仏陀釈尊の遺教を、ひとつのことに集約してみると、法に依って人に依るな、これが釈尊の遺教である。だから人に依って法に依らないのは、これは仏教ではない。これは外道です。だから仏教が自分の滅後、弟子と名乗る人々によって伝達されるならば、それはまず第一に法に依って人に依らないという仏教でなくてはならない、ということが示されているわけですね。
 それはまた、そのままそっくり今度は親鸞聖人自身がいい残していく言葉でもあったのでしょう。弟子の唯円房が「親鸞は弟子一人も持たず候」と親鸞聖人はおっしゃったといってますから。すると親鸞聖人が弟子一人も持たないといったということは、もし師として親鸞聖人を祭り上げていくならば、祭り上げることによって真宗は外道に転落する、あるいは真宗の質を放棄することになる、ということを親鸞聖人は繰り返し語ったということでしょう。 
 そのときにひとつ問題があると思いますのは、それを繰り返しいわなければならないというのは、それほど法に依らないで人に依る人が多かったという現実があるからですよ。だからわたしは、法に依って人に依らざれという言葉を単純に使う気になれません。人に依らずにおれないほどの人に出会わない人にいくらいったってその言葉は架空の言葉ですよ。
 もう叩かれても殺されても人に依らずにおれないというような、そういう人にこの世で会うたという。そういう深い、全身が凝集していくような事に会わない人に、法に依って人に依らざれなんて言葉はいくらいっても、あってもなくてもいい言葉になるのではないですか。
 あってもいいとするならば、それは道理というだけの話ではないですか。戦いがないんですよ。そこに。いわゆる法も大事だけれども、その法を教えて下さった、この人に会うたということの方が自分には忘れ難い。それを忘れたならば、それこそ謗法の徒になるという実感を持っておる人に、法に依って人に依らざれという言葉が遺教になるのでしょう。
 この辺は大変な問題だと思うのです。だから人にいっぺんも会ったことのない人に語ったら、その言葉は理として当然だけれども、活きた言葉にならない。かといって人に執着し尽くしている人にとっては、その言葉は作用しない。そのぎりぎりのところに、法に依って人に依らざれという言葉に集約されている、仏教の現実的な課題があると思うのです。
 そういう意味では、そのへんのところが蓮如上人の場合には、どうなっているのかということもひとつの問題なのです。善知識ということですけれども。

一向一揆について
 ただそういうことを思います時、一向一揆ということをいいましたが、確かに一向一揆は、先程、私が紹介しました言葉のように、単なる本願寺教団の拡張と正当性を主張することを具体的にした一つの政治運動であり、しかも応仁の乱というような大乱の中で行われたわけですから、信仰の吐露だという考え方は、これはもってのほかだということも、一面いえるのではないかとも思います。しかし、それだけでことはすむのかと問い直しますと、ふっと考えさせられます。
 確かに、退けば地獄、進めば極楽というような言葉がいつの頃からかいわれるようになったようですが、その人々を戦場に駆り立てていったという事実がありますし。そして、そこで戦った人の多くは農民であった。しかもその農民は、かつての荘園農民といわれる、大きなお寺や貴族が所有していた土地の農民ではなくて、もっと違う形の、ある意味では自立集団とでもいえないわけじゃない、そういう農民集団であったともいわれております。
 そして天下とりを狙う、いわゆる戦国大名というような武士ではなくて、逆にそういう強大な武将の前には蹴散らされてしまうような、そういう武士階級がバックアップしていく。あるいはそういう武士階級を内に入れることによって、組織を強化していくという形をとったのが一向一揆の内容になっていく。
 だから一向一揆というのは、決して一面でいわれますような、お百姓たちが信心の証としておこしたというよりも、頼山陽が「抜きがたし南無六字の城」といったように、織田信長に一〇年攻められて、とうとう落ちなかったという石山本願寺は、やっぱりあれはお城ですよね。最も強い武将といわれた織田信長が、ついに滅ぼすことができなかったというのですから。
 そんな中で、職業軍人である織田勢の前に立ちはだかって一〇年戦えるような、そんな力をなぜ本願寺教団が持っていたのかという問いがときどき出ます。でも、やっぱりこれも、歴史に対する見誤りがありまして、たしかに織田信長の周辺にいた武士たちは、一騎当千のつわものだったに違いありません。しかしその一騎当千のつわものだけで戦争したのではないでしょう。攻めていっては、そこで百姓をしている農民たちを全部包み込んで、それで大軍にして攻めたのでしょう。 
 ところが実は石山本願寺の方が、むしろ戦術家も多くいまして。代表的な例を出しますと雑賀衆ですね。鉄砲鍛冶を専門にして、鉄砲の技術においては当時日本随一といわれた軍団が控えておったのが本願寺ですよね。ですから現実的には、織田勢と対等に渡り合って攻めきれないというのも、そう不思議な話ではないのです。
 そういうようなことを考えていったとき、この越中の国の一向一揆というのも、ずいぶん力のあった一揆だったわけですよね。たしかに富樫政親を滅ぼして、そして百姓の持ちたる国といわれるような、いわゆる大名所有の国ではない、そういう国を百年保持した加賀の一揆というのがあります。しかしある意味で一番強い反権力闘争をした一揆は、越中一揆であったのではないかといわれておりますね。そうすると、私はそのへんで気になるのは、そういう一向一揆の力というものが、本当に浄土真宗の信心の中に本来あるエネルギーなのか。それともなにかの形で、それをエネルギー源として位置づけさせられたのか。どちらなのだろうかということが気になるんです。
 ある先生は、極端なことをいうておられます。「もし一向一揆を信心の証であるといい切るならば、それは靖国神社を認めるのと同じことだ。聖戦という名の戦いで人を殺した殺人者が祭られているのが靖国神社だ。もし一向一揆が信心の証だとするならば、それは人を殺すことが信心の証という勲章になっていくんだから、その論理は同じではないか。」ここまでいう人がいます。私はその説を全面的に賛成しているわけではなくて、ただ紹介しているだけなんですけれども、 そうなってきますと、特に一向一揆の中でも非常に強い力を持っていたのが、越中一揆であったといわれてることは、ずいぶん大事なこととして考えなくてはならないのではないかと、私は思うのです。
 だれが指揮したか、だれがそういうふうな戦う理論を、真宗のご門徒の中に持ち込んだかというようなことを、私は今問題にしようと思いません。
 そうではなくて、そういう一向一揆がキチッと信心の証といえるかいえないかということを、私は先ず問うてみなくてはいけないのではないかと思っているのです。
 そういう論理でいうならば一番近い戦争でも、真宗の証は尽忠報国だということがありましたね。また戦争に反対するのも信仰の証だとすると、一体これはどういうことになるのでしょうか。
 もっとズバッというと、人を殺すのが信心の証だと、こういい切れるのか。人を殺すことに対して抵抗するのが、信心の証だというほうが正当なのかと。
 そこまできますと事態は、一向一揆の時代の問題ではなくて、今日の我々の出処進退を決めていくところまで、問題は推し進められてくると思うのです。
 そのとき、「お正信偈」で育てられたという、真宗の宗風・伝統というものが作用した作用というものは、よほど丁寧に確かめていきませんととんでもない結論に到達してしまうような気がするのです。

真宗と越中米騒動
 しかし、もう一面あるんですがね。それは大正七年の八月ですか。一九一八年、米騒動というのか起こりますね。米騒動を日本で最初にやったのはご承知のように魚津の漁師のおかみさんたちが中心になったのです。
 絶対君主制である天皇制のもとにあって、反権力闘争というふうに位置づけていい米騒動・米よこせ運動をやった。それをやったのが越中の人、しかも大部分は真宗のご門徒ですよ。それは「正信偈」で育てられた人たちですよ。
 それは、あの長い徳川幕藩体制の中で東西分派までさせられて、もう完全に骨抜きになったはずの真宗のご門徒が、大正七年の米騒動の先頭に立った。それは、その人たちが勝手にやったのであって、真宗とは何も関係ないんだとはいえませんよ。やはり、「お正信偈」に育てられた真宗人として米騒動をやったという点に目を注いでみます時、事を確かめていかなければならない問題が残るのではないでしょうか。
 しかもこの米よこせ運動というのは、越中で一番大きく事が始まったといわれておりますけれども、日本全国へ大変な勢いで広がっていって、ことによったら当時の政府が、転覆させられるような力にまでなりかかった。その中でずいぶん多くの被差別民衆が力を出したのです。
 そして京都の方で申しますと、捕まって厳しい処罰を受けたのは、ほとんど全部といっていい程、被差別民衆の人たちだったのです。そして、それはまた全部真宗のご門徒です。「お正信偈」で育てられてきた人たちです。
 そうすると差別する側、差別される側を越えて、米よこせ運動という闘争に立ち上がった。そしてそれが真宗のご門徒だったということは、偶然なんでしょうか。私はこれは偶然とは思えないのです。
 ほかの人も米がなくて困っていた。米がなくては食えないのですから。食えなければ子供が飢え死にしていくんですから。そういう状態の時に、子供を飢え死にさせられないといえる人たちが人間なのです。本当は。それをいい切れないのが、人間を疎外された状況というのではないのですか。

一向一揆起源説
 そんなふうに見てきますとね、「正信偈以前」という題をつけましたけども、どうしても私は「正信偈」の講義ができなくなってくるのです。やっぱり「お正信偈」によって育てられた一人の人間、そしてもっと広くいうと集団としての人々。それが社会構成の中で差別・被差別というような状況をうむ大きな役割を果たしている部分がひとつあるわけです。
 それは、被差別部落の起源説というのが、いろいろありますよね。中には民族が違うんだという考え方もあったり、職業の差別だとかいろいろありますけれども。一向一揆起源説というのがあるんです。そしてこれは歴史の先生方は、決して正当には認めておりません。なぜ認めてないか。その理由は非常にはっきりしているんです。それは資料がないということです。
 しかし、私などから見ますと、資料がいつまでも保存されているような歴史というものは、これは体制の歴史に決まっていますよ。体制が困るような資料をいつまでも残しておくということはありませんよ。
 とすると資料が残っていないから、一向一揆起源説というのは根拠として非常に希薄だ、だから成立しないという考え方があるのです。しかし、一方では資料のあるなしにかかわらず、やはり一向一揆が、戦国武将を次々と恐怖のどん底に追い込んだというその事実。これはどうしてもその力を封じ込まない限り、それ以降の日本の国はどうなっていくかわからないという反権力性というものが、ずっと温存されていくということになるわけですね。
 ご承知のように、あの徳川家康が天下を取りまして、そして士・農・工・商・穢多・非人という、あのインドのカースト制と中国の良賤制とを見事に組み合わせた社会制度を考えついた。どうしてうまく両方を組み合わせて思想として考えただけでなく、どうして見事に組み合わせて社会制度を作ったのかということが、わたしには不思議に思えるし、やっぱりわからないですね。見事に作ったものですよ。ある専門の先生に、だれがそんなこと考えたんですか、と尋ねたら、新井白石あたりじゃないかなあといっておられましたけれども。どうもそのへんの返事では満足できません。
 とにかく一向一揆には、各大名みんな痛い目にあっているのです。天下を取ろうという野望を持った大名は、全部一向宗の敵にまわされて、本当に全部痛い目にあってますよ。富樫政親ばかりに目がいきますけど、前田侯もずいぶんひどい目にあっているのです。仙台の伊達家もそうですよね。だから被差別部落の研究の中で、東北地方の被差別部落というのは非常にわかりにくいのです。わかりにくいような形で、力が復活してこないように仕組まれているのですね。
 ですから各大名みんな痛い目にあってきて、みんなそのまま住まれたら、天下取りできなかったはずです。その一番大きかったのが、織田信長の石山合戦でしょう。どうしても攻め落とせなかったんです。だからいったん和睦を申しこんで、そして騙し討ちにしたのです。
 ところが、なぜ徳川幕府が幕藩体制をひこうとした時に、浄土真宗に非常に関心をよせたのか。ちかいところでは織田・豊臣というような、自分の先輩に当たる連中が手を焼き抜いたということもありますが、直接的には三河一揆で攻めまくられて、家康の首根っ子のところまで矢が飛んできて、もう完全に敗北を覚悟したという記録さえあるそうです。
 そういう自分の体験と、そして自分の先輩のなめてきた苦い体験を踏まえた時、天下統一のために何が必要かといったら、一向宗・浄土真宗を一揆をおこさないような状態におくということです。
 しかも鎖国という制度をとりました。ご承知のように、島原の乱をもって鎖国令が敷かれるわけですが。結局外国を見ない日本を、そこでつくろうとするわけですよね。とすると日本人は、日本だけしか見ない日本人になるわけです。
 いくら人口が今より少ないといっても、自給自足をしていかなくてはならない。そうすると日本は農業国ですから、農民に働いてもらわなければならない。そして戦争がおこらない限りにおいて、無用の長物であるのは何かといったら侍ですよ。だから士というのが、一番上におかれるわけですよね。そして二番目になぜ農民がおかれるのかというと、大事だからですよ。農民が働いてくれなければ、日本の国を潰してしまうのですから。
 そして士・農・工・商の工・商というのは、農ほど積極性を持ちません。今日の、ややこしいことをやっているあの大企業と違って、手内職みたいなもんですから。そうするとその工・商を農の下において、そして農を士の次において、その農にノルマをかけて、むちゃくちゃに働かそうとした時に必要なのは、なにかといったら、プライドだけですよ。その時、その必要に応じてつくられたのが穢多・非人でしょう。単純に申しますとね。
 しかも巧みなことには、穢多は永代穢多。非人は一代限りでありうるという制度です。だから穢多から見ると、非人は穢多の下にあるのです。だけども穢多は永代穢多ですから、その子供もそのまた子供も永代穢多なんです。非人は穢多の下に最下層に位置づけられておるけれども、何かいい事をした、何かお国のためになることをしたということになると、穢多を飛び超えて上のところへ上がることができるという、ちゃんと筋書きができているのです。
 この巧みさは、インドのカースト制なんてものではありません。巧みで、単純で、明快で、そして人間の心をキチッと捕まえていく制度です。
 鎖国で、外国を見なくて、日本だけが唯一天下であるという意識を持った日本人をつくっていって、その中で食べていける国を保持していこうとすると、穢多・非人はどうしても必要なことになるんです。その時、誰を穢多・非人にしたらいいのですか。
 わたしは、正直に申しますと、職業差別とか、あるいは民族差別とかいう起源説はとりません。私は案外、一向一揆起源説というのは、大きな意味を持っているのではないかという気がします。
 その時にやりましたふたつの方法。ひとつはご承知のように東西分派です。確かに今東西本願寺といわれております本派本願寺の土地は、豊臣によって与えられた。そして今の東本願寺・大谷派本願寺の土地は、徳川家康によって与えられると。与えられたのではなくて、ひとつにしておいたら危ないから、二つに割ったわけでしょう。そして割っておいて、そのような状況の中で天文一八年(一五四九)に証如上人が、権僧正になっているのです。
 その当時、権僧正というのはすごく高い位ですよ。その位をもらって、やがて本願時は勅願寺になりますね。勅願寺というのは本来は貴族出身のものが出家をした寺をいうのが素朴な定義づけです。こうなると親鸞聖人が決別した所の奥の院にまた入ったことになります。いうなれば本願寺を貴族化していく政策を、一方ではどんどん取っていくのです。しかも東西分派させてその間の競争をあおっていくわけです。しかし、やたらに貴族化させますとこれは他の仏教諸宗派から怒られるに決まっています。それでも、勅願寺にする理由があるのです。それが寺請制度、寺檀関係です。その時穢多を全部門徒にしていく制度をとったわけです。その時どういう人々が穢多衆になったかというと、そこまで考えると私はどうしても一向一揆起源説というのは全くの無根拠とはいえなくなるのです。一揆をいつ起こすかわからない一向宗の力を完全にそいで貴族仏教へ位置づけていく。その貴族仏教に位置づける大きな功労は、労働力である農民を働かす最も現実的な作用をする穢多を精神的に統治していく。門徒として押さえていく。この両面が徳川の真宗にかかわっての宗教政策であり、それが同時に徳川二五 〇年を持ちこたえさせてきたものだという気がするのです。
 そうすると、「正信偈」でお育てをこうむったということの持っている意味をどう私の中でうなずくかということが、「正信偈」をどう読むかということにかかわっていくし、親鸞聖人においてはそういうことのために書かれたのではないということは明らかです。とすると、「正信偈」を読める自分になるためには「正信偈」以前のところをどこまで押さえていけばよいのか。こうした問題を、一番最初はオリエンテーションのつもりで話をしましたけれども、最近では段々わからなくなってきまして、今日お話ししたのも、わかって話をしているのではないのです。こうしたことが幾つか出てきてわからなくなってきました、特にその時、越中の国の真宗のご門徒が「正信偈」で育てられたということはどういう意味を持つのだろうか。何とか私のうえに見えるようにならないと、「正信偈」のお話をすることができないという状況の下に今でもいるわけです。一回目の話の補足という意味ではございません。一回目の話以上に私の中に起こってきた問題をお話ししたわけです。

「正信偈」の作用
 しかしこれも決して資料を押さえたうえでの、間違いのない話をしているわけではありません。むしろ、感覚的なものが八割だか強いことですから、お聞きくださっておられる皆様の方で訂正をしてくださるなり、あるいは確認をしてくださればありがたい。文字どおり問題を提起させていただく以上には出ませんので、そのおつもりでお聞きをいただきたいと思います。
 いくつかの問題提起をして確認しなくてはいけないことが、ずいぶんそのまま放置にされて、ときには無批判に美徳とされていたり、反対にそれにたいする社会情勢の動きの中で悪と位置づけられたり、その正当な、うなずきがされないまま、右か左かに決着付けをしていこうという考え方が私には感じられてならないのです。そうしたことのなかで、いくつか確かめなくてはならない問題があるという気がしてならないのでして、そういう意味では「正信偈」という偈文に問題があるのではありません。「正信偈」が作用してきた真宗教団の歴史が、どのようにわたしたちにうなずかれてきているのかということと、そのうなずきが、親鸞聖人が「正信念仏偈」を書かれたことと同じように深いかかわりを持つといい切れるかいい切れないかということと、両方の問題があるという気がいたします。ことにわたしは一つの生活規範、別の言葉でいうと浄土真宗門徒の精神的支柱の基礎といってもいい具体性をもった、真宗の勤行を決められた蓮如上人の文明開版以降の「正信偈」の社会的作用をどのようにうなずくのか、という問題を念頭に置いて考えております。

真宗学はなぜおもしろくないか
 初めのころ真宗学はおもしろくない学問だと思っておりました。なぜおもしろくないかといいますと、現実にかかわっているといくらいわれても、かかわりがよくわからない。お前の真宗学の学び方が浅いからだといわれるものですからそのうちにわかるのだと思い、やっていくと、いよいよもって社会から離れていく。若いときだからそうだったという事もありますが、真宗学はどうしょうもないなと思っていたことがありました。ところがある時、親鸞の著述を読んでいく視座の置き場所が私なりに納得がいきまして、今までと同じ著述を読んでおるのですけれども、違うように見えるようになってきたのです。一つの極端な例を出して申しますと、「教行信証を何のために書いたのか」、面白くないといっていたころにはこれだけの問いをいっぺんも持ったことがなかったのです。まず『教行信証』あり、というところから始まって、『教行信証』に書いてある意味はこうだ、ああだという解釈ばかりやっていたのですが、大事なことはそういうことではなくて、どうして親鸞は顕浄土真実教行証という明確な主題を持った教学の営みをしなくてはならなかったか、という必然性を問わないものだから書 いてあることがいよいよもってわけがわからなくなる、ということが少しわかってきたのです。
 こうした視座を持たなかったのは私の責任でもあるのですが、もう一つ真宗学がおもしろくない理由は、単一学問だからです。真宗学という学問がもし文字どおり人間の真宗を明らかにする学びであって、人間にとっての何かを明らかにする学びであるならば、単一の方法で学び切れるものではないと思うのです。なぜかというと人間という存在が単細胞ではないからです。とすると、それをはっきりさせるためには、「正信偈」の問題一つを取り上げても一向一揆の問題が出てきて、それが被差別部落起源説にまで展開していく筋道がかいま見られるということになると、やっぱり歴史学をやっていなくてはならないわけです。
 お西のもともと陶芸家のご住職で『現場の親鸞の教学』という書物を書いておられる方がいます。その先生のものを見ていますと、安城の御影はご承知のように桑の皮をたたいて絞った汁で染めたふだん着をきて、その下に茜色の下着のようなものをつけておられますね。その茜色の下着から推測していって、あれは遊女の着るものだと、身を売るしか生きようのない遊女が最後に身につけていた唯一のものを残していった。それを親鸞が身につけたのだと、そこまで話を進めているのですが、そこまでいっていいかどうかは別として、なにかこれまでの親鸞像を形成してきた発想とは違う方向で徹底していきたいという気持ちはよくわかるのです。ただ、その当時の遊女が何であるかという事になりますと、そこで必要になるのは民俗学です。そうしますと真宗学という単一の学問ではできなくなる。民俗学、郷土史、国史、時には世界史、哲学、こうした学問方法を集約しながらやっていく総合学的な学問でなければ真宗学を明らかにしていくことはできないと思うのです。それを単一的な方法でやっていたがために、私も他の方も真宗学はおもしろくないという気になっていたような気がします。
 それと、大谷大学の真宗にかかわる歴史視点というものは非常に宗派内的視点であり過ぎたという感じが強すぎるのです。いくら歴史を教えてもらっても、教えてもらったことにならないのです。かえって内部弁解をしているような歴史になって、切っていく歴史にならないのです。ある方が、真宗は昔から大教団だったような錯覚を皆起こしているがとんでもない話だ、顕密両教が厳然として存在していたあの律令仏教下においては真宗なんて取るに足らないもの、だれも目にも止めないものだったのだといわれますが、そんなことは、とはいえませんよ。本当にそうでしょう。関東の農民の人たちと共にあった仏教なんてものは、当時の国家全体を押さえていく仏教から見れば、取るに足らないものでしょう。こうした視点を一度くぐって、一寸の虫にも五分の魂といい切れるものがあるかどうかとなると、そういう学び方が一人ではできない。いろいろな人がそこに関心を寄せてくる。かつて野間宏さんがいわれたのですが、親鸞を真ん中において賛成する人も反対する人も、全く違う立場の人も、全く違う学問の人も論議を交わすことによって、日本、あるいは人間という存在を救っていく方向が見え てくることになるかもしれないという提案を述べておられます。私はその提案は誤っていないと今でも思っています。そういう時がやがてこないとだめだという気がします。今でさえ、手が回らないというか、わけがわからなくなっているのです。例えば機の深信と法の深信とはという話はできても、その機の深信が人間の中でどうなっていくのか、人間がどうなるのか、その結果どういう歴史社会が生まれてくるのかという問いかけがあったときに、機の深信、それ自体が宙に浮いてしまうのです。
 昨今ある人が擬講論文を書きました。これは田舎で勉強している青年ですが、読ませてもらって驚いたことがあるのです。機の深信という言葉を、私自身は今まで、いわゆる信心の内面の確認、といったふうに考えておりました。信心の問題だと押さえておりました。それで間違いはないのですが、その論文は信心の問題とは何なのか、ということを問題にした論文なのです。書いている内容はなかなか面倒なのですが、一言で申しますと、法然上人が浄土宗という一宗を独立せしめた根拠を機の深信に見る。こういう発想なのです。こうした発想をわたしはこれまで知りません。やはりご信心の問題という事だけで機の深信は押さえられてきたのであって、ご信心が浄土宗を開くのだという発想は無かったのではないでしょうか。

親鸞聖人と権力
 昨今、ちょっと気になることがありますのでこれは忘れないうちにお話ししておこうと思います。それは、具体的に申しますと、大学をやめてからものすごく楽なのです。
 大学での学問と、浪人ならではの学問というのがあるように私は思うのです。最後にこれをいいたいのですが、いわゆる一つの立脚地が明確にならないとすべてわからなくなるということはずっといい続けてきたのですが、気になることが一つ出てきたのです。それは、法然上人はもちろんのこと、親鸞も弾圧の中に身をおいて、生涯を積極的にその中を生きられた。そして、これは力んでいうのではないのですが、ことに親鸞は一度も権力の側に身をおけなかった人だということです。これは現代はやりのものの考え方としていっているのではありません。事実そうなのです。このことは私は非常に大事なことだと思っているのです。それは今日的な反権力思想、反権力闘争がもてはやされる時代とは違うのです。ついに九〇年の生涯のうち、すくなくとも法然上人に会う前から、比叡山にいるころからずっと、ある意味で親鸞は、国家権力あるいは民衆統治の権力の側に身をおくことができなかった人だといった方が正確かもしれません。このことが非常に気になることなのです。確かに幕府の歴史を記している『吾妻鏡』の中に、建仁元年という吉水入室の前年に念仏禁断ということがあったということ があります。そしてそういう状況の中へ親鸞は比叡山から降り立つわけですね。こうして弾圧のなかを生きられるのですが、そのことは、現代人好みの親鸞像を勝手に作るという意識ではなく、大切なこととして押さえておかなくてはいけないと思っているのですが、一つ気になることが出てきたと申しますのは、その親鸞の晩年、京都にお帰りになってから、八八歳の年の「弥陀如来名号徳」にいたるまでのあのたくさんの書物が、『教行信証』も含めて一冊も発禁になっていないというのはどういう事でしょうか。「主上臣下、法に背き義に違し」と書いてある本が差し止めを食わないというのはどうしてでしょうか。親鸞という人は流罪にあった人間ですよ。流罪にあった人間が京都へ帰らずに関東へいって生活して、六〇歳前後に京都へ帰ってきて、それからずっと物を書き続けていたのでしょう。そのなかで『教行信証』も完成していくわけですよね。そのときに「太上天皇諱尊成 今上諱為仁」名前をはっきり書いて「主上臣下、法に背き義に違し」ときちっと書いた文書がこの世に残っているということは不思議ではありませんか。『選択集』は嘉禄の法難のときに版木を全部、比叡山の大講堂の前 に集められて焼き捨てられたでしょう。しかし中を読んでみてどちらが厳しい思想表現かというと、親鸞のほうがよっぽど厳しいですよ。あんな生の言葉では法然上人はいっておられません。そうして法然上人は権力の側に、好んで身をおいたか、そうでなかったかということではなく、当時の状況の中で身をおくこともあった人です。やはり九条兼実とのかかわりを見てもわかりますように、少なくとも摂政、関白という人たちとの間でのかかわりをもっていた人です。それは歴史の転換期だという理由もありますけれども、事実は事実として関係をもっていた人です。ところが親鸞はもてなかった人であったというのも事実ですけれども、あるときには権力の庇護も受けたであろうと思われる節も感じられる『選択集』の方は、書物自体が弾圧を受けているのに、「主上臣下、法に背き義に違し」と書いてあるほうは弾圧を受けないというのはおかしいと思いませんか。常識として考えて、おかしくはないですか。僕は変だと思うのです。

弾圧される浄土宗と弾圧されない浄土宗
 そんなことを考えている中で、一つ気がついた事があるのです。それは、親鸞が京都へ帰ってきてから、ほとんど著述活動をやっているわけでしょう。わたしが問題にしたいのは、法然上人の浄土宗と、そして法然上人没後、なかんずく嘉禄の法難といわれているあの大弾圧以後の浄土宗とは同じであったか、あるいは違うか。これは案外見落としている部分だと思うのです。
 どこから私がそうしたことに着目し始めたかというと、権力の側に身を置けなかったという事であるということに違いはありませんけれども、一つどうしても理解に苦しむことがあるのです。『教行信証』の後序といわれている文章の中に弾圧の記録を書いて「予はその一なり」と自分でいっていますね。嘘はいえますまい。そうしたらやはり弾圧された人に決まっています。それに法然上人から『選択集』の付属を受けたという人も決してたくさんいなかった、その中に私はいたと。ちゃんと『選択本願念仏集』の内題の字と「南無阿弥陀仏、往生之業、念仏以本」と「釈綽空」の字を真筆で書いてもらった。そして真影の図画ということをお願いしたらそれも許してくださった。ところがどうも夢の告げで、名前を変えたいと申し出たら、法然上人がちゃんと直筆で名前をまた書き改めてくださった。こうして、自分の身の上に起こったこと、法然上人の門下に自分がいたということ、そして法然上人の門下でどんな事実があったかということを書いておられるでしょう。親鸞が自分で書いているにもかかわらず、二〇巻にも余るといってよい法然上人を中心とする伝記の中に、親鸞の「し」の字も登場し ないということはどういうことですか。これもやはりおかしいと思いませんか。流罪になった人はそんなにたくさんいませんよ。『歎異抄』の跋文の最後のところにあるだけです。だけども、それほどの人であれば、ほめようが、けなそうが、こういう人間がいたということは歴然としたことですから、法然伝の中にたくさんのお弟子の名前と行実が書いてあるのですから、親鸞の行実が一つくらいあってもよいでしょう。ところが一つもない。法然門下に親鸞という人物がいたということさえ証明するものは全くない。有るとすれば『七ヶ条起請文』に連名で名が書かれて中に「僧綽空」という字がある、ということだけです。
 私は、こういうことを、どうして不思議に思わなかったのかと自分を顧みると同時に、真宗学のなかでどうしてそれが不思議だと思えなかったのか、ということが一つ大きな問題になってきているのです。それは、先程、申しました、法然上人によって浄土宗として独立したその一宗と、法然上人の入滅後、いろいろな事が起こって、決定的な事実を挙げれば嘉禄の大法難以降の京都にも浄土宗があるのですから、それが全く質を異にしたということに目が届いていなかったからだと、わたしは思うのです。だから、浄土宗という宗名があるから同じだと、どこかで思っていたのではないかと、自分で思います。ところが、この違い、これは親鸞が完全に法然門下から抹殺された大きな理由だという気がしてならないのです。なぜかといいますと、親鸞が法然上人の門弟のなかで特に関東の同朋の人々にこのお二人の書物を読めとか、このお二人はよき人であると薦めている隆寛律師と聖覚法印という方々がおられますね。隆寛律師が『一念多念分別事』をいつ書かれたのか押さえてきておりませんけれども、そのお二人について申しますと、隆寛律師という方はずいぶんたくさんの書物を書いておられるので す。しかも、親鸞聖人か生きておいでになる建保四年に『具三心義』という書物を書いておられます。これはご承知のように、『観無量寿経』のなかに出てくる三心を具するということについて確かめた書物です。その翌年、健保五年には『散善義問答』というのを書いています。それから三年たった承久二年には『極楽浄土宗義』という書物を書いています。それからまた二年後、『善導和尚十徳』というものを書いていますし、また二年後、元仁元年に『弥陀本願義』というのを書いています。さらに、嘉禄二年、これが決定的なのですが、親鸞五四歳のとき、『顕選択』という書物を書いた。これが引き金になってその翌年、嘉禄三年に決定的な弾圧、嘉禄の法難が起こるのでしょう。弾圧の規模で申しますと、承元の法難よりもずっと厳しいです。法然上人の墳墓が荒らされてしまう、『選択集』の版木全部が集められて焼かれてしまう。隆寛はもちろん、空阿や幸西などが皆流罪にあいます。その年に隆寛は八〇歳で死んでいくのです。その年の翌年には、親鸞が尊敬していたといわれる信空上人も亡くなります。いうならば、偶然かもしれませんので決定的なこととしては申し上げられませんが、この 隆寛が書物を書いたときはたいてい弾圧が起こっているのです。記録に残るような形の弾圧が起こっているのです。隆寛の書き物の内容には、必ず弾圧をされなくては収まりがつかないことを書かれていたというくらいの印象はもつことはできるでしょう。それの決定打が『顕選択』なのです。かつて一度浄土宗を地上から完全に抹殺しようとした力がまた再度現れたのです。私はこのとき、完全に法然により独立した浄土宗は抹殺されたのだと思います。これは、弾圧する側の勝利です。弾圧される側の完全な敗北です。それからどうなったかといえば、それからは弾圧されない浄土宗になったのです。このへんは私たちは浄土真宗もあわせて念頭ではオーバーラップさせて事を考えなくてはならない。親鸞は生涯弾圧されるなかで、「真宗興降の大祖源空法師、ならびに門徒数輩、罪科を考えず、猥りがわしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて、遠流に処す。予はその一なり。」といい切った、そう弾圧の記録の中でいわれている真宗が、弾圧されない真宗になったのです。

浄土宗のなかに真あり仮あり
 もうお一人、聖覚法印の方は、性格的なものもあるのでしょうけれども、直接、隆寛律師のような顕著に弾圧を恐れないという形の文章を書く人ではなかったようです。しかし、思想としては非常に明確な押さえをする方だと思うのです。二三、他にも書物があるようですが、親鸞が特にそれに大きな影響を受けておそらく顕浄土真実教行証という課題を明確にしていったであろうと思われるのが『唯信鈔』です。この『唯信鈔』を書いてやがて六〇歳で亡くなっていかれます。亡くなっていかれるころから、ずっと親鸞は『唯信鈔』を書写し続けます。『唯信鈔』ほど親鸞聖人が書写し続けた書物はない。さらに『唯信鈔文意』を書かれますね。このお二人を中心として、嘉禄の大弾圧を経て、完全に法然上人により独立した浄土宗は地上から姿を消したといわざるを得ないのです。ということは、ただ私が空想でいっている部分も六割がたないともいえませんけれども、全くの空想でもないのです。親鸞のお手紙類をちょっとご覧になっていただくと案外わかるかもしれません。『末燈鈔』の来迎の問題です。親鸞は
臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき、往生またさだまるなり。来迎の儀式をまたず。
と書いている。ということは、来迎の儀式をまつという浄土宗があったのです。こうしたことが読み取れますでしょう。他宗にはいくらでもあります。平安時代の仏教の中で、来迎の儀式を待たないような仏教は、浄土往生ということを寓宗として位置づけている聖道の仏教であるならば来迎の儀式を待たないような、そんな浄土往生ということはない。へたをしますと来迎仏という仏像を人間が必要として造って、自分の手と仏像の手とを糸で結んで切れないようにして、息を引き取っても来迎仏に連れていってもらえると。考えればばからしいけれども、命の根っこでは真剣だった。そういうことを天下の権力を握った人がやらざるをえなかったということがあるでしょう。だから来迎の儀式を待たない仏教というのは浄土宗以外にはなかったはずなのです。ところが、浄土宗のなかに来迎の儀式をまつ浄土宗が生まれてきたということです。そうでないと、ここは読めないでしょう。さらに、
浄土宗のなかに真あり仮あり。真というは、選択本願なり。仮というは、定散二善なり。選択本願は浄土真宗なり。定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗のなかの至極なり。方便仮門のなかにまた大小権実の教あり。
と続きます。一見、ただ教相判釈をしているように見えます。けれども、さきの文章と合わせて見ますと、「浄土宗のなかに真あり仮あり」という言葉から始まるのですから、浄土宗のなかに真なる浄土宗と仮なる浄土宗があるというのですから、具体的になければこういうことはいいません。その内容は選択本願によらずして、自力定散の行によるということだ、だから仮門であると押さえてあるのでしょう。これも、一つの思想の表現だと、私も長い間、見てきましたけれども、このごろ問題が先程申したような所にきますと、親鸞がこの手紙を書かれた建長三年、七九歳のころに目で見て知っていた浄土宗の現状です。臨終の儀式を事とし、念仏往生と諸行往生の二つを是とし、そして浄土宗を名乗る、これが浄土宗の現実だったのです。それは、かつて聖道の仏教の寓宗として位置づけられていた浄土教でした。
 浄土教から浄土宗に名前が変わったということの意味は非常に大きいと私は思うのです。誠実な聖道の仏教の修道者たちは、この世で覚りを開くのが本来だが、どうしてもこの世では覚りを開けないので、浄土に往生して、障りのない浄土で仏になることを願う道として浄土往生を寓宗として位置づけていた。そのことは確かに人間的には誠実です。しかし仏法としては、誠実とはいえなくて、逆にそれは仏教の筋をあいまいにしていると思います。単純に考えてもおわかりになると思います。修行ということが必要なのはどういうところかといえば、修行は難行苦行でなければ意味がないですよ。何も邪魔のないところでいくら修行しようとしても、どうにもなりません。すべての災いがある中で行じていくことにおいて、初めて修行ということが意味をもつのでしょう。それが、そこではもはや成仏できないから、浄土という障りのないところで仏になるという考え方は、修行という言葉そのものへの人間的関心は誠実だとしても、事実としてはそういうことは成り立たないということです。ところが、そこのところが抜け道というか、事実、聖道の仏教を支えてきたのです。もし、浄土教が浄土教のまま で聖道の仏教の寓宗でありつづけたならどうなるか。社会的現実としては聖道の仏教は理を誇り、大衆から隔離して理の高低を競いながら大乗のなかの至極を理論的に構築していくということを一方ではやって、誠実に歩いていこう、学んでいこう、仏になろうとする人はもう一つの、裏口ではありませんが、寓宗としての浄土教へ向かっていく。ということで、はっきり申しますと、聖道の仏教を存続せしむる役割を具体的に果たしていたのは、残念ながら浄土教なのです。これは一度はっきりしておかなくてはいけないと、私は思うのです。だから、なぜ法然上人が浄土宗といったのか。浄土宗という一宗の独立をしたのか。そしてその独立にたいして、日本に古来からあった八宗がこぞって浄土宗を弾圧に追い込もうとしたのか。その理由はただ一つです。浄土教と浄土宗は教義内容はほとんど変わらないけれども、寓宗として作用している浄土教と聖道仏教と訣別した浄土宗は違うのです。訣別して浄土宗と名乗ったとき、初めて仏道が明らかになったのです。人間道ではなくて仏道が明らかになったのです。
 定散自力ということを、親鸞聖人はいろいろにご解釈なさっていますが、一言でいいますと人間の力に頼るということでしょう。浄土往生を求めつつ本願を疑惑して、人間の力を頼みにするというのですから根っこにある質は人間の力を頼むということでしょう。逆にいうと、頼みになる私だと思っているのです。ということは、頼みになる私の上に成り立っていたのが聖道の仏教だったのです。菩薩道が設定できたのは、頼みになる我が身をもっていたからでしょう。それに対して、
天台、真言みな頓教と名ずく。といえども、断惑の故に、なおこれ漸教なり
といい切ったのは法然上人です。天台宗、真言宗は頓教といっている。確かに理としてはそうである。しかし両方ともこの世で仏になろうとするのだから、漸々に自分の力で歩いていかなければならないのだから、漸教なのである。表看板は頓教なのだが、質は漸教なのである。法然上人が見破ったのはそのあたりなのです。そうなったとき、こういう『末燈鈔』の文章にしましても、ただ教義的なことを田舎の人々に伝達をしているのではないということがあります。

「ゆゆしき学生」たちと親鸞
 もうひとつ、これは『親鸞聖人御消息集』。ここでは関東にいろいろな問題が起こってくることに対して、親鸞が心配なさってお出しになった手紙なのですが、
京にも、こころえずして、ようようにまどいおうてそうろうめり。くにぐににも、おおくきこえそうろう。法然聖人の御弟子のなかにも、われはゆゆしき学生なんどと、おもいたるひとびとも、この世にはみなようように法門もいいかえて、身もまどい、ひとをもまどわして、わずらいおうてそうろうなり。
という文章があります。これも具体的な事実記述でしょう。法然上人のお弟子のなかにも我はゆゆしき学生だといっている人たちが、法然上人がおっしゃったことを勝手にいい換えることによって、自分も惑い、人をも惑わすということが京都にもある。だから田舎の文字もわからない人たちのなかにそういうことがあるということは、決して不思議ではないけれども、それは正しいことではないと述べている。そういう浄土宗が京都にあったのです。
 隆寛と聖覚だけを挙げましたけれども、彼ら以外にもたくさんの優れたゆゆしき学生がいたわけです。ゆゆしき学生のなかの一人に証空という方がいますが、ずいぶん優れた学匠だったのです。ただこの方についても気になることがあるのです。承元の法難の時に、流罪になるべき人物として名前が上がっていたのですが、無動寺の善題大僧正(慈円)が申し出たので、流罪を免れたということがある。この人もいろいろな書物を書いておられます。例えば『選択密要決』、「密」というのは普通の目には見えないけれども、よく見るとこういうことがあるということですが、『選択本願念仏集』の密の要をここに書いたという題をつけている書物さえ書いているのです。でも弾圧にあっていないのです。
 あるいは鎮西上人といわれている弁長ですが、京都にそう長くはおいでにならないで、早く肥後にお帰りになって浄土宗をお広めになった方です。その方が授手印というものを作っています。これはもともと仏様が衆生に手を差し伸べてお浄土へ導くしるしという意味です。こういう授手印というものが盛んだったのが、平安浄土教なのです。それをニュースタイルでやったのです。だから鎮西上人は、浄土宗のなかで教えを正しく伝えたという印として、あなたは浄土宗の奥義をいただいた人だとして、手形を押すということをやったのです。それを「末代念仏授手印」と名付けています。これも親鸞の目から見ますと、全く浄土宗の本義に背反することなのです。そして浄土宗以前の浄土教のなかでも、仏教の正当としては評価されていない、むしろ民間習俗的なことに合致していくようなことなのです。そういうことを取り入れているのです。
 もう一つ、勢観房源智という方がおられますね。勢観房源智というとすぐに思い出されるのは『歎異抄』のなかで「勢観房、念仏房なんど」と二人を特に名ざして、往生の信心は一つということで論争して、とうとう法然上人の所までいって「如来よりたまわりたる信心」というお言葉を引き出してくる、いつか冗談で申しましたが、こういうことをする人は皆に好かれませんよ。とくにこの勢観房、念仏房といった人たちは、さきほどの証空上人や鎮西上人というような学匠というよりむしろ、このお方に会ったお陰で、という実感で生きるような人です。そういう意味では皆が尊敬し、法然上人もかわいがっていたのでしょう。ですから『一枚起請文』を受け取ったのは勢観房です。しかし、この方の信心の中を開いてみると、「如来よりたまわりたる信心」ではなくて、自分の知恵才覚と同質のものが一杯詰まっていたことを暴露してしまったのです。こんなことをやられたら一生忘れないと私は思いますね。
 ともかく師を思慕するという感情をもたれた方だからだと思いますが、法然上人は流刑地から京都の大谷へ帰ってこられたのですが、その辺りも嘉禄の法難などを経て荒れ果てていたのです。そこで、その辺りの再興を思い付いたのが勢観房なのです。そう思い立って、純粋なお気持ちで再興をされたのは結構なのですが、それがやがて華頂山大谷寺知恩院という額を賜ることとなったのです。いまある知恩院の基です。だれから賜ったかといえば、勿論朝廷でしょう。ということは、法然上人の浄土宗が訣別した仏教へ逆転したということです。こうなれば、浄土宗が弾圧を受けるはずがありません。
 こうした例でわかるように嘉禄の法難以降は法然上人の浄土宗の正義を伝達しようとする人たちは弾圧の中で死んでいき、残った人たちは教えを変質化していった。例えば、教義としては諸行往生を認めるという形で諸行往生と念仏往生の二本建てという筋を作っていく。あるいは勅額を頂いて寺になっていく。こうした形になった時、一番やっかいな人物が京都へ帰ってきたのです。それは親鸞です。新しい武家政治の台頭する関東までわざわざいって、権力から申しますとずっと労働力として使おうと思っていた連中を焚き付けて、わしらは人間だと皆にいわせたのでしょう。だから、京都のお公家さんのような意地の悪い弾圧と違って、関東での弾圧は想像を絶する厳しさがあったと思われます。御消息集にも出ていますが、それに対して戦った性信房の法廷闘争は、生っちょろいものではなかったと思います。だから、武家が政治を握っていたのですから、やられる側もそれに対抗できるだけの力と団結があった。それが関東教団なのです。その関東教団を作ったのが親鸞ですから、弾圧の通達は京都へも直通できているはずです。
 その張本人が帰ったのですからね。六〇%はわたしの空想だというのはその辺ですが、だから法然上人の伝記類から親鸞という存在は完全に抹殺されてしまったのだ。存在が認められないほど親鸞は存在価値がなかった人ではなくて、あまりにも存在価値が大きすぎるから抹殺されたのだと私は考えるのです。嘉禄の法難以降に親鸞は京都へ帰っているのですから、それ以降の京都の浄土宗が困ったのはそのことだったと私は思いますね。だから、完全に抹殺したのです。徹底しますと抹殺もよいものでして、その人が何をやっているのか完全に見えないようにしないと自分たちに類が及ぶということになるのでしょう。そのお陰で親鸞の書いたものは弾圧されないで残ったのではないかと私は思う。思うというより、だいたい筋書きとして考えられることです。あれほど『教行信証』にいろいろ書いている人が、二〇ほどある法然上人の伝記の中にいっぺんも出てこないというのは、不思議なことだといわねばなりません。そのうえ公家の日記の中にも登場してきませんしね。それだけではなくして、親鸞は弾圧の中を生きたと申しましたが、書いたものはいっぺんも弾圧されなかったということのもってい る意味に注目するとき、弾圧は決して単純なものではないということを考えておかなければならないと思うのです。「主上臣下法に背き」という文章まで載っている『顕浄土真実教行証文類』を中心とするすべてのものが田舎へ送られていくにもかかわらず、それが表ざたにならなかった。それは、権力側が見て見ぬふりをしたのではなく、逆に後の浄土宗が親鸞を表に見えない状態に隠ぺいしていくことによって、抹消し排除していった。ですから親鸞という人は二度大きな排除を受けた人だとわたしは思うのです。一度は、聖道の仏教、なかんずく親鸞自身が書いている興福寺奏達に代表される聖道の仏教の論理の下に排除されました。もう一度の排除は、浄土宗と名乗る仲間であるはずの人々から排除された。ですから二重の排除を受けているのです。

従因向果の教学から従果向因の教学へ
 わたしがこのような話をしましたのは、何がいいたいのかと申しますと、「従因向果の教学、従果向因の教学」ということなのです。これは私の造語です。従因向果、従果向因という言葉は古くからあります。ご承知のように従因向果というのは菩薩が菩薩の修行を積んでいくことによって仏果を得るという、因から果へ向かっていくことを語るのです。従果向因は法蔵菩薩を語るときの言葉であって、仏果を円満している阿弥陀如来が衆生を救うために因位の菩薩へ帰ってこられて衆生を救っていく意味で使われます。それを借りて教学に名前をつけたのです。どういうことかと申しますと、今のような発想は、個人差はあるにせよ大学のような枠内の授業の中からは出てこないと思うのです。それはなぜかといいますと、まず『教行信証』あり、というところから始まるからです。まず『教行信証』あり、『選択集』あり、『浄土論』あり、これは動かせない事である。そしてその中には何が書いてあるかを調べていく。それを私は従因向果の教学というのです。これは大学であれば仕方のないことでもあります。『教行信証』には総序があってそこにはこのようなことが書いてあってということを教室で 話していくのが筋道でしょう。学校という教育機関での教学の在り方です。
 しかし、それが教学なのかと問い直しますと、それは教学には違いないけれども結果を追いかけていくばかりで生産はしないと思うのです。問題は従果向因です。従果向因と私が申しますのは、まずここに『教行信証』があるというのではなく、なぜ親鸞は『教行信証』を書いたかという問いから始まる教学です。だから果から始まって、なぜという問いでその原因をたずねていく。だから先程の話で申しますと、聖道の教えと共に携わってあった浄土教から、なぜ法然上人は浄土宗の興行ということをなさったのか。この問いを立てないと、いくら浄土宗、あるいは『選択集』の中身を点検しても質がわからないでしょう。そうすると『教行信証』というものも「顕浄土真実教行証文類」という題名をもっている限り、法然上人の『選択本願念仏集』の了解書であることは確かだと思います。しかし、その了解をしていくときに、まず基本のところではなぜ法然上人は『選択本願念仏集』という題名の書物を書かなくては浄土宗の独立を明確にできなかったのかという問いに立って、その問いに対するうなずきを浄土真実教行証を検証し開顕するという形で確かめていったのが『教行信証』だと私は思います 。だから、従因向果、従果向因という言葉を勝手に使いまして、「これは」から「なぜ」への転換が教学を問うていく一つの新しい方向を見いだしていくことになるのではないかと考えているのです。そうしますとわたし流に申しますと、親鸞の『教行信証』も法然上人の『選択集』も従果向因の教学であったように思います。従因向果の教学はあまりないような気がします。そんなことを最近思うのです。
 『教行信証』の行巻の中に位置づけられている「正信念仏偈」は何なのかという問いと、もう一つは改めて八六歳のときに整理をして「和朝愚禿釈の親鸞が正信偈の文」と柱だてをして一〇行二〇句を並べてご自分で解釈を加えていかれた。そして「信心を浄土宗の正意と知るべし」といい切ったときに「正信念仏偈」ではなくて「正信偈」と親鸞自身がいったのです。とすると、『教行信証』の中では「正信念仏偈」という場合には、すぐ選択本願念仏という一句が念頭に浮かんでくる。その選択本願念仏に応答して、「正信念仏偈」が必然的に位置づけられる。
 しかし、自分が『教行信証』を専信房専海に書写を許した、そのときに安城の御影といわれている自分の肖像画を書かせた、その下段の銘の文として書かれた一〇行二〇句は「正信偈」の文です。そして絵についている銘文では愚禿という字は抜けておりまして、「釈親鸞正信偈の文」となっております。それを銘文の解釈のところで「和朝愚禿釈親鸞が正信偈の文」と正確に押さえ直したのです。自分の絵につけた自分の言葉ですよ。とすると、それは自分の絵を讃仰しているのではないのでしょう。となるとあの絵がもっている意味を一〇行二〇句の中で我々が読み取っていかなくてはならないということになるのでしょう。「正信念仏偈」の他のところではなくて、あの一〇行二〇句の言葉の中で「正信偈」と親鸞がいい切った。いうならば正信の人の偈といい切った、その正信の内実を一〇行二〇句の中で我々は読み取っていかなくてはならないということになる。そういうところに「正信偈」の位置がある。「正信念仏偈」と「正信偈」と二つありますが、二つは一緒であるということはできない。ということが従果向因の教学から少しずつ見えてきたことなのです。

   富山聞光会講義録
『正信偈』以前(上)ー正信偈を読む前にー

   1996年4月発行

   講述    廣瀬杲

   編集・発行 富山聞光会
         (世話人  頼成善享 長大寿 石川正穂
     淵上一知 鈴木陽)