「正信念仏偈」を、いわゆる三経七祖の要点だけを抽出して列記した,一つのエッセンスの表現というだけで終わらせてよいのか。「応信」や「可信」という言葉で依経分・依釈分を押さえている限りにおいては、親鸞が信を勧めるということを主題にして言い切った文章,それが「正信偈」だというべき、と廣瀬氏は述べる。
 本書は,富山教区の聞法学習会である富山聞光会が「正信偈」をテキストとした学習会を開催した際に、講師として招かれた氏が「なぜ『正信偈』なのか」という問題提起をされていった中で、聞法会自らの問い直しの出発点という意味で企画・刊行された。
 師の講話は,「正信偈」『教行信証』の読みとり方だけにとどまらず、様々な視点から親鸞聖人の思索の原点に迫っている。                   

「真宗」96年10月号「書棚」より




 「なぜ『正信偈』なのですか」。
 講義のテキストに「正信偈」を選んだことに対する氏の素朴な疑問は、その「なぜ」が確認されていく中、「正信偈」に学ぶ視座を根底的に問い直していく。
 いわば身近な聖教として今日も諷誦されている「正信偈」は、蓮如上人の「文明版」開板の意図、そして、親鸞聖人が真宗といただかれた仏教と同じ質を持つのか。一部の総標である題目が、「正信念仏偈」から「正信偈」と展開されていった、その聖人晩年の歩みになにを見るのか。
 氏は弾圧の中で証されていった親鸞聖人の教学営為が確認されないまま、今日に至っているのではないか、と提起する。
 「正信偈」の内容を理解することによって安堵する危険性を指摘しつつ、「正信偈」が持った課題を明らかにする。

「真宗」97年6月号「書棚」より