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2007年03月20日

●Ⅱ 純粋行としての信心 第一講 願を行ずる信 下

以下は抜粋とノート

願生偈は単なる詩歌ではなく、大無量寿経の四十八願全体を受けて、その意義を明らかにするという意義を持った偈である。大無量寿経の四十八願はどういう問題を明らかにしているのか、仏道においてどのような意義をもっているのか。その問題を願生という原理で明らかにしたのが願生偈である。

願生偈の願生というのは世親の願に違いないが、しかし人間の願というわけにはいかない。むろん世親に起こった願であるが、かといって願といっても人間のおこした願というわけにはいかない。
 
人間が願を起こす場合は信は成り立たない。逆に信が成り立ったというなら願が如来の願だからである。我々が信ということができるのは、如来の願の成就としての信の場合だけである。
願生は、世親が如来の願を自己の信としてあらわしたのである。だから自己の信としてあらわされたそのままが如来の願成就なのである。

ただ如来の願を願といっているだけでは教理に終わる。つまり願生とは如来の本願を天下りにではなく、衆生の機においてあらわしている。
願生ということが無量寿経独自の自覚である。願に燃え上がっている信、それは、如来の願を行じている信心である。客として本願に目覚めるとともに、主として願に立ち上がる。

偈と問答は総別という位置関係をもっている。正信念仏偈によって真宗を総じて尽くし、問答は別して真宗を明らかにする。

念仏を信心であらわしたのが正信念仏偈である。念仏からでた信であるから念仏としてあらわされる。「念仏偈」だけでは、「ただ念仏している」のか、「念仏もまた信じている」のかわからないから、「正信」という文字をつける。正信念仏とは、念仏で満足したということである。歎異抄で言えば「信ずるほかに別の子細なきなり」とういうことである。正信念仏という言葉に浄土真宗が簡潔に要約されている。それに対して信巻は、別しての意義がある。

教行信証は教行の二巻と信巻以下の四巻とに二分される総別の関係でなっている。真宗の教学は総じては念仏、別しては信心である。総じて信を述べるのは行巻であり、それでは念仏をみずからも信じ、他にもすすめている。信巻は信を述べるのではなく問答している。つまり、信を批判し、信を基礎づける。

信巻は三経一論に照らして信心についての問題を明らかにする。心というと心理分析のように思うが、信心は行に対する関係としてある。だから「純粋行としての信心」といったのである。これは独特の用語かもしれないが、法と機の関係をあらわしたのである。「純粋行」の「行」は法の意義をもち、「信心」の「心」は機の意義をもっているのである。
信巻の問答が明らかにしているのは、機の問題である。

行巻には「ただ念仏」と信を表明している。しかし「ただ念仏」という行は簡単であるが、簡単であることを信ずることは容易ではない。親鸞が三願、三機、三往生ということを立てたのは、簡単なことが容易ではないということをあらわすためである。

機を成就するという問題は、人間を成就するという問題である。

悪人正機は悪人だけが助かるというのではない。悪人であるにもかかわらず人格を与えるということである。つまり人間がどれだけ理性をやぷっても、品格を失っても、それにもかかわらずそれに人格を与える。いかなる悪人にもかかわらず、人間性を失っている人間をして、どんな条件の下にも動かされない人格、主体性を与えるのが信心である。それを正定聚の機という。

身体がある、精神があるというだけでは人間存在はあらわせない。人間は机があるように存在しているのではない。また、単に生きているのではなく、生きていることとは何だろうかと問う存在である。自己を非本来として自覚し、そして自己を問う存在である。そういう問題をもつような人間は、身体や精神があるのが人間であるという立場からはでてこない。つまり浄土論は願生という概念によって、問題をもつ人間を成り立たせる原理を答えたのである。このように願生とは自覚的原理なのである。

世親は我一心というが、その一心に成り立つ我とはどのような機であろうか。我にも二重の意味があるのではないか。つまりエゴとセルフである。

「ひとり」だが「いちにん」でないのが「孤としての我」であろう。「孤」、つまり「エゴとしての我」は他を排除しつつ他によっている。だから一人でいると淋しいし、またたくさんでいると騒がしいというように矛盾している。

「独」というのはそうではない。本当の独はそういう状況でいっそう自己になる。「普く諸々の衆生と共に」(回向門)というのが独である。

人間は孤立ではなく独立しなければならない。何ものにも依らないとは、自己自身の分別にも依らないということである。それが主体性であり、そのような主体性を支えるのが信である。

2007年03月19日

●Ⅱ 純粋行としての信心 第一講 願を行ずる信 中

以下は抜粋とノート

法然は念仏を選択というが、それに対して親鸞は念仏を回向という。つまり法然の教学は選択、親鸞の教学は回向である。この親鸞の教学が何にもとづくのかというと、曇鸞が浄土論の回向を解釈して二種の回向の相を明らかにしたことによる。浄土論の回向とは解義分の五念門の第五回向門の内容である。しかし、論註では回向を二種に分けた意義が必ずしも判然としていない。

曇鸞がはっきり言ったのは他力である。

一般的には自力という言葉に否定的な意味はないが、信仰概念としての自力は、自己の能力の過信であり、人間が人間自身を閉鎖していることである。つまり、人間中心の考え、人間の自己肯定、そういう意味を持った言葉として、自力が独自の概念になったのである。

法然は、念仏は「不回向の行である」とは言うが、念仏が如来回向の行であるとは言わなかった。親鸞が浄土論によって如来回向ということを明らかにしたことで、不回向の不回向たるゆえんが明らかになったのである。

曇鸞は五念門のうち後の三門(作願、観察、回向)には菩薩道の意義があると明らかにしようとした。

五念門の「念」とは念仏のことであろう。念仏という意味だけならば、一番目の礼拝門と二番目の讃嘆門でつくされている。ところが三番目の作願門のところに奢摩他、四番目の観察門のところに毘婆舎那という言葉が出ている。奢摩他は止、毘婆舎那は観、つまりこの二つは止観ということをあらわしている。止観の行は瑜伽の行である。つまり浄土論において「如実修行」という行とは、瑜伽の行としての止観のことなのである。

浄土を作願するのはもっぱら奢摩他のため。如実に奢摩他を修行せんと欲するがゆえに浄土を作願する。
一般仏教からいえば、「観」ということが安心を明らかにする方法であり、実践を代表する行である。自己を明らかにする方法を止観という。止観によって自利、回向によって利他をあらわす。大乗の止観、つまり作願、観察と回向で仏道を成就する菩薩行が出ている。

五念門全体は仏道であるが、凡夫が仏になるといっても飛躍的になるのではない。念仏において菩薩道が円満するから念仏が仏道となる。

だから曇鸞からいうと、回向だけが特別ではなく、作願を三種、観察を二種に分けたように、回向を二種に分けたのである。しかし親鸞は曇鸞が回向を二種に分けたことが独自の意義をもっていることを感得した。

曇鸞は回向を往相と還相の二種に分けたが、やはり回向の主体は衆生であった。しかし親鸞の場合は回向の主体は如来、つまり如来回向である。

二種の回向とは、回向の名義の問題でなく相の問題、あるいは体相の問題である。
これまでは回向は自力の立場で考えられていた。つまり我々の能力のうえに立てられる回向であった。浄土論でも一応そうみえる。しかし親鸞の場合の回向は、人間からの回向ではなく、むしろ人間がそれによって成り立つ回向、人間が成就せしめられる回向である。したがって人間からいうと回向を必要としない、努力というかたちをとらない回向である。この点から法然は不回向といった。親鸞は、そのような回向とは<如来の回向>であるといった。むしろ<如来が回向である>と明確に言ったというべきなのかもしれない。

<如来が回向である>ことを明らかにするのは二種の回向のなかでも還相回向である。
還相回向は浄土を得たものがはじめてできる行である。それはむしろ如来本願力のはたらきといってもよい。菩薩が仏になるというよりも、菩薩となった仏のはたらき、そういうことがあらわれているのである。

「浄土論」に「回向を首とす」とある。

親鸞は一番最後におかれた回向において、五念門全体を見なおしてくるような内容にふれた。つまり、五念門の終わりである回向が五念門のはじめであることに、曇鸞の二種の回向の教説を通じてふれたのである。

回向門は浄土論でも論註でも途中にあるが、親鸞は回向にはじめの意義を見出された。だから教行信証ではいちばんはじめにおき、教巻の冒頭に「謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり」とあるように回向が真宗独自の教学である。

法然は本願が立場であるが、親鸞は本願成就が立場である。人間は如来の成就であることをあらわしたのが念仏であり、それは人間を超えて人間が見なおされてきたということである。人間存在が如来の成就であることを明らかにするのが回向である。その一点に真宗の教学が尽くされる。

2007年03月18日

●Ⅱ 純粋行としての信心 第一講 願を行ずる信 上

以下は抜粋とノート

信巻に出てくる「如実修行相応」を「純粋行としての信心」といいなおした。

総序は教行信証全体を支配する意義をもっているが、その意義は総じては正信偈で終わっている。「遇い難くして今遇うことを得たり 聞き難くしてすでに聞くことを得たり」

別序「しばらく疑問を至してついに明証を出だす。誠に仏恩の深重なるを念じて、人倫の哢言を恥じず。浄邦を欣う徒衆、、穢域を厭う庶類、取捨を加うといえども、疑謗を生ずることなかれ、と。」
厳しい深い覚悟。

この二つの序には総別の関係がある。つまり、総じては法然を通して遇うことのできた仏法を述べ、別しては親鸞が私をまじえない心を述べて、深い覚悟を示している。総じては「聞くところを慶び、獲る所を嘆ずる」という正信が述べられるのであるが、別しては教行信証を製作せざるをえなかった正信についての問題が述べられるのである。三経一論の問題。

信を述べているのはむしろ行巻。行巻には、正信念仏というように、正信を念仏として述べている。「ただ念仏」というのが親鸞の正信である。

つまり正信は結論である。信巻は総のなかから別を開いているのである。

信巻の問答を帰結しているのが「如実修行相応」である。

教行信証の後序は法然との値遇いうことが主になっている。つまり後序からみると、教行信証は法然の選択本願念仏にこたえる意義がある。

浄土真宗ということは、法然の浄土宗こそ仏教の真宗であることを明らかにする意義をもっている。真宗とは「本願の念仏こそ真宗である」ということを意味している。法然の教えを基礎づけることが教行信証の仕事である。そのために親鸞は道綽、曇鸞、世親、龍樹という善導の背景にさかのぼった。そのなかでもっとも重要な位置をもつのが世親の浄土論である。

浄土論をそれ自身としてみると瑜伽教学の論である。曇鸞の論註によって、はじめて浄土論が三経一論という位置をもったのである。曇鸞が大無量寿経の本願に立って、浄土論を解釈したことで、浄土論が浄土真宗の論になった。

2007年03月17日

●Ⅰ 人身受け難し

以下は抜粋とノート

仏教の問題は主体の問題である。

仏教では自覚ということが大切である。

主体がなければ自分がない。無駄に生きたことになる。空過。

宗教が問題にするのは、人間そのもの問題である。

自己が自己に背いて自己である
どれほど主体を考えない人間でも、主体の問題に近づくことがある。
それが死ということである。
死の問題はなぜ仏法の縁になるかというと、自分が死ぬからである。
しかし、どうしても逃れられないとなると狡猾な理性はこれを巧みに処理しようとする。
傍観者のように「話」の死にしてしまう。
自分をだます。

主体に対して現実問題を客体とすると、客体の問題から逃げるの場合が主観である。
気持ちの問題とか、心の問題というのは主観ということである。
気休め、これが主観である。
信仰が主観的信仰ならあってもなくてもよい。

自分が自分でない不安、この気分のところに本当の深い自分がある。
親鸞の念仏は浄土の教えである。
浄土というのは主体を見いだした世界である。
悠々と穢土にいることができる世界を浄土という。

無住処涅槃
住するということがないというところに住する。
主観は客体を拒むが、本当の主体は客体を拒まない。

本当の主体的な自覚が他力回向の信心である。
信心を明らかにするのに二種深信ということが言われる。

機の深信は「自身」、「わが身」(尊号真像銘文)とある。
仏法では「身」ということが大切である。
身というものは、我々が生きているということを決定している。
これが主体の問題を語る。

仏教の問題は自覚の問題である。
何ものの手段にもならず、何ものも手段にしない。

身ということで理性を超えた自覚が成り立つ。
生きているそのことを問題にするのが主体であるが、それをあらわすのが身である。
身の自覚を業という。
業が運命論になるのは、理性を超えたものを理性で解釈するからである。
業は無限に決まらない内容をあらわす。
また業という言葉は責任ということをあらわす。

生きたことを無駄にできない。
死んでも死に切れない。
そこに主体の問題がある。
迷うと、理知が我だと思うから主体とは何かが分からなくなる。

誰ともかわることができないものが自分というものである。
人間の一例として自分があるのではなく、むしろ自分が人間なのである。

私が救われるということは、人類の問題を私において解決するという意味をもつのである。
それが歎異抄でいう「親鸞一人」という言葉が持つ意味である。
一人が全体である。
そこに主体が成り立つ。

「人身受け難し、今、すでに受く。」
人身の尊さを見いださないものは無問題であり、「難」という必要もない。
人身の尊さを見いだした人がはじめて「難」という。

人の問題を法を通して解決したことを信というのである。
「信楽を受持することは甚だもって難し、難の中の難、これに過ぎたるはなし」
人間としては一人ももれることのない問題を解決する。
それを信というのである。