« Ⅰ 人身受け難し | メイン | Ⅱ 純粋行としての信心 第一講 願を行ずる信 中 »

2007年03月18日

●Ⅱ 純粋行としての信心 第一講 願を行ずる信 上

以下は抜粋とノート

信巻に出てくる「如実修行相応」を「純粋行としての信心」といいなおした。

総序は教行信証全体を支配する意義をもっているが、その意義は総じては正信偈で終わっている。「遇い難くして今遇うことを得たり 聞き難くしてすでに聞くことを得たり」

別序「しばらく疑問を至してついに明証を出だす。誠に仏恩の深重なるを念じて、人倫の哢言を恥じず。浄邦を欣う徒衆、、穢域を厭う庶類、取捨を加うといえども、疑謗を生ずることなかれ、と。」
厳しい深い覚悟。

この二つの序には総別の関係がある。つまり、総じては法然を通して遇うことのできた仏法を述べ、別しては親鸞が私をまじえない心を述べて、深い覚悟を示している。総じては「聞くところを慶び、獲る所を嘆ずる」という正信が述べられるのであるが、別しては教行信証を製作せざるをえなかった正信についての問題が述べられるのである。三経一論の問題。

信を述べているのはむしろ行巻。行巻には、正信念仏というように、正信を念仏として述べている。「ただ念仏」というのが親鸞の正信である。

つまり正信は結論である。信巻は総のなかから別を開いているのである。

信巻の問答を帰結しているのが「如実修行相応」である。

教行信証の後序は法然との値遇いうことが主になっている。つまり後序からみると、教行信証は法然の選択本願念仏にこたえる意義がある。

浄土真宗ということは、法然の浄土宗こそ仏教の真宗であることを明らかにする意義をもっている。真宗とは「本願の念仏こそ真宗である」ということを意味している。法然の教えを基礎づけることが教行信証の仕事である。そのために親鸞は道綽、曇鸞、世親、龍樹という善導の背景にさかのぼった。そのなかでもっとも重要な位置をもつのが世親の浄土論である。

浄土論をそれ自身としてみると瑜伽教学の論である。曇鸞の論註によって、はじめて浄土論が三経一論という位置をもったのである。曇鸞が大無量寿経の本願に立って、浄土論を解釈したことで、浄土論が浄土真宗の論になった。

コメントする

(初めてのコメントの時は、コメントが表示されるためにこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまでコメントは表示されませんのでしばらくお待ちください)