メイン | Ⅱ 純粋行としての信心 第一講 願を行ずる信 上 »

2007年03月17日

●Ⅰ 人身受け難し

以下は抜粋とノート

仏教の問題は主体の問題である。

仏教では自覚ということが大切である。

主体がなければ自分がない。無駄に生きたことになる。空過。

宗教が問題にするのは、人間そのもの問題である。

自己が自己に背いて自己である
どれほど主体を考えない人間でも、主体の問題に近づくことがある。
それが死ということである。
死の問題はなぜ仏法の縁になるかというと、自分が死ぬからである。
しかし、どうしても逃れられないとなると狡猾な理性はこれを巧みに処理しようとする。
傍観者のように「話」の死にしてしまう。
自分をだます。

主体に対して現実問題を客体とすると、客体の問題から逃げるの場合が主観である。
気持ちの問題とか、心の問題というのは主観ということである。
気休め、これが主観である。
信仰が主観的信仰ならあってもなくてもよい。

自分が自分でない不安、この気分のところに本当の深い自分がある。
親鸞の念仏は浄土の教えである。
浄土というのは主体を見いだした世界である。
悠々と穢土にいることができる世界を浄土という。

無住処涅槃
住するということがないというところに住する。
主観は客体を拒むが、本当の主体は客体を拒まない。

本当の主体的な自覚が他力回向の信心である。
信心を明らかにするのに二種深信ということが言われる。

機の深信は「自身」、「わが身」(尊号真像銘文)とある。
仏法では「身」ということが大切である。
身というものは、我々が生きているということを決定している。
これが主体の問題を語る。

仏教の問題は自覚の問題である。
何ものの手段にもならず、何ものも手段にしない。

身ということで理性を超えた自覚が成り立つ。
生きているそのことを問題にするのが主体であるが、それをあらわすのが身である。
身の自覚を業という。
業が運命論になるのは、理性を超えたものを理性で解釈するからである。
業は無限に決まらない内容をあらわす。
また業という言葉は責任ということをあらわす。

生きたことを無駄にできない。
死んでも死に切れない。
そこに主体の問題がある。
迷うと、理知が我だと思うから主体とは何かが分からなくなる。

誰ともかわることができないものが自分というものである。
人間の一例として自分があるのではなく、むしろ自分が人間なのである。

私が救われるということは、人類の問題を私において解決するという意味をもつのである。
それが歎異抄でいう「親鸞一人」という言葉が持つ意味である。
一人が全体である。
そこに主体が成り立つ。

「人身受け難し、今、すでに受く。」
人身の尊さを見いださないものは無問題であり、「難」という必要もない。
人身の尊さを見いだした人がはじめて「難」という。

人の問題を法を通して解決したことを信というのである。
「信楽を受持することは甚だもって難し、難の中の難、これに過ぎたるはなし」
人間としては一人ももれることのない問題を解決する。
それを信というのである。


コメントする

(初めてのコメントの時は、コメントが表示されるためにこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまでコメントは表示されませんのでしばらくお待ちください)