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2007年03月19日

●Ⅱ 純粋行としての信心 第一講 願を行ずる信 中

以下は抜粋とノート

法然は念仏を選択というが、それに対して親鸞は念仏を回向という。つまり法然の教学は選択、親鸞の教学は回向である。この親鸞の教学が何にもとづくのかというと、曇鸞が浄土論の回向を解釈して二種の回向の相を明らかにしたことによる。浄土論の回向とは解義分の五念門の第五回向門の内容である。しかし、論註では回向を二種に分けた意義が必ずしも判然としていない。

曇鸞がはっきり言ったのは他力である。

一般的には自力という言葉に否定的な意味はないが、信仰概念としての自力は、自己の能力の過信であり、人間が人間自身を閉鎖していることである。つまり、人間中心の考え、人間の自己肯定、そういう意味を持った言葉として、自力が独自の概念になったのである。

法然は、念仏は「不回向の行である」とは言うが、念仏が如来回向の行であるとは言わなかった。親鸞が浄土論によって如来回向ということを明らかにしたことで、不回向の不回向たるゆえんが明らかになったのである。

曇鸞は五念門のうち後の三門(作願、観察、回向)には菩薩道の意義があると明らかにしようとした。

五念門の「念」とは念仏のことであろう。念仏という意味だけならば、一番目の礼拝門と二番目の讃嘆門でつくされている。ところが三番目の作願門のところに奢摩他、四番目の観察門のところに毘婆舎那という言葉が出ている。奢摩他は止、毘婆舎那は観、つまりこの二つは止観ということをあらわしている。止観の行は瑜伽の行である。つまり浄土論において「如実修行」という行とは、瑜伽の行としての止観のことなのである。

浄土を作願するのはもっぱら奢摩他のため。如実に奢摩他を修行せんと欲するがゆえに浄土を作願する。
一般仏教からいえば、「観」ということが安心を明らかにする方法であり、実践を代表する行である。自己を明らかにする方法を止観という。止観によって自利、回向によって利他をあらわす。大乗の止観、つまり作願、観察と回向で仏道を成就する菩薩行が出ている。

五念門全体は仏道であるが、凡夫が仏になるといっても飛躍的になるのではない。念仏において菩薩道が円満するから念仏が仏道となる。

だから曇鸞からいうと、回向だけが特別ではなく、作願を三種、観察を二種に分けたように、回向を二種に分けたのである。しかし親鸞は曇鸞が回向を二種に分けたことが独自の意義をもっていることを感得した。

曇鸞は回向を往相と還相の二種に分けたが、やはり回向の主体は衆生であった。しかし親鸞の場合は回向の主体は如来、つまり如来回向である。

二種の回向とは、回向の名義の問題でなく相の問題、あるいは体相の問題である。
これまでは回向は自力の立場で考えられていた。つまり我々の能力のうえに立てられる回向であった。浄土論でも一応そうみえる。しかし親鸞の場合の回向は、人間からの回向ではなく、むしろ人間がそれによって成り立つ回向、人間が成就せしめられる回向である。したがって人間からいうと回向を必要としない、努力というかたちをとらない回向である。この点から法然は不回向といった。親鸞は、そのような回向とは<如来の回向>であるといった。むしろ<如来が回向である>と明確に言ったというべきなのかもしれない。

<如来が回向である>ことを明らかにするのは二種の回向のなかでも還相回向である。
還相回向は浄土を得たものがはじめてできる行である。それはむしろ如来本願力のはたらきといってもよい。菩薩が仏になるというよりも、菩薩となった仏のはたらき、そういうことがあらわれているのである。

「浄土論」に「回向を首とす」とある。

親鸞は一番最後におかれた回向において、五念門全体を見なおしてくるような内容にふれた。つまり、五念門の終わりである回向が五念門のはじめであることに、曇鸞の二種の回向の教説を通じてふれたのである。

回向門は浄土論でも論註でも途中にあるが、親鸞は回向にはじめの意義を見出された。だから教行信証ではいちばんはじめにおき、教巻の冒頭に「謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり」とあるように回向が真宗独自の教学である。

法然は本願が立場であるが、親鸞は本願成就が立場である。人間は如来の成就であることをあらわしたのが念仏であり、それは人間を超えて人間が見なおされてきたということである。人間存在が如来の成就であることを明らかにするのが回向である。その一点に真宗の教学が尽くされる。

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