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2007年05月30日

●嶋地黙雷の「近代」

 明治五年一月、嶋地は、連枝沢融とともに外遊に出発した。財政の不如意と文明開化への無理解から、宗内には外遊反対の声が強かったが、この時期に両本願寺ともに新時代への対応を急いで外遊が断行され、欧米先進国の宗教事情と近代的な仏教学の発展とから、重要な教訓を得ることになった。
 嶋地は、英仏での見聞から強い印象を受けたが、その一つは、宗教が政治権力から毅然として独立していることにあった。もちろん、この独自性の背景には、長い宗教闘争の歴史があったのだが、こうした宗教のあり方に比べれば、大教院のもとでの仏教側の態度は、卑屈この上もないものと考えるほかなかった。こうして嶋地は、大洲鉄然ら故国の盟友にあてて、「宗旨には抗抵がなくては行われず、仏の大悲を学ぶ者は官人の鼻息を伺う様ではすまぬ」、「かようなる時勢になりながら政府に諛して教えを守などとは、算用のけた違に候」と書き送った。
 だが、こうした態度は、「真宗のほか、日本にて宗旨らしきものはなし。一神教でなければ世界ではものはいえず。幸いに真宗は一仏なり」という真宗の近代性への確信と結びついていた。これは、嶋地が外遊によって得たもう一つの重要な成果で、日本ではキリスト教に対比しうるほどに近代的なのは、一神教的な真宗だけであり、開帳・祈祷・卜占を仕事にしている真言宗や法華宗は、「叩きつぶす工夫が肝要」、禅宗・天台宗は学問で宗教とはいえず、八百万の神々を信ずるという神道にいたっては、宗教学的にはもっとも未発達な原始的宗教にすぎない、と嶋地は論じた。さらに嶋地は、ヨーロッパでは無頼の者をさして「オーム・サン・ルリジョン」、「無宗旨の人」というとのべ、ヨーロッパ文明の基礎に人心をふかくとらえている宗教が存在していることを洞察した。そして、こうした見地から、日本の近代化に真宗が果たすべき役割についての、昂揚してやまぬ信念が生まれてくるのであった。
(略)
 こうした嶋地の立場は、真宗の近代性への確信と、ナショナリストとしての情熱と、近代文明への希求とを、結びつけたものだった。もっとも近代的な宗教として真宗こそが、日本の近代化という課題にもっともよく応えうるのであり、そのことを西欧体験をへて確信した嶋地たちの使命は、きわめて大きいのであった。こうした確信と使命感の大きさとが、嶋地たちの大胆で手きびしい発言と情熱的な活動を支えていた。
(略)
 しかし、嶋地たちが、仏教とりわけ真宗をもっとも近代的な宗教だとし、それをもってまだ愚昧なままに眠っている人々を教導しなければならないとしたとき、それは、現実の真宗信仰とはまったくべつの宗教観念をもちだすことを意味していた。嶋地たちの頭脳のなかの真宗と現実の信仰とのこのズレは、嶋地たちの啓蒙意欲をかきたてたが、しかしそれは、啓蒙家としての独善性をもって現実に臨むことを意味していた。嶋地たちのこの啓蒙家としての独善性には、彼らがきびしく批判した神道家などの国民意識を統合をめざす独善性と、いくらか似たところさえもなくはなかった。それは、近代化していく日本社会に向けられた〝分割〟の、より近代化されたもう一つの様式にほかならなかったからである。

2007年05月29日

●松本白華

天保9年(1838)~大正15年(1926)(89)。大谷派、加賀本誓寺(松任市)の僧。号:厳護法城、法名:白華院厳護。明治5年(1872)教部省出仕、同年現如の宗教事情視察に随行して石川舜台、成島柳北らと西欧を歴訪し、航海録を著わす。同6年執事補。同10年東本願寺上海別院輪番。東本願寺宗政や護法運動に尽力した。

●真宗の独自性

 すでに述べたように、神仏分離政策以下の排仏的な気運のなかでも、東西本願寺派に代表される真宗の教勢は、必ずしも衰退に向かっていたのではなかった。成立直後の新政府は、財政的に両本願寺に依存するところが大きかったし、両本願寺の門末教諭にも期待しなければならなかった。そして、地方で廃仏毀釈が進められても、一貫してそれに抵抗したのは真宗であり、廃仏毀釈の嵐がすぎると、いちはやく寺院を再興させたのも真宗であった。神宮の大麻配布や説教をめぐって、もっともトラブルの大きかったのも真宗であり、大浜騒動や越前一揆のような闘争も、真宗地帯だからこそ発生したものであった。そして、地域でのこうした動向に対応するかのように、大洲鉄然・嶋地黙雷・赤松連城・石川舜台・松本白華など、新時代を代表するあたらしいタイプの僧侶たちが活発に活動するようになってきており、彼らは、西本願寺派の長防グループを中心に新政府の首脳部にもきわめて近い関係にあった。
 教部省と大教院は、こうした僧侶たちを中心にして、仏教側から政府首脳にはたらきかけて設立したもので、常世長胤のような復古派の神道家からすれば、教部省と大教院は、こうした真宗僧の陰謀によって生まれたとしてもよいほどで、それに手をかしたのが福羽美静や宍戸タマキのような長州閥の宗務官僚であった。常世は、教部省や大教院の設立とともに、そこで活動することになった真宗僧のことを憎悪を込めて記し、「教部省は真宗癖なる妖魅の巣窟となりて、他人いらずなり」(『神教組織物語』)と罵倒した。だが、こういう非難も、近代国家にふさわしい宗教のあり方を模索していた一部の僧侶たちからすれば、時代錯誤の教説にとらわれた者たちのさか怨みであったろう。国体神学の信奉者たちが、鬱屈した憤懣の思いにとらえられていたころ、一部の活動的な僧侶たちは、時代の動向をもっと冷静に見きわめ、文明開化や殖産興業の動向にも敏速に対応して、政治的社会的な発言力を強化しつつあった。
 だが、こうした一部の新しいタイプの僧侶たちの活動を、門末のより一般的な状況と切り離して理解してはならないであろう。この時代の真宗の動向と役割を理解するためには、いくつかの次元を区別し、その相互的な関連をとらえる必要があるだろう。
 まず、最も基底には、門徒民衆の宗教生活の独自性があるといえよう。真宗門徒は、大きな仏壇を家毎にそなえ、在家での説教や夜間の法談をおこない、神祇不拝の態度をとるものも多かった。近世の仏教は、葬儀と年忌法要の仏教として一般化していったのに、真宗では死者供養が簡略化される傾向があり、仏前に位牌を安置しない場合もあった。現在でも墓をつくらず、また神棚を祀らない地域があることが報告されているが、こうした性格は、明治初年まではいっそう顕著だったと思われる。要するに、真宗では、民衆の宗教生活にかなり発展した独自性があり、日常生活の全体がこうした宗教生活を軸に編成されているという点で、他の宗派とは区別されるのであり、そのゆえに、神仏分離以下の国家の宗教政策との葛藤も、いっそうきびしいものにならざるをえなかったのである。
 こうした門徒民衆の宗教生活を基盤にして、門末の寺院が存在しているのだが、これら寺院は、寺領・寺田などをもたずに門徒の布施に依存していること、真宗僧の妻帯生活にともなって、各寺院は特定の家によって相続され、地域の名望家としての地位を培ってきたこと、真宗の宗教活動の独自性の具体的内実として、法談・説教など、日常的な宗教活動を他の宗派よりはるかにかっぱつにおこなってきたこと、などの特色をもっていた。そして、こうした事情のため、廃仏毀釈がはじまると、これら末寺僧こそが地域を代表して護法のために奮闘することになった。それは、地域社会で要請された行為でもあったし、みずからの存在価値への問いかけでもあったろう。廃仏毀釈がきびしくなされた真宗地帯では、佐渡、富山藩・松本藩・大浜など、真宗末寺僧の必死の活動がなされている。彼らの活動様式の中心は、窮状を本山に訴えて本山から朝廷に陳情してもらうなどという微温的なものであったが、しかし、こうした様式の範囲のなかでは、彼らはきわめてねばりづよく、不屈の行動力を持っていた。
 こうした篤信の末寺僧からすれば、蓄髪・俗服で政府に出仕したりする活動的な僧侶たちは、宗義にそむく者のように見え、さらにさきの石丸八郎のばあいのように、そうした僧侶(僧侶出身の宗教官僚)こそが、真宗の信仰を破壊する張本人のように見えるばあいさえもあった。逆に、著名な僧侶たちからすれば、こうした篤信の僧たちは、時代の転換についての自覚が不足で、「区々たる歎願」(嶋地が富山藩の廃仏毀釈のさいの僧侶の活動を評した言葉)にのみ奔走している視野の狭い人たちのようにうつった。だから、中央で活動する著名な僧侶たちと、これら末寺僧とのあいだには、発想や行動様式のズレと対立もあったのだが、しかし、よりひろい視野から見れば、後者の活動をふまえて前者の活動もあったわけで、さらにいっそう基底部には、門徒大衆の独自の信仰生活があったのである。
 教部省の設置から「信教の自由」論の展開、そして、真宗の大教院離脱にいたる過程は、現象的に見れば、嶋地を先頭とする僧侶たちの大胆な論陣と政府首脳へのはたらきかけによって可能になったものであった。しかし、よりひろい歴史的な視野からすれば、佐渡、松本藩、富山藩などでの廃寺廃仏への粘り強い抵抗や、大浜騒動、越前一揆のような闘争などにおいてしめされた真宗信仰の固有性や強靭さこそが、限定づきにしろ、「信教の自由」への道をきり拓いた深部の力であった。

●宗教心の衰退・あらたな宗教体系の強制

 第四に、廃仏毀釈は、その内容からいえば、民衆の宗教生活を葬儀と祖霊祭祀にほぼ一元化し、それを総括するものとしての産土社と国家的諸大社の信仰をその上に置き、それ以外の宗教的諸次元を乱暴に圧殺しようとするものだった。ところが、葬儀と祖霊祭祀は、いかに重要とはいえ、民衆の宗教生活の一側面にすぎないのだから、廃仏毀釈にこめられていたこうした独断は、さまざまの矛盾や混乱を生むもとになった。そして、こうした単純化が強行されれば、人々の信仰心そのものの衰滅や道義心の衰退を引き起こす結果になりやすかった。ここに仏教が民衆教化の実績をふまえて、その存在価値を再浮上させてくる根拠があろうし、さらにもっと後までの見通しとしては、キリスト教や民衆宗教が活発に活動する分野が存在していたことも理解できよう。
 明治政府の指導者が確保したいのは、天皇を中心とするあたらしい民族国家への国民的忠誠心であり、国学者や神道家の祭政一致思想や復古神道的教説は、わりきっていえば、そのためのイデオロギー的手段として採用されたのであったから、国民的忠誠心を有効に確保してくれそうなどんなイデオロギーも、新政府と結びつきうる可能性があった。だから、国民の宗教生活に長い伝統を持つ仏教には、国民的忠誠心の確保という焦眉の課題についてのみずからの有効性を証明してみせることによって、その再生の道が拓けてくるはずであった。
(略)
 廃藩置県によって集権国家樹立の基礎を固めた明治政府は、四年以降、近代的国家体制樹立のための様々の政策を推進した。伊勢神宮と皇居の神殿を頂点とするあらたな祭祀体系は、一見すれば祭政一致という古代的風貌をもっているが、そのじつ、あらたに樹立されるべき近代的国家体制の担い手を求めて、国民の内面性を国家がからめとり、国家が設定する規範と秩序にむけて人々の内発性を調達しようとする壮大な企画の一部だった。そして、それは、復古という幻想を伴っていたとはいえ、民衆の精神生活の実態からみれば、なんらの復古でも伝統的なものでもなく、民衆の精神生活への尊大な無理解のうえに強行された、あらたな宗教体系の強制であった。
(略)
 ところが、廃藩置県をおえて集権国家としての体制をととのえた明治政府は、こうした民俗的なものへの抑圧をいっきょに強めていった。教部省と大教院による教化政策も、よりひろい視野からみれば、この開明的専制主義の一環であり、神仏各派は、その大合唱に加わることで、みずからの存在意義を政府に認めさせようとした。

●ご示談

吉田郁子 大黒や

 その昔は、別院でごまんさんがあると夜明かししたそうです。ですから、うち(大黒そばや)の番頭さんは、戦後になってからもごまんさんになると夜明かしするといわれたもんですが、もうその頃は夜明かしするようなことはありませんでした。それでも一一時ぐらいまではそばを食べにくる人はいました。
 ごまんざでは、ご示談といって信者さんがお坊さんにいろいろと質問したり、お坊さんがそれに答えたりします。また、信者さんの中にもいやそうじゃないと言う人がいたりして、討論会みたいなものだったんです。この日だけは、お坊さんの話をありがたく聞くというより、日ごろ疑問に思っていることをお坊さんに聞くような行事のようでした。
 私は一度だけですが、一一時ごろまでご示談を聞いた事があります。あるおばあさんが言われたんです。「私とこの姑さんが、いみずがえりされた(生き返った)がです。そしたら、極楽へ行ったら、極楽はいいとこで、けっこうでけっこうでならんとこだったって言われるがやけど・・・」。ほんとのことやら、その人が夢に見たことやらわからないような話もありました。不審なことや気がかりなことを聞かれるがですけど、おばあちゃんたちにすれば、今でいうレクレーションのようなものでもあったんでしょうか。

2007年05月21日

●別院建立の経緯

 越中は真宗王国であり、真宗寺院が多く、富山町の形成にも宗教が大きく影響していた。明治三年に合寺令・廃仏毀釈という仏教弾圧があったが、とりわけ富山では激しく、古寺町(現・梅沢町)などでは多数の寺院が破壊され、仏像・仏具も鋳つぶされた。翌年、この命令は修正されたが、富山町民はこうした弾圧に屈せず、寺院再建の気風は盛り上がっていた。

 (略)大谷派(お東)の説教所は明治13年に総曲輪に移転し、15年には本堂・庫裏が新築されたが、こちらも別院昇格を願い、門徒総代中田清兵衛さん、牧野平五郎さん、阿部初太郎さんらが本山に熱心に働きかけていた。

 両派門徒の運動が功を奏し、明治17年、ようやく本願寺大谷光尊大僧正と大谷派光勝大教生から富山県令国重正文へ別院昇格の願いが出され、認可された。この願書には、埋め立て費用は、婦負・上新川・下新川の本願寺門徒32000戸と大谷派門徒25000戸が一戸あたり50銭の一般寄付をおこない、残りは有力者が寄付することになっていた。こうして大手前の濠は坪20銭から30銭で払い下げられ、明治19年6月から10月まで農閑期を利用して、真宗両派の門徒により工事が始まった。男性は手ぬぐいをほうり冠りして半裸体、女性は菅傘に手甲キャハンで、神通川の土砂をお堀まで運ぶ「砂持ち奉仕」が行われた。この労役に加わった門徒数は延べ7000人以上といわれる。両別院の仮本堂は明治21年11月完成、その後何度か大火に見舞われたが、その度に門徒衆の奉仕は繰り返された。

●合寺令の経緯2

上の書から抜粋

明治三年(1870)一月四日
 加賀藩は神葬祭許可の布告に関連させて「仏法御取り潰しなどの浮説は事実無根なり」との大参事布告を出す。

明治三年十月、政府は民部省に寺院寮を設置した。これは真宗の嶋地黙雷・大洲鉄然らの寺院に対する中央機関設置の建白に由来されるといわれているが、それとともに頻発する各藩の合寺政策によってひきおこされた動揺が、地方政治の不安を招いている事実を、中央政府もみすごすことができない段階になったためと考えられる。それまで各藩からの合寺実施伺いに対し、各藩の藩意にまかせていた政府が、次第に慎重な態度を示し始める。「(略)富山藩の廃仏事件が、その態度変更の動機を与えたものであろう。」辻善之助「明治仏教史の問題」

明治三年十二月八日
 東本願寺では全国の末寺および門徒代表を招集し、地方廃寺対策を講じている。
 とくに状況が切迫していた富山藩に対しては、東本願寺派から松本厳護、西本願寺派から佐田介石を派遣し、実情を検分させるとともに藩庁と交渉をおこなわせた。

明治四年三月
 東本願寺門首現如が、富山藩の合寺についての藩内寺院の惨状を実地に見聞してきた松本厳護の添願書とともに嘆願書を提出する。

明治四年五月八日
 太政官は合寺による弊害が大きいから穏当な処置をとるように富山藩に命ずる。
 しかし、いまさら合寺を解除するのは難しいと判断し、二十日、そのままに差し置きたいと弁官に申し出る。富山藩では、これと同時に、合併所であった常楽寺・蓮華寺付近の町に通路を設置し、この道路の両側に一五歩ずつ地引をおこない、各寺院に分け与えようとしたが、合併寺院側は容易に妥協せず、旧地の復帰を主張して抵抗した。

明治四年七月二二日
 廃藩置県が行われ、合寺事件は未解決のまま富山藩は消滅し、この問題は、県が引き継ぐことになった。

●富山藩

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 加賀藩の支藩。1639年(寛永16)に加賀藩主前田利常の二男利次が独立し、婦負郡と新川郡の一部計10万石の領地を分与され成立する。

1676年(延宝4)の藩人口は7万4871人(武士7693・郡方5万968・町方と同続き1万6210・宗教者ほか833)、1810年(文化7)には、家中など含む領民は9万1245人となっている。

激動する幕末政局の中で、富山藩の藩士の一部も、藩政に積極的に発言を試み、1862年(文久2)には入江民部・林太仲・島田勝摩らは家老山田嘉膳の政治を批判する建白書を本藩に提出したが62年(元治元年)には島田が山田殺害へと暴走してしまった。富山藩も結局、本藩管理の下で、加賀藩同様に幕末政局に主体性を発揮できずに明治維新を迎え、廃藩置県によって消滅した。

北日本新聞社「富山大百科事典」より

●合寺合併寺院数の確定

「日本海地域史研究」第12号所収 栗三直隆「富山藩合寺事件 合併寺院数の変遷」より

A,東派(大谷派、東本願寺)
本寺三九か寺、寺中(塔頭)二八から九か寺、計六七~八か寺で史料はほぼ一致している。他に合寺直前に廃寺となった本寺一か寺、寺中一か寺を加えれば六九から七〇か寺となる。

B,西派(本願寺派、西本願寺)
本寺を一一八又は一二〇か寺、寺中ヲ五六又は六二(内、坊主名四)か寺と一致しない。本寺については二か寺が含まれていない可能性があり、さらに廃寺一か寺を加えると一二一から一二三か寺となる。寺中には寺号のない坊主名の道場や農民身分の道場主なども含まれるはずで、実数を把握するのは極めてむつかしい。仮に六二か寺としても、なお若干の増を見るべきであろう。従って西派本寺は一二一~一二三か寺、寺中は六二か寺以上、計一八三~一八五か寺余りとなる。これは近代の数字である寺院数にかなり接近した数で、異動や増減はあるにしても、これを下回る事は考えにくい。

 以上、A、Bを合計すると二五二~二五五(本寺一六一~一六三、寺中九一~九二)以上となる。

浄土真宗、日蓮宗、真言宗、修験道、天台宗、時宗、浄土宗、臨済宗、曹洞宗、明治三年(1870)閏10月、富山藩領の推定される寺院数は368~376余り、合寺合併寺院数は358~360。

2007年05月20日

●富山藩合寺令の性格

北澤俊嶺「明治維新における富山藩合寺事件について」

この論文は、県内で発行される合寺令研究において、「定説」とされていると言えるものだろう。

合寺事件の性格
 明治維新期における各地の廃合寺事件を通じて、大体二つの方向が観取される。
1、国学・儒学の廃仏論を理論的背景とするもの。
1、富国強兵・殖産興業の功利的立場から出たもの。
 後者は強兵の立場からは、幕末の水戸斉昭の例にならい、寺院の梵鐘・金具類等を徴収して兵器鋳造に宛て、富国の立場からは、寺院の維持を冗財とみなし僧侶に帰農を強要し開発耕作させることとなる。
 もちろんこの二つの潮流は、江戸時代以来次第に高まってきた一連の流れであるが、前者の廃仏論の基調となったものは、仏教の出世間主義に対する攻撃であり、後者は、前者の影響に触発されつつ、徳川幕政下の宗門改の檀家制度の上に安逸を貪ってきた寺院僧侶の堕落・横暴に対する反撃が、江戸中期以降次第に大きな力となって展開するものであり、折柄の近世社会経済の発達に伴う各藩財政の急迫及び海防攘夷の緊張と相関連して、次第に大きな力となっていた。
 明治新政府成立後は、王政復古による祭政一致の国策が確立し、神道が圧倒的優位の立場を獲得した時点においては、前者の廃仏論の立場からは、神葬祭の問題として強調される以外は、功利的な経世論的立場をとる後者が廃合寺問題の方向付けの主流となり、前者は之を支える理論的背景の役割を荷うようになっていった。

(略)従って富山合寺の性格は、廃仏論的傾向よりも寧ろ富国強兵のための社会的・経済的革新を目指して、旧弊一新のために、他藩に比して強大であった仏教の伝統的勢力を抑えて、藩政革新を期したものであろう。

(略)一方、長崎留学以来、文明開化の新知識を吸収し、さらに中央政府に使えて当時の革新的気風に乗じた林太仲にとっては、特に広沢参議との親交を背景に、守旧思想に満ちた藩政改革の意欲に溢れ、折から国内各地に連続した廃仏の風潮を取り入れ、先述の功利主義的立場と併せ考えて、思い切った合寺令を実行して、その手腕を発揮し誇示せんとしたと思われる。

●合寺令の経過

上の書から抜粋

明治三年(1870)閏十月二十七日、富山藩から領内の寺院に突如、すべての寺院は一派一寺にあらため、ただちに合寺せよ、という合寺令が発せられた。これは翌二十八日中に家具・仏具をとりはらい、指定された場所に合寺すること、二十九日の午前六時に藩の役人が検分に出向く、というきびしいものであった。しかも、檀家一同からの日延べなどの嘆願はいっさい聞き入られず、藩は武装した兵士を領内の要所に配置して寺院や信徒の動向を監視し、藩外、とくに各宗派の本山との連絡を断ち切るという徹底した取締りを行った。

合寺令がだされるまでに、林は閏十月初めよりやつぎばやに、寺院の活動に制限を加えた。おもなものをひろってみると、十月初旬に、浄土真宗寺院の年中行事である永代経勤修の日限を一ヶ月から七日間に短縮すると布告した。同七日には、士族の寺詣では、その都度、庶務方に許しを得るように通達している。翌八日には、一般の隠居が僧形したり、庵室や尼寺を構えたりすることを禁じ、同十四日には、寺院の寺鐘・太鼓の使用禁止を申し渡している。また、同十九日には、士卒に対し墓地は長岡御廟所の後方にある草付の場所を渡すから、寺院の境内にある墓は、ただちに改葬すること。今後、寺院の境内に埋葬することを禁ずる。ただし、自分の屋敷内には埋葬してもよいと通達した。

富山藩は、合寺令の執行にさいして数百人にのぼる武装兵士を配備し、合寺をためらうものは即時に逮捕するという厳戒態勢をしいた。これは他藩との接触や各宗本山からの干渉をできるだけさけるねらいであったと考えられ、合寺令と同時に、他藩からの僧侶の招待ならびに托鉢僧尼の止宿を禁止したり、他藩にある檀家をいっさい禁止したりしていることからもうかがわれる。この強引な合寺に対して、一般領民はただ驚くばかりであったが、同二十九日ごろまで数日間は、合併された場所へ手に手に金品・弁当などをもち見舞いにいく人びとで混雑をきわめたという。これに対して庶務方は二十九日、市正・里正を召集し、当分のあいだ、父母兄弟の忌日以外の婦人の参詣禁止、寺への供米をのぞくいっさいの物品持参の厳禁を命じた。

各宗派の合併所でもっとも悲惨をきわめたのは、浄土真宗の持専寺であった。他宗がひろい寺域へのわずかな寺院合併であったのに対し、真宗は二百数十ヶ寺・一二〇〇人あまりが持専寺の一三〇〇歩の境内、座敷と庫裏をあわせて一七〇畳、それに明徳寺七〇畳を加えたわずか二四〇畳のところへ雑居することになった。それは畳一枚に五人の割合であったという。

追い打ちするように、社寺方から十一月十七日、仏道に精進するものには寺号存続を許すが、怠惰な者は廃寺に処すという通達が出された。この結果、各寺院の寺号については一応許可されたが、宗教活動への強力な干渉は解消されなかった。

富山藩では、その後も合寺政策をおしすすめ寺院と関係ある富山の町名をのこらず改名したりした。例をあげると次の通りである。寺町→梅沢町、海岸寺町→八人町、寺内町→餌指町、古寺町→常盤町、御坊町→桃井町、長清寺町→相生町。

2007年05月08日

●本多弘之氏 解説より

先生は「自覚」という言葉を使われて、浄土の門は自覚にあるといわれますが、先生がおっしゃることばにこだわって、自覚ということを人間の自意識のようなものだと理解してはならないのであって、この講義でも自覚とは何であるか、人間の自覚ということはどういうことかを掘り下げておられますから、その辺りもよく理解していただきたいと思います。

親鸞聖人の信心、特に機の深信、罪悪深重の凡夫という深い自覚を如来の光に照らして本当に明らかに信知するということ、ここに浄土教が本当の意味で、人間を根源的に翻す宗教である意味をもっているとする安田先生の立場があります。

2007年05月07日

●如来広大の恩徳

仏性ということがいわれているが、仏性というところに、帰るということがある。浄土において仏性をあらわすとあるが、浄土は本願をあらわすもので、その本願をとおして自己に帰るということを示されるものである。換言すれば、自己を否定して自己を超え、本願の内で自己に遇うということである。

信巻の至心釈と信楽釈のところに、涅槃経によって信心仏性ということをといておられれる。真仏土巻の顕仏性ということと対応してのことであるが、仏性を説かれることは、教行信証ではこの二か所である。しかもそれは、如来回向の信心としての仏性である。仏性というものは、仏にあっても、衆生にあっても、変わらない一つのものである。信心が成仏の因だということも、そのゆえであって、それを涅槃経によって明らかにされたのである。

我々は流転ということについても、いたずらに歎くべきではない。本願に眼を転ずべきである。本願があることによって、流転を感ずるのである。衆生は、法身の流転である。如来法身の流転である。いかに流転しても如来自身を失うことはないのである。衆生は如来の因位であり、流転の位における如来である。このように涅槃経の教説によって大無量寿経の信心の意義を明らかにされている。

我々は平気で流転流転といっているが、その実、流転と思ってもいない。流転の自覚がないのである。流転の悲しみは仏にのみあることである。しかも、如来の大悲、すなわち願心は、衆生から離れた高いところから悲憐するというようなものではない。衆生そのものとなって、衆生とともに痛み、一つになって悩むということである。そうでなければ、流転といっても意義のないことになろう。そこに、呼びさまされたのが信心、呼びさます叫びが「欲生我国」である。

(乃至)これは、衆生の自覚において如来にふれることを明らかにするもので、衆生を忘れて如来にふれるものではないことを意味することである。浄土においてこそ、本来の自己に帰るのであり、そこに信心の自覚が与えられるのである。信心仏性は、往生成仏の自覚として与えられるのである。


いつでも、どこでもということが真実報土であるが、そこに時機純熟ということがある。一定の時がこなければいかれないということではない。かといって、いこうとしてける世界ではない。真実報土は時機到来すれば、そこにに開かれる世界であるが、予測されるものではないのである。自覚には時というものがある。

一定の時ということではなく、しかも、いつでもというところに、時機ということがあるのである。

(乃至)信心を開くということと、真実報土ということは一つである。現在に開く他力の信心は、信心そのものが未来の真実報土を証明するわけである。

未来を現在に証明するのである。ここでいう未来は、純粋未来ということである。どこまでいっても未来ということである。浄土はまさに、その純粋の未来の世界である。不純粋の未来は死後ということになる。

「仏性」は仏の問題ではない。衆生性すなわち、衆生とは何かという問題に応えたことばである。(乃至)佛教の人間観は菩提心に立つものである。人間が、人間を超えて、深い内面をつきつめて人間を見るのである。すなわち人間の祈りを探るのである。菩提心において敬礼し、菩提心において同情し、いわゆる人間に賢愚貴賎の区別をしない。人間の自覚の根底から人間を見るのである。流転の悲しみのあるゆえんである。

すなわち、仏から人間を見なければならないのである。信心は浄土の菩提心である。

悪業煩悩も、如来から呼びかけられた名であり、また呼びかけられた場である。こうして悪業煩悩の衆生が真実報土の確証を握るよろこびが恵まれてくるのである。

穢土も、浄土も自覚である。信心は信心仏性といわれ、回向の信心である。その回向の自覚というのが浄土の門である。それは回心において感ずることであるが、そのとき、回心させるものを「招喚」、回心した心を「信心」というのである。こうして、穢土に対して浄土を説き、浄土について真仮を分けられるのである。

浄土に真仮を分判されるのは、根源的に機の自覚を促されるためである。三願は、まず「至心信楽」といい、「至心発願」「至心廻向」といい、そこに信楽、発願、回向の別があるが、願というのは欲生である。欲生の上に三種の別が立つということは、欲生の道程を示すもので、浄土往生の願生心の歩みを表すものに外ならないことである。

ところが、発願や回向は浄土の信楽とはならないものである。信心といっても不純である。機が不純だからである。

二十願は、入ってまた出なければならない、念仏に遇ったのだから、それでよいはずだが、救われないのである。自力無効と知ったことによって、かえって、本願の念仏を力にしようとするのである。自力を捨てたかわりに念仏を拾うのである。念仏が手柄になり、自分が廃らないのである。念仏が、ためになり、ほこりとなり、肩が張るのである。

十九願では、自力とも気がつかない。二十願では、念仏に遇って、自力無効ということも知っていながら、(乃至)体験をかけてたのむところに、得意なものが生まれ、信者ということになり、捨てたものがかえって身につくのである。

十九願の機には、救いは仮令である。生の終わり、臨終を待たねばならない。(乃至)まだ本願を知らず、自ら本願の外にいるのである。二十願の者は、本願を聞くことを得たものであるが、なお本願の内にいながら、本願に背く者である。そこに化土という世界が恵まれ、当人としては、人間的なよろこびにいるのである。

三願転入は、親鸞の深い懺悔である。本願に背く罪の懺悔というような説明ではない。「我背くがゆえに、仏はさらに背く衆生にしたがう」という、無蓋の大悲に悲泣し、慶喜する。懺悔できない懺悔である。自力が廃れたということではない。捨てられないという悲歎のままに、内にありながら、外に走るものをなお取り込んで内に抱くという、広大無辺の仏恩の随喜である。

広大な恩徳は、「ついに本願に負けた」ということであろう。
浄土に真仮を分けるということは、本当に甚深のことがらなのである。(完)


2007年05月05日

●根元的方向転換

浄土真宗は「回向の教」である。南無阿弥陀仏とは「回向の法」である。今日、浄土宗と区別する理由は、回向の義によってである。

回向とは方向転換であり、回心といってもよいことである。

自力無効を知って自力を捨てる。すなわち、方向を転じるのである。如来からいえば回向で、われわれからいえば回心することである。

自覚ということは方向転換である。

他力にふれるところには、われわれの方向転換がなければならない。自力を転ずるところにこそ、他力はあるのである。

真実報土を自然の浄土というのである。浄土とは、無為自然の徳を具しており、相なきものに相を与えているのである。

形なく、あらゆる形を形とするために、老少善悪の人を選ばず、智愚貧富の区別なく包み、善人にも悪人にも平等に、好悪なく、無心に親しいところなのである。

仏土とは光であり、相なき相である。また、仏も光である。仏が光を放つというのではない。光が仏である。

光の根は我にあるのである。光の根が願である。光の浄土は目的としての浄土であるが、それを出発点として自覚の上に求めれば願である。その願の上に見出した光を、経では法蔵と説いているのである。

光を求めるものは、方向を転じて願に帰るべきである。帰れば、<そこに光あり>である。求めていく浄土は化土である。真実報土は出発点である。自覚として見出されたものである。南無阿弥陀仏の外に浄土はない。浄土は内面である。外に描いたものが化土といわれるのである。

浄土は南無阿弥陀仏の中にその根を見出さねばならないことである。

求めるものはすでに与えられている。それを未来としてあらわせば浄土である。過去に求めれば欲生我国である。向こうに行って救われるのではない。「どこから」というところに救いはあるのである。「どうにかなりたい」に救いはない。「どうして来たか」にあるのである。「自分そのものは何ぞや」、ということである。救いは脚下にある。求めるものは、振り返って浄土の門はいずこかとたずねるべきである。

真仏土巻に真実報土を説かれるのに、(乃至)仏性を説く。

仏性とは、本来の自己、自然の浄土ということをいわれるのである。すわなち、(乃至)本来の自己に帰るものであることをあらわされたのである。往くことによって帰るのである。帰らないのは化土である。これは自己を忘れたものである。自然の浄土は仏性をあらわすといわれるが、浄土は往くをあらわし仏性は帰ることを意味するものである。

往く浄土で、なぜ安心が得られるのかというなら、帰るからだと答えるべきである。浄土とは故郷である。

真実を欣求する者は「方向を転ず」べきである。転ずれば「欲生我国」と招喚の声を聞き、宿業が転ぜられるのである。

2007年05月04日

●人生問題の深義

浄土は、安心の立つところ、また帰するところで、つまり安心の世界である。安心といえば自覚である。すなわち、浄土は仏の世界であるが、その門は我々にあるのである。浄土は凡夫の思慮を超えたところであるが、その門は我々の自覚の上に開かれるものである。だから、我々の問題は、いかにしてその浄土の門を見出すかということににある。

浄土は深い意味の人生問題である。

すなわち、本願が、外には浄土を荘厳して我々に方向を示し、内には信心として名のるのである。だから、信心こそ浄土の門だというのであって、弥陀の浄土は本願を離れてはなく、内面的には密接に結びついているものである。

親鸞は回向の義を明らかにされた。それによって、本願を信ずるという、その「信ずる」が本願のはたらきであることが明らかとなり、したがって、他力にたすけられるということも、事実は信心にたすけられることが明瞭になったのである。

他力を信ずる信心といっても、自分の了見で信ずるということであるならば、信ずるのは人の心である。そうすれば、浄土といっても人間の心に描かれたものにすぎず、化土である。

懈慢というのは、精神生活の終止を意味するものであって、歩みがない。そこに満足して動かないでいるのである。

化土とは、このような形のものであるが、要は自力か他力かという信心の吟味にあるのである。信といっても回向の信心であるかどうか、すなわち浄土の真仮を分判する事によって、我々の信心が批判されるところなのである。

浄土はあくまで仏の世界であるが、化土は大悲止むなき如来の方便によるものであって、ともに仏の御意によるものである。

一般仏教では、報といえば化ならず、化といえば法でなく、報化は相対するものである。善導大師はじめ、その後の人も皆その見方に立っておられる。しかし、親鸞は独自の見方に立たれるのである。化といってもただの化ではなく、報である。報中の化だといわれるのである。浄土に真仮を分判するということが、真宗独自の面目である。

親鸞は、報中に化を見出され、信中に疑を自覚されたのである。

2007年05月03日

●安心立命の世界

浄土に帰するということも、念仏の信心をとおしてはじめてふれ得ることであって、つまるところ、われわれにとっては浄土とは信心の問題なのである。

念仏往生の教えを聞くことによって、安んじ得る世界を見出し、そこに自ら安んずるということが、浄土真宗の門徒であるという事になるのである。

穢土も、浄土も自覚の問題である。

浄土ということは、穢土に対してのことで、教理ではない。人間の心のそこに根ざすもので、今日いう人間の祈りである。

後生とは、後の生ということとともに最後の生ということでもある。衆生が最後に人間の形をとったということである。そこに、一切衆生の問題は私一人において解決すべき責任が生まれ、仏道ということが問題となるのである。およを人間が生きているということには精神があるのである。その精神を祈りといい、また菩提心というのである。

菩提心こそ、人間の本当の故郷である。そこによって浄土を感じ、穢土を感ずるのである。浄土とは故郷ということである。

(故郷とは)ただ見出すより外にないところであり、また何としても見出さなければならない本来の世界であって、そこに帰るまでは本当の安心は得られないのである。だから、浄土は安心の帰着点なのである。

(浄土門)門とは信心であり、それは穢土にあるものであって、しかも浄土に通ずるところである。

門というのは自覚の象徴である。

浄土と門とは別のものではない。門に至れば浄土にふれたのである。すなわち、浄土の門は内外を区別して、我々が常にその外にいることを知らしめる。

すなわち、たすかることなしにたすかるのである。穢土を離れずに浄土にふれるのである。これはただ信心によってのみ可能なのである。

浄土とは安心の問題である。

自覚なき浄土は実体化されたものであり、死後のことにならねばならないわけで、それが化土である。つまり、真仮を明らかにすることによって、はじめて安心を得られるのである。