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2007年05月20日

●合寺令の経過

上の書から抜粋

明治三年(1870)閏十月二十七日、富山藩から領内の寺院に突如、すべての寺院は一派一寺にあらため、ただちに合寺せよ、という合寺令が発せられた。これは翌二十八日中に家具・仏具をとりはらい、指定された場所に合寺すること、二十九日の午前六時に藩の役人が検分に出向く、というきびしいものであった。しかも、檀家一同からの日延べなどの嘆願はいっさい聞き入られず、藩は武装した兵士を領内の要所に配置して寺院や信徒の動向を監視し、藩外、とくに各宗派の本山との連絡を断ち切るという徹底した取締りを行った。

合寺令がだされるまでに、林は閏十月初めよりやつぎばやに、寺院の活動に制限を加えた。おもなものをひろってみると、十月初旬に、浄土真宗寺院の年中行事である永代経勤修の日限を一ヶ月から七日間に短縮すると布告した。同七日には、士族の寺詣では、その都度、庶務方に許しを得るように通達している。翌八日には、一般の隠居が僧形したり、庵室や尼寺を構えたりすることを禁じ、同十四日には、寺院の寺鐘・太鼓の使用禁止を申し渡している。また、同十九日には、士卒に対し墓地は長岡御廟所の後方にある草付の場所を渡すから、寺院の境内にある墓は、ただちに改葬すること。今後、寺院の境内に埋葬することを禁ずる。ただし、自分の屋敷内には埋葬してもよいと通達した。

富山藩は、合寺令の執行にさいして数百人にのぼる武装兵士を配備し、合寺をためらうものは即時に逮捕するという厳戒態勢をしいた。これは他藩との接触や各宗本山からの干渉をできるだけさけるねらいであったと考えられ、合寺令と同時に、他藩からの僧侶の招待ならびに托鉢僧尼の止宿を禁止したり、他藩にある檀家をいっさい禁止したりしていることからもうかがわれる。この強引な合寺に対して、一般領民はただ驚くばかりであったが、同二十九日ごろまで数日間は、合併された場所へ手に手に金品・弁当などをもち見舞いにいく人びとで混雑をきわめたという。これに対して庶務方は二十九日、市正・里正を召集し、当分のあいだ、父母兄弟の忌日以外の婦人の参詣禁止、寺への供米をのぞくいっさいの物品持参の厳禁を命じた。

各宗派の合併所でもっとも悲惨をきわめたのは、浄土真宗の持専寺であった。他宗がひろい寺域へのわずかな寺院合併であったのに対し、真宗は二百数十ヶ寺・一二〇〇人あまりが持専寺の一三〇〇歩の境内、座敷と庫裏をあわせて一七〇畳、それに明徳寺七〇畳を加えたわずか二四〇畳のところへ雑居することになった。それは畳一枚に五人の割合であったという。

追い打ちするように、社寺方から十一月十七日、仏道に精進するものには寺号存続を許すが、怠惰な者は廃寺に処すという通達が出された。この結果、各寺院の寺号については一応許可されたが、宗教活動への強力な干渉は解消されなかった。

富山藩では、その後も合寺政策をおしすすめ寺院と関係ある富山の町名をのこらず改名したりした。例をあげると次の通りである。寺町→梅沢町、海岸寺町→八人町、寺内町→餌指町、古寺町→常盤町、御坊町→桃井町、長清寺町→相生町。

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