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2007年05月20日

●富山藩合寺令の性格

北澤俊嶺「明治維新における富山藩合寺事件について」

この論文は、県内で発行される合寺令研究において、「定説」とされていると言えるものだろう。

合寺事件の性格
 明治維新期における各地の廃合寺事件を通じて、大体二つの方向が観取される。
1、国学・儒学の廃仏論を理論的背景とするもの。
1、富国強兵・殖産興業の功利的立場から出たもの。
 後者は強兵の立場からは、幕末の水戸斉昭の例にならい、寺院の梵鐘・金具類等を徴収して兵器鋳造に宛て、富国の立場からは、寺院の維持を冗財とみなし僧侶に帰農を強要し開発耕作させることとなる。
 もちろんこの二つの潮流は、江戸時代以来次第に高まってきた一連の流れであるが、前者の廃仏論の基調となったものは、仏教の出世間主義に対する攻撃であり、後者は、前者の影響に触発されつつ、徳川幕政下の宗門改の檀家制度の上に安逸を貪ってきた寺院僧侶の堕落・横暴に対する反撃が、江戸中期以降次第に大きな力となって展開するものであり、折柄の近世社会経済の発達に伴う各藩財政の急迫及び海防攘夷の緊張と相関連して、次第に大きな力となっていた。
 明治新政府成立後は、王政復古による祭政一致の国策が確立し、神道が圧倒的優位の立場を獲得した時点においては、前者の廃仏論の立場からは、神葬祭の問題として強調される以外は、功利的な経世論的立場をとる後者が廃合寺問題の方向付けの主流となり、前者は之を支える理論的背景の役割を荷うようになっていった。

(略)従って富山合寺の性格は、廃仏論的傾向よりも寧ろ富国強兵のための社会的・経済的革新を目指して、旧弊一新のために、他藩に比して強大であった仏教の伝統的勢力を抑えて、藩政革新を期したものであろう。

(略)一方、長崎留学以来、文明開化の新知識を吸収し、さらに中央政府に使えて当時の革新的気風に乗じた林太仲にとっては、特に広沢参議との親交を背景に、守旧思想に満ちた藩政改革の意欲に溢れ、折から国内各地に連続した廃仏の風潮を取り入れ、先述の功利主義的立場と併せ考えて、思い切った合寺令を実行して、その手腕を発揮し誇示せんとしたと思われる。

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