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2007年05月04日

●人生問題の深義

浄土は、安心の立つところ、また帰するところで、つまり安心の世界である。安心といえば自覚である。すなわち、浄土は仏の世界であるが、その門は我々にあるのである。浄土は凡夫の思慮を超えたところであるが、その門は我々の自覚の上に開かれるものである。だから、我々の問題は、いかにしてその浄土の門を見出すかということににある。

浄土は深い意味の人生問題である。

すなわち、本願が、外には浄土を荘厳して我々に方向を示し、内には信心として名のるのである。だから、信心こそ浄土の門だというのであって、弥陀の浄土は本願を離れてはなく、内面的には密接に結びついているものである。

親鸞は回向の義を明らかにされた。それによって、本願を信ずるという、その「信ずる」が本願のはたらきであることが明らかとなり、したがって、他力にたすけられるということも、事実は信心にたすけられることが明瞭になったのである。

他力を信ずる信心といっても、自分の了見で信ずるということであるならば、信ずるのは人の心である。そうすれば、浄土といっても人間の心に描かれたものにすぎず、化土である。

懈慢というのは、精神生活の終止を意味するものであって、歩みがない。そこに満足して動かないでいるのである。

化土とは、このような形のものであるが、要は自力か他力かという信心の吟味にあるのである。信といっても回向の信心であるかどうか、すなわち浄土の真仮を分判する事によって、我々の信心が批判されるところなのである。

浄土はあくまで仏の世界であるが、化土は大悲止むなき如来の方便によるものであって、ともに仏の御意によるものである。

一般仏教では、報といえば化ならず、化といえば法でなく、報化は相対するものである。善導大師はじめ、その後の人も皆その見方に立っておられる。しかし、親鸞は独自の見方に立たれるのである。化といってもただの化ではなく、報である。報中の化だといわれるのである。浄土に真仮を分判するということが、真宗独自の面目である。

親鸞は、報中に化を見出され、信中に疑を自覚されたのである。

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