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2007年05月05日

●根元的方向転換

浄土真宗は「回向の教」である。南無阿弥陀仏とは「回向の法」である。今日、浄土宗と区別する理由は、回向の義によってである。

回向とは方向転換であり、回心といってもよいことである。

自力無効を知って自力を捨てる。すなわち、方向を転じるのである。如来からいえば回向で、われわれからいえば回心することである。

自覚ということは方向転換である。

他力にふれるところには、われわれの方向転換がなければならない。自力を転ずるところにこそ、他力はあるのである。

真実報土を自然の浄土というのである。浄土とは、無為自然の徳を具しており、相なきものに相を与えているのである。

形なく、あらゆる形を形とするために、老少善悪の人を選ばず、智愚貧富の区別なく包み、善人にも悪人にも平等に、好悪なく、無心に親しいところなのである。

仏土とは光であり、相なき相である。また、仏も光である。仏が光を放つというのではない。光が仏である。

光の根は我にあるのである。光の根が願である。光の浄土は目的としての浄土であるが、それを出発点として自覚の上に求めれば願である。その願の上に見出した光を、経では法蔵と説いているのである。

光を求めるものは、方向を転じて願に帰るべきである。帰れば、<そこに光あり>である。求めていく浄土は化土である。真実報土は出発点である。自覚として見出されたものである。南無阿弥陀仏の外に浄土はない。浄土は内面である。外に描いたものが化土といわれるのである。

浄土は南無阿弥陀仏の中にその根を見出さねばならないことである。

求めるものはすでに与えられている。それを未来としてあらわせば浄土である。過去に求めれば欲生我国である。向こうに行って救われるのではない。「どこから」というところに救いはあるのである。「どうにかなりたい」に救いはない。「どうして来たか」にあるのである。「自分そのものは何ぞや」、ということである。救いは脚下にある。求めるものは、振り返って浄土の門はいずこかとたずねるべきである。

真仏土巻に真実報土を説かれるのに、(乃至)仏性を説く。

仏性とは、本来の自己、自然の浄土ということをいわれるのである。すわなち、(乃至)本来の自己に帰るものであることをあらわされたのである。往くことによって帰るのである。帰らないのは化土である。これは自己を忘れたものである。自然の浄土は仏性をあらわすといわれるが、浄土は往くをあらわし仏性は帰ることを意味するものである。

往く浄土で、なぜ安心が得られるのかというなら、帰るからだと答えるべきである。浄土とは故郷である。

真実を欣求する者は「方向を転ず」べきである。転ずれば「欲生我国」と招喚の声を聞き、宿業が転ぜられるのである。

コメント

>回向とは方向転換であり、回心といってもよいことである
この言葉に目がとまりました。新しい発見のような、…頷いてしまったり…

安田先生は、内と思っていたものが外に、外と思っていたものが内にというような、常に逆転の発想とでもいうものがあるように思います。
佛教自体がそういうものなんでしょうけれど。

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