« 根元的方向転換 | メイン | 本多弘之氏 解説より »

2007年05月07日

●如来広大の恩徳

仏性ということがいわれているが、仏性というところに、帰るということがある。浄土において仏性をあらわすとあるが、浄土は本願をあらわすもので、その本願をとおして自己に帰るということを示されるものである。換言すれば、自己を否定して自己を超え、本願の内で自己に遇うということである。

信巻の至心釈と信楽釈のところに、涅槃経によって信心仏性ということをといておられれる。真仏土巻の顕仏性ということと対応してのことであるが、仏性を説かれることは、教行信証ではこの二か所である。しかもそれは、如来回向の信心としての仏性である。仏性というものは、仏にあっても、衆生にあっても、変わらない一つのものである。信心が成仏の因だということも、そのゆえであって、それを涅槃経によって明らかにされたのである。

我々は流転ということについても、いたずらに歎くべきではない。本願に眼を転ずべきである。本願があることによって、流転を感ずるのである。衆生は、法身の流転である。如来法身の流転である。いかに流転しても如来自身を失うことはないのである。衆生は如来の因位であり、流転の位における如来である。このように涅槃経の教説によって大無量寿経の信心の意義を明らかにされている。

我々は平気で流転流転といっているが、その実、流転と思ってもいない。流転の自覚がないのである。流転の悲しみは仏にのみあることである。しかも、如来の大悲、すなわち願心は、衆生から離れた高いところから悲憐するというようなものではない。衆生そのものとなって、衆生とともに痛み、一つになって悩むということである。そうでなければ、流転といっても意義のないことになろう。そこに、呼びさまされたのが信心、呼びさます叫びが「欲生我国」である。

(乃至)これは、衆生の自覚において如来にふれることを明らかにするもので、衆生を忘れて如来にふれるものではないことを意味することである。浄土においてこそ、本来の自己に帰るのであり、そこに信心の自覚が与えられるのである。信心仏性は、往生成仏の自覚として与えられるのである。


いつでも、どこでもということが真実報土であるが、そこに時機純熟ということがある。一定の時がこなければいかれないということではない。かといって、いこうとしてける世界ではない。真実報土は時機到来すれば、そこにに開かれる世界であるが、予測されるものではないのである。自覚には時というものがある。

一定の時ということではなく、しかも、いつでもというところに、時機ということがあるのである。

(乃至)信心を開くということと、真実報土ということは一つである。現在に開く他力の信心は、信心そのものが未来の真実報土を証明するわけである。

未来を現在に証明するのである。ここでいう未来は、純粋未来ということである。どこまでいっても未来ということである。浄土はまさに、その純粋の未来の世界である。不純粋の未来は死後ということになる。

「仏性」は仏の問題ではない。衆生性すなわち、衆生とは何かという問題に応えたことばである。(乃至)佛教の人間観は菩提心に立つものである。人間が、人間を超えて、深い内面をつきつめて人間を見るのである。すなわち人間の祈りを探るのである。菩提心において敬礼し、菩提心において同情し、いわゆる人間に賢愚貴賎の区別をしない。人間の自覚の根底から人間を見るのである。流転の悲しみのあるゆえんである。

すなわち、仏から人間を見なければならないのである。信心は浄土の菩提心である。

悪業煩悩も、如来から呼びかけられた名であり、また呼びかけられた場である。こうして悪業煩悩の衆生が真実報土の確証を握るよろこびが恵まれてくるのである。

穢土も、浄土も自覚である。信心は信心仏性といわれ、回向の信心である。その回向の自覚というのが浄土の門である。それは回心において感ずることであるが、そのとき、回心させるものを「招喚」、回心した心を「信心」というのである。こうして、穢土に対して浄土を説き、浄土について真仮を分けられるのである。

浄土に真仮を分判されるのは、根源的に機の自覚を促されるためである。三願は、まず「至心信楽」といい、「至心発願」「至心廻向」といい、そこに信楽、発願、回向の別があるが、願というのは欲生である。欲生の上に三種の別が立つということは、欲生の道程を示すもので、浄土往生の願生心の歩みを表すものに外ならないことである。

ところが、発願や回向は浄土の信楽とはならないものである。信心といっても不純である。機が不純だからである。

二十願は、入ってまた出なければならない、念仏に遇ったのだから、それでよいはずだが、救われないのである。自力無効と知ったことによって、かえって、本願の念仏を力にしようとするのである。自力を捨てたかわりに念仏を拾うのである。念仏が手柄になり、自分が廃らないのである。念仏が、ためになり、ほこりとなり、肩が張るのである。

十九願では、自力とも気がつかない。二十願では、念仏に遇って、自力無効ということも知っていながら、(乃至)体験をかけてたのむところに、得意なものが生まれ、信者ということになり、捨てたものがかえって身につくのである。

十九願の機には、救いは仮令である。生の終わり、臨終を待たねばならない。(乃至)まだ本願を知らず、自ら本願の外にいるのである。二十願の者は、本願を聞くことを得たものであるが、なお本願の内にいながら、本願に背く者である。そこに化土という世界が恵まれ、当人としては、人間的なよろこびにいるのである。

三願転入は、親鸞の深い懺悔である。本願に背く罪の懺悔というような説明ではない。「我背くがゆえに、仏はさらに背く衆生にしたがう」という、無蓋の大悲に悲泣し、慶喜する。懺悔できない懺悔である。自力が廃れたということではない。捨てられないという悲歎のままに、内にありながら、外に走るものをなお取り込んで内に抱くという、広大無辺の仏恩の随喜である。

広大な恩徳は、「ついに本願に負けた」ということであろう。
浄土に真仮を分けるということは、本当に甚深のことがらなのである。(完)


コメントする

(初めてのコメントの時は、コメントが表示されるためにこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまでコメントは表示されませんのでしばらくお待ちください)