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2007年06月09日

●第一講 生命の構造 1

以下は読書メモ

「浄土論」では器世間・衆生世間を総合するのに願心荘厳をもってされる。願心が総合しているわけである。

昔から国土に対して仏は主体、国土は客体と考えているが、それは無理であろうと思う。主体はむしろ心である。身は土に対しては主体かもしれぬが、身の主体を求めれば心であろう。だから身が主体とというよりも、身も土も客体である。

さて、身と土を総合するのは心である。心が無為涅槃の中に新しい世界を見出してくる。これは、我々よりは安心、仏よりは願心である。つまり涅槃の中に精神生活を見出すわけである。人間を超えた仏の世界に我々の生活を見出す。その生活を身と土で表すわけである。器世間は土、衆生世間は身であるが、体はいずれも色法である。器世間は外の色法であって、外なる物質を土という。内なる物質を身体という。このように内外をいうのは、心がいうわけである。心の中に見出されたのが身、外に見いだされたのが土である。身体は自覚そのものの内容である。

他人の感覚は想像されるものであるから不共という。これに対して外の環境は共同である。

環境はどこまでも土であって共同であるが、心は不共同である。土は我と衆生と共同する。しかも浄土は仏だけのものであるが、仏が荘厳される土である限り共同のものがある。そこに如来の正覚と一如であるという意義が明かされてくるのであろう。

所帰の土には、身と土の区別があるが、「観彼世界相 勝過三界道」とか、あるいは二種世間荘厳功徳とかいわてあって、いずれにしても所帰たる、つまり帰している、帰すべき世間(身・土)を表している。これまでの顕真実教・行・信・証四巻を通して感得され、帰している世間を表すのが第五巻である。前四巻では能帰の心を明かし、第五巻については帰すべき身土なれば可帰の身土といわねばならぬ。可帰とは超越性を意味する。安心の対象面を表す。今第五巻は所帰とある。これは安心の内容を表す。帰しているものであって、帰すべきものではない。能帰の心が内に感得しているものを表す。

能は機の自覚のみにある。信が能帰である。前四巻は能帰の機とあるが、さらに能帰中の能帰は信にある。結局、教行信証は大信心におさまる。しかもこの大信心の感得するものが、「真仏土巻」にあるわけである。

 換言すれば教行信証は我々にあるが、真仏土は機を離れた法であることが大切である。信も如来より賜った信なるゆえに四法としてある。しかも信を賜ったことをおさえていけば、能帰の信として衆生にある。衆生に頂いた法であって、その自覚は衆生にある。これに対し真仏土は仏に属する。衆生の自覚を通して感得された、しかも衆生を超えた仏の世界を明らかにする。浄土は仏の世界であるが、浄土の自覚はここにある。それで「浄土の真証」といわれる。

 前四巻は浄土の門(自覚の門)というものを広く明らかにされた。浄土の門は穢土にある、即ち信心、自覚を通してある。浄土は穢土を超え、穢土を包むものである。

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