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2007年06月10日

●第一講 生命の構造 2

以下は読書ノート

前四巻は教行信証を回向に包んで、回向された教行信証、これを往還二回向で述べてある。
回向は衆生の上にある。

仏のまこと(徳)がそのまま衆生の上に成就するのを回向という。これが真実である。仏の名たる南無阿弥陀仏が我々の成仏の身となるというわけである。我々の行は本願の行であり、即ち南无阿弥陀仏である。よって「本願名号正定業 至心信楽願為因」とある。至心信楽は仏の御心である。仏の御心は、機の深信である。我々衆生の痛みは、我々の思いや反省ではない。仏の痛みとしてある。その深い仏の大悲心が信楽である。また証というのは真実信心の利益である。教行信証はことごとく如来が我ら衆生となって成就してくだされた道である。それ故に回向であるわけである。

浄土に回向ということはないのであって、回向は教行信証、即ち我々の上にある。その回向を通して触れる世界が浄土である。

衆生が己を徹底するところに浄土が開け、仏がある。衆生たることを忘れれば、仏も化仏であり、土も化土である。真の浄土は衆生の自覚にある。これが仏道の本来の精神である。仏道は自覚道である。自覚のみがよく人間を超えしめる。救済も、自覚のみが救済たり得る。どこかからどこかへ往くのでない。飛躍や忘却でない。まして人間にとどまることでもない。人間を人間と知るのが、人間を超える道である。

聖道門を捨てるというが、仏教の精神を捨てれば、浄土教は外道となる。阿弥陀様は困ったものを救うというが、それだけでは方便化仏である。あくまで衆生の道を明かす自覚が大切である。真実報土に往生するといわれるが、前四巻を明らかに頂けば、往かずして往く、来ているということである。往くは方便化土、来迎は化身である。だから衆生を明らかにすれば、感得されるわけである。触れればよいのであって、ここへ出てくるのではない。触れる機(自己)を磨けば、仏は映る。自己を忘れて仏を求めるのは、自己の分際を知らぬからである。仏教は、自己を磨くことである。磨けば映る。如にして来ているわけである。仏に触れればよい。その触れる道が教行信証である。触れたのを摂取不捨とか現生不退という。よって仏に触れるのを前四巻で明かし、触れた仏を明らかにするのが第五巻である。仏に照らされた眼で、照らした仏を明らかにするのが第五巻である。

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