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2007年08月26日

●合寺令事件と松本白華 ー教団の近代化ー(草稿)

 現在修復中の別院本堂裏に、ひっそりと建っている石碑があります。 富山大火、富山大空襲を経て、碑文の半分は損壊して読めません。それでも、明治維新の際に富山藩で廃仏毀釈があったこと、明治13年にここに説教所が建てられ、17年に別院へと昇格した際に石碑が建立されたこと、そして松任本誓寺の住職、松本白華(1838~1927)がこの文章を書いたということが読み取れます。

 明治2年、富山藩合寺令事件が勃発しました。富山藩へ赴き、調査、交渉を行うことを本山から命じられたのが白華でした。多くの寺が打ち壊され、鐘楼・仏具が武器へと鋳潰され、僧侶が還俗を迫られている悲惨なありさまを、白華だけではなく、本願寺派の島地黙雷、大谷派の石川舜台らが目撃しました。仏教は役に立たない空理空論であり、僧侶は門徒の上に胡座をかいてるだけで必要ない。厳しい廃仏毀釈が目の前で実行されていたのです。
 白華は政府、藩、そして本山に対して、次々と調査書や意見書を提出します。例えば明治4年、本山にあてた報告陳情書のなかで、文明開化によって人々の交流は自由であるとされているのに、戒厳令が引かれているような様の富山藩の状況はどういうことなのかと抗議しています。この書はそのまま政府への要望書に添えられて提出されます。白華のめざましい活動は、当初事件を静観していた政府の方針を変えさせる大きな一因となりました。 
 その翌年の明治5年、黙雷、白華、舜台は欧州視察に旅立ちます。まだ事件が解決に向かう途上ですが、「近代化」という機運にどのように対応し、参画していくのかが危急の課題でした。新時代の教団の方向を探る旅でした。
 帰国後、島地黙雷は真宗は近代的宗教であるという自負を持ち、神道国教化を計った大教院からの離脱を促し成功します。「三条教則批判」の中で、政教分離、信教の自由を主張。合寺令事件から20年後に施行された明治憲法に「信教の自由」を加えることに大きな役割を果たしました。
 石川舜台は、明治・大正期の大谷派宗制改革の中心に立ちます。明治10年に白華を上海別院輪番として派遣するなど、浄土真宗を「世界の真宗」へと変貌させようと試みます。人材養成にも力を注ぎ、南条文雄、清沢満之、井上円了など近代教学の担い手となった人々を育てます。
 両堂再建の翌年(明治29年)、停滞していた宗門改革を図ろうとする清沢満之らによる白川党改革運動が起きます。白華は改革派の嘆願書を提出する総代として名を連ね、いったん下野していた石川舜台が再び改革の中心に立ち、宗議会の設立、寺務体制、財政機構、教学教化の近代化を進めます。舜台は殖産興業の機運にのった事業経営も試み、寺檀制度に頼らない教団運営を試みますが失敗に終わり、失脚します。
 こうして明治期の仏教者たちによるめざましい努力によって真宗教団の近代化は、国家体制の近代化に先行するようなペースで推し進められました。しかし、近代化路線は、真宗教団の独立性・主体性を薄め、天皇制国家体制の確立に追随することでもありました。
 富山藩合寺令事件から百年後、太平洋戦争末期、真宗教団は武器として鋳潰すために、今度は自ら梵鐘、仏具を供出します。多くの僧侶たちが兵士として戦場へ赴き、戦死しました。それは「自らの廃仏毀釈」であったはと言えないでしょうか。再興された富山の寺々も大空襲によって焼き払われました。さまざまな思いが先人たちの心に交錯したことでしょう。

 さて、白華の生涯を調べる中で、安政5年(1857)、19歳のエピソードが目に留まりました。金沢藩で大規模な飢饉や疫病の流行が起こったのです。そのとき「親子兄弟等身寄のない人には寺を開き、粥を与え耕地を開き、小屋を建て、甘藷を栽らせ、引き取り手のない無縁の仏にも手をさしのべられた」とあります。私にはこのお話が、富山藩合寺事件に奔走した白華の原点であったと思えてなりません。石碑の碑文は、抑圧された人々の側に立った白華の姿を、現代に伝えているようです。

2007年08月25日

●教団の「近代化」

「真宗史料集成 第12巻」 森龍吉「解題」より抜粋


 「教団の近代化」はまず体制と組織の近代化からはじまった。その問題意識は廃仏毀釈の受難をいかに押し返し克服するかという過程に胚胎する。仏教の主体性を回復するためにはさきに述べたように近世後期以来高まってきた廃仏論が指摘する寺院および僧侶の堕落と非生産性からいかに脱却するかという問題があった。その一つの方向としてはすでにのべたように戒律の復興を志し、「方外」の民であることを宣言して清規を回復する道がある。そしてもう一つは進んで世俗化に対応し、世俗世界における近代化の論理を体制と組織のなかに吸収して、新しい体制と組織を創出することである。ただし後者には道念の希薄化を増す危険性がある。その点を考慮すれば、すでのその前近代的温床となっていた寺檀制度を解体して、信仰の連帯による教団の再編成を指向せねばならない。それは困難でもあり、教団と寺院組織の経済的基盤を深刻に動揺させる危険がともなう方策である。しかし、ともあれこの二つの方向のいずれかを選びとらねばならぬ関頭に明治初期の仏教界は立たされた。この選択にあたって、仏教教団は自由に選びとれる事情ではなかった。そこには政治的・社会的状況というものがある。明治維新以来の政治的課題は絶対主義的統一国家の建設にあった。一切の国土と人民が、王土であり王臣でなければならぬという国家政策からいえば、「方外の民」はゆるされず、僧侶もまた俗性を強いられた。「釈」とか「禿」の字を持って抵抗した事例はいくつかあるにしても、それは一般化しえなかった。このような状況と課題のなかでとりうる道は次第に後者にしぼられ、その路線のうえで新しい展望を求めるほかはなかった。(略)
 まず、(真宗)教団の近代化は、政教分離の近代的原則を主張することで神道国教化の直接支配をくいとめ、国家憲法に該当する教団宗法を制定し、地方行政制度を確立し、そのうえで宗議会を開設するという方向で進められた。その結果、明治十年代においては国家体制の近代化に先行する姿勢をしめした。その後この近代化路線は絶対主義国家体制の確立にともないそれに追随し、規制される。政教分離の原則主張は後退し、国家神道の支配が、「神道非宗教」という詭弁政策によっておおいかぶされ同二十年代となると固定化されてくる。その転化を起点として、日本の資本主義的発展の路線を追いかけるように、布教活動を拡げつつ、工場・刑務所・軍隊および移民地・植民地に進出し、国家権力との関係を深めつつ、「公認宗教」の雄となる方向へ進展するのである。ここに教団の近代化路線は独立的・主体的意味を喪失し、「真俗二諦」と、「王法為本」の宗是の新しい確立が強調され、門徒民衆の生活の物心両面にわたる要求をうけとめる機能をうしなっていった。明治二十年代の後半から「宗教改革」と「教団改革」の自覚や運動が、在野的立場から一部僧俗の間に台頭しはじめるのはそのためである。先進性はこの段階から体制の指導者よりも在野の批判者に転移するとみなければならない。